征歴1917年 帝國劇場にて約束を果たす
征暦1917年の冬。
嬉しい特別招待が、とある少女たちの元にやってきた。
「……これが私?」
雪が降るほどの寒さでも、アヤの心は反対に暖まっていた。
久しぶりの帝國劇場。
唯一の友との約束を果たすために、アヤはやってきた。
劇場に到着して早々、アヤは鏡の前で視線を落としてその場でクルンと一回転してみせる。劇場のドアマンが開けてくれた扉のガラスにぼんやりと反射した自分は、驚きと喜びが混ざり合った笑みを浮かべていた。
清純さを演出する真っ白なドレスの上に厚手のコートを肩で羽織り、アヤはここまで優雅に雑踏の中を歩いてきた。久しぶりのヒールだったが、転ぶどころかむしろ足取りは軽かった。ネックレスについている大玉の真珠も彼女が歩くのに合わせて嬉しそうに跳ねている。
こうして品のある良家の雰囲気を纏ったアヤは、様々なポーズをとって、変わり映えした自分をガラスに映して待ち時間を楽しむ。少し前まで毎日着ていたメイド服の落ち着いた色調に懐かしさを覚えたりしながら、懐中時計を確認した。
思わず目が点になってしまう。
「まだ一時間前か。早すぎた」
右手に握りしめていた劇場チケットの券面に視線を移す。
『関係者特別招待――Scarlet Bullet〜少女たちの勇気と覚悟の物語〜』――怪我の治療を終えたばかりで、家で寛いでいたアヤのもとに突然送られてきた差出人不明の招待状と「劇場で貴女を待つ」という一文だけが書かれた手紙。あの手紙を一目読んだときから、アヤは今日という日を楽しみに生活を送っていた――が、劇場の開場時間は午後八時。
現在時刻は午後七時。
さすがにまだ観客の姿もない。
絢爛豪華な照明たちが煌々と空間を照らす劇場のエントランスも、どこか虚しさを感じさせる。
「こんな早くに来たのが知られたら絶対に笑われちゃう」
あの人がそれを知ったら絶対にお腹を抱えて笑うだろう。
アヤは、久しぶりに会う友が彼女を見つけてほくそ笑む様子を想像して、ついバツが悪そうに視線を落とした。楽しみにしていたことは間違いないが、あまりにも不器用すぎる自分のことが嫌になりそうになる。
寒い。アヤはコートの前をしっかりと閉じて、落ち着いて吐息で手を温めた。
「あのー……」
背後から優しい男の声。
聞き覚えのある声だったが、振り向かない。
アヤは唇を固く結んだ。
「お嬢様、中で待たれませんか?」
ドアの前でウロウロと落ち着きのない様子を見せるアヤを心配したドアマンが、ドアを閉めて彼女にそっと近づく。だが、アヤは男の優しい提案に対して、力強く首を横に振る。
「……いいえ、ここで待たせていただきます。お気遣いありがとうございます」
強がった。
ただ、あまりの寒さに早く家を出過ぎたことを後悔しつつあった。
自分だけはしゃぎ過ぎたのかもしれない、と。
だが、それは杞憂だったらしい。
雪を踏み締める足音が、アヤの背後に近づく。
『――リン?』
アヤは急いで振り返る。
それこそ、勢い余って手刀が飛びそうな速度で。
アヤは目が大きく見開いて駆け出した。
「メイ!」
「あははっ! 貴女も早く来ていたのね」
白いコートを着たご令嬢の姿を見た瞬間、アヤの心拍数が跳ね上がった。
メイも無邪気な笑みを浮かべながら嬉しそうにしている。あどけない笑顔には年齢相応な可憐さが宿る一方で、足元で光る真っ赤なピンヒールが妖艶な大人っぽさを演出している。
少し会っていないだけで一気に大人っぽさが増したようだ。
アヤは安堵した。
顔が熱くなる。
メイも頬を桜色に染め、アヤの右手を愛おしそうに両手を握る。
「嬉しい。もし来なかったらどうしようって思っていたから」
「そんなわけないじゃない。約束したんだから」
「うふふ、そうよね……来てくれてありがとう」
メイは静かにアヤに抱きつく。
メイの額がアヤの肩に乗り、アヤの吐息がメイの耳にかかった。
「ねぇ、どうしたの?」
「……貴女、怪我は治ったの?」
甘えたような声。顔を見ずとも責任を感じていることがわかる。
少女の心配にアヤは彼女の頭を優しく撫でて答える。
「まだ少し痛むけどね。これくらい大したことないわ」
それでもメイがアヤの怪我を気遣って腰に回っている腕に力を入れていないことに気づく。
アヤは彼女を受け入れて強く腰を抱き寄せた。
脇腹からわずかな痛みが走ったが、メイの温もりがそれを上回る心地よさをアヤに与えてくれる。
二人は、近くを行き交う人々の好奇の視線も気にせず、互いの無事を確かめるようにしばらく固く抱き合った。
「それよりメイのほうこそ大変じゃないの? お兄様が亡くなってしまって……」
「大丈夫。お父様の方が憔悴していたけど……私たちは止まってはいけないから」
「結構忙しいそうね」
「まぁね……お父様の相談役になって間接的に経営に参加するようになってからは特にね」
「すごいわね。メイは」
「全然よ。まだまだスズカたちのやり方を支持する社員も多い。それに、私はまだ正式に経営に参加しているわけじゃないの。今はあくまでもお父様の非公式な相談役よ。年齢やお兄様のこともあるし」
「少しずつ……よくなっている…………のかな?」
「えぇ、少しずつだけど。密貿易は『八咫烏』の協力もあってすぐに止められたし本当に感謝している。あの資料を貴女たちがしっかりと保管してくれていたおかげで、私も随分と動きやすくなったし」
少し声に疲れが残っているメイを励ますように、アヤはもう少しだけ腕に力を込めた。
「ねぇ……少し痩せた? ちゃんと食べている?」
「ふふっ、久しぶりなのに抱きつくだけでそれもわかるのね」
「どうなの?」
「まぁ……たまに貴女の朝食が恋しくなるわ。でも食べる時間もないくらい忙しいということよ」
「そう……でも、あんまり無茶しないでね」
「あははっ! そのセリフ、貴女にそのままそっくりお返ししてあげるわ」
「ふふっ、たしかに」
笑い合う二人。
久しぶりとは思えないほど、会話は自然に進んだ。
お互いに手に持っているチケットを確認し、メイが正面玄関に通じる扉に目配せする。
「ちょっと早いけど、中で待たせてもらいましょう」
「そうね。ここだと寒いわ」
二人は愛おしそうに指先だけ絡めて手を繋ぎ、劇場の正面玄関へ歩みを進めた。
ドアマンが扉を開け、二人に一礼。
中に入ると、左右には無人の切符売り場と前面に来場者を会場へ誘う大階段がある。お揃いのチケットを係員に見せると、係員は落ち着き払った声で「すぐにご案内します」と二人を座席まで案内した。
馬の蹄のように並んでいる座席の数は、およそ1700席ほど。
二人が案内されたのは、最も舞台がよくみえる中央の特等席だった。
「本日は皆様の貸切でございます。なにかあれば私たちに申し付けくださいませ。もう皆様お揃いですので、このあとすぐに開幕させていただきます」
一瞬だけ時が止まる。
係員が放った言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。
二人は係員が去った後、狐に化かされたように目を丸くしてお互いに疑問を口にした。
「もしかして金井財閥の力で貸切にしてくれたの?」
「わ、私が? それはさすがに無理よ! 貴女がチケットを送ってきてくれたんじゃないの?」
「えっ?」
「うそ?」
だが、その直後。
アヤの脳裏にとある将校の後ろ姿が浮かび上がる。
「中佐だ……」
「あぁ……なるほど。すっかり騙されたわ」
納得の人物である。
アヤは、帝國劇場が八咫烏の本部として使用されていることをここにきてようやく思い出した。
「それじゃメイ、近況報告の続きをしない?」
「いいわよ。ここなら誰にも聞かれていなさそうだし、お互い素直になりましょうか」
ここでアヤは治療を受けている最中に、笑一から聞かされていた話をメイにぶつけた。
「……実は入院中に聞いた話なんだけど、メイが私たちに協力することになったって話は……その、本当のことなのかしら?」
心配そうなアヤとは対照的に、メイは得意気に腕を組んで鼻を鳴らした。
「えぇそうよ。それが……私たちの友としての付き合いを続けるのにあたって、中佐から出された条件だったの」
「……なんで断らなかったの? 私たちのやっていることは正しいとは限らないわ」
「あら! 貴女は自分たちが絶対正義という自認はないのね?」
「時代も、人も、いろいろと変われば、正義のあり方も変わるものよ……だから気になるの。どうして? メイにとって私は、それほどに価値がある存在なの?」
「そうよ。賢くて、強くて、優しくて、こんなに綺麗な人、私の周りにいないわよ」
わざとらしい言い回しに、アヤはムッと頬を膨らませる。真面目な質問から逃げるための常套手段――唐突に、ドレス姿に鼻息を荒くした制裁として出かける前に平手で張り倒された夫の顔が浮かんだのだ。
ただ、メイはリンの不服そうな顔を見て、ころころと笑う。
「ふふっ、別にふざけてないわよ。貴女たちの目的が報復だったら手は貸さなかったわ」
「……それだけ?」
「そう。不幸の連鎖を止めたいのは、貴女たちも私も同じだった……偶然の利害の一致というやつよ。少なくとも私は脅迫を受けたりはしていないから安心して。私の意思で協力しているのよ……まぁ可能な範囲の中だけになるだろうけども、これからも私たちはこうやって会うことができる。それだけでも私には大きな意味があるの」
「…………そっか」
少し緊張していたアヤの表情が晴れる。
メイは何か思い出したかのように手を合わせて、アヤに顔を近づけた。
「ねぇ! それじゃ、この公演が終わったら、久しぶりにあの屋敷に行きましょうよ。そろそろ貴女の作ったご飯も食べてみたいわ!」
「えっ、どうしたの急に!?」
「いいじゃない! 久しぶりに乙女二人水入らずの時間も。運転手が待っているからそれでいきましょう。食材も朝の支度の時間までには持って来させるわ」
「はぁ……わがままは相変わらずねぇ」
「なんとでも言いなさい。これからもよろしくね!」
直後、開幕を知らせるベルが鳴り響く。
爛々と舞台上の照明を見つめて、アヤは不思議と眩しさを感じなかった。
闇の中でしか生きられないと思っていた彼女だったが、今は光の下で居心地の良さすら覚えるほどだった。
舞台上では、スパイのメイドとわがままな財閥令嬢のコミカルな掛け合いが続く。
どこかで聞いたことがありそうな、見たことがあるような、そんな場面が続く不思議な物語。
だが、終わってみれば、喜怒哀楽がバランスよく揃ったとても楽しい舞台だった。
「あははっ、まるで私たちみたいね」
「そうね。でも……面白かった」
「また見にきましょう」
照明が一変するまで、二人は座席から精一杯の拍手を舞台上に送り続けた。
ふと横を見る。
メイが早く次の場所に行こうと、アヤの右手を掴んでいた。
「ところで貴女の名前は? 友達の名前を知らないのはやっぱり落ち着かないわ」
そう言えば自己紹介がまだだったと――アヤは少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「あっ……アヤ…………で……す」
「いい名前ね。アヤ、それじゃ一緒に車まで戻りましょ!」
嘘のない屈託のない笑みを前に、アヤの口角も自然と上がっていく。
「……うんっ!」
少女に手を引かれ、ふわりと浮き上がるドレスの裾。
二人はそのまま手を繋いで会場を後にする。
アヤはこの日、自分の手で得た大切な存在の大きさに初めて「愛しい」という感情を覚えた。同時に、あの雨の日に、復讐を選択しなかったことに改めて自信を持ったのだった。
(お願い)
ここまでご視聴ありがとうございました。ブックマークや感想、応援ポイントを送っていただけると、作者が狂喜乱舞しますので、もし面白いと思っていただけばしていただけますと嬉しいです。
次回の更新を最後に、今月中は誤字脱字や細かい描写など改稿する時間にしたいと思っています。
ちなみに物語は当然まだまだ続きますので完結ではございませんが、11万文字になってすごくキリがいいためです。




