夫の溺愛がなんか怖い
ここは、宮都中佐が用意した今時の和洋折衷型の一軒家。
「――ただいま戻りました」
アヤは帰りに買ってきた夕飯の材料を台所においてあたりを見渡す。
だが、どこからも期待した反応がもらえず、アヤは目を細めて首を捻った。
「あのー、笑一さん? まだ帰っていないのですか?」
虚しく響きわたるアヤの声。
アヤは同居人がまだ帰っていないものと判断し、自室に入って男の装いを脱ぎ捨てた。
ドカンと置かれた重厚な作りの姿見に、生まれたままの自分の姿が映った。女にしてはやや大きく、男にしてはやや小さい身長、色白で、目鼻立ちがはっきりしている中性的な顔立ち、凹凸の少ない身体は役に幅が広がるアヤの武器だ。日頃の体力錬成で培われた腹筋を摩り、アヤは後ろに振り返る。帽子をスタンドにおき、頭を振って団子状に固まっていた髪の毛を下ろし、着物に袖を通して帯をキツくしめた。
「はぁ……今日はずっと家にいると仰っていたじゃないですか」
呆れたように眉を顰め、八畳間にポツンと置かれたちゃぶ台に向き合うように正座。壁に沿うように並んでいる本棚に飾られている蔵書の背表紙を目で追いながら、淹れたばかりのお茶が入っている湯呑みを唇につける。
そのとき。
「――アヤちゃぁぁーーん! 愛する夫が帰ってきたぞぉぉぉ!!」
突如、上機嫌そうな男の帰宅の知らせが、アヤの静寂を切り裂く。
1年前からアヤの夫となっている、笑一の声。アヤは聞かれないように大きなため息を吐き、正座を保ったまま居間で背広姿の笑一を迎えた。
「あーお腹すいた……って、あ……あれ?? アヤちゃんもしかして怒っている感じ?」
「いいえ。私はアナタが何をしていようが、全く興味ありませんので」
「あはは、ちょっと急用があってね。なんか……怖い顔になっているけど、やっぱり怒っているよね?」
「あら、もっと怖い顔もできますよ? 見せて差し上げましょうか?」
ドンッと湯呑みを置いて、築き上げるような視線を笑一に向ける。
外国人と肩を並べられる程の体格を誇る長髪の男は、とってつけたような笑顔に汗を滲ませていた。
「任務に支障をきたしますので、行動予定を教えていただかなければ困ります。それにまだ4時ですから、夕飯を作り始めるにしても早いのです。お茶ならお出しできますが?」
「あーー、お茶はいいや。さっきまで珈琲をたくさんいただいてきたんだ。素敵な実戦型棒術の演舞付きでね」
「…………なるほど、ずっと監視していたと。本当に趣味が悪いですね。中佐の命令ですか?」
「まさか! 愛する妻が、朝っぱらから男の姿をして銀座の喫茶店でコーヒーを飲んでいる……しかも、結婚してからほぼ毎日……むむっ、何か不穏な気配! もしかして誰かと会っていたのかも。僕は不安で不安で、夜しか眠れない身体になってしまったんだ!」
アヤは、勝手に大袈裟な身振り手振りを交えて即興劇を続ける笑一を一瞥し、彼の脇を通り抜けて台所に向かった。喫茶店にいた客や店員の顔を思い出し、笑一の耳の形と一致する人物がいたかを頭の中で照合して誰に扮していたのかを確認しようとした。
だが、笑一はそんなアヤの思いを見透かすように、ニィッと白い歯を見せる。
「あっ! ちなみに僕は髪の毛で耳をやんわり隠していたからわからないと思うよ! どんな変装しようとも耳の形は変えられないけど、隠すことはできるからね。あ」
「はぁ……そこまで徹底していらしたのですね」
「当然さ! 舞台に上がるとき以外は、僕たちは目立ってはいけないんだから」
「それなら、私の目的もおおよそ掴んでいるのでは? 中佐から何か聞いていないのですか?」
「あーー、まぁ……少々は」
「せっかくなので先輩の見解を伺ってみたいところですが」
アヤは、夕飯の支度を始め、背中越しに背後にいる笑一に尋ねてみた。
「うーーん、わからん!!!ぜんっっっぜん、わからん!!」
「あらご冗談を」
「いやほんとだよ? 台本に「男装してカフェ巡りが趣味です」なんて書いてなかったし、誰かを探しているとか、声をかけられるのを待っていたとか……。うーーん、君が役を降りているなら、それはもうわからないなー」
「……それが私なりの華山アヤの解釈ですので」
「ふーーん……なるほど。ここはそういうことにしておこう」
アヤは平静を装いながら笑一に見つからないように下唇を噛む。役を降りる――宮都中佐の命令である『華山アヤとして生活を送ること』に反する行為であり、絶対に許されないことだった。だが、アヤは使った湯呑みを洗いながら、宮都中佐に拾われるきっかけになった事件を脳裏に思い起こしていた。
台風直撃。
激しく叩きつけられる雨粒と悲鳴と怒号をかき消す雷鳴と風の音。
まだ7つだったアヤは、押入れの中に身を潜めながら震えていた。アヤを庇うように押入れの引き戸にもたれかかるように倒れるアヤの父親と、部屋の真ん中で無惨に斬り捨てられた彼女の母親の姿。
父親の寝室は、壁や天井、畳の上、もれなく誰かの血が付着しており、まさしく血の海の有様で、倒れているアヤの両親と対照的に立っている三人の襲撃者の顔や服にも鮮血が飛んでいた。
『……た、頼む…………あの子だけは……』
起き上がることのできないアヤの父親が、息絶え絶えになりながらも襲撃者たちに声をかける。
だが、必死の懇願も、襲撃者の一人が鼻で笑う。
『フッ、お前も父親らしい台詞が吐けるようになったじゃないか』
『おーい、こいつも殴り潰してもいいの??』
『馬鹿ねぇ。殺したら子どもの居場所が聞けないじゃない』
アヤはほんのわずかに開いていた引き戸の隙間から全てを見ていた。
そして、時折瞬く稲光が映した――『襲撃たちの耳の形』を思い出した瞬間、アヤは我に帰る。
「えっ……?」
アヤは笑一に後ろから抱きしめられていたのだ。
「あの、これはなんの真似ですか?」
「愛する妻が暗い顔していたら後ろから抱きしめてあげるってのが、世の男の務めなんだよ」
笑一は困惑するアヤを気にすることなく、さらに強く抱き寄せる。
だが、洗い物に戻ったアヤの耳元で囁かれる甘い言葉も、ただ彼女の機嫌を伺うための方便であることは、アヤ自身が誰よりも理解している。逞しい笑一の腕を退けて、アヤは静かに告げた。
「ならば、足音を消して後ろに立たないでもらってよろしいですか?」
「夫婦らしいスキンシップもダメなのかい? いやー、つれないなー」
「……もしも、私に向けている右手で私のお尻を触ったら、手首が一回転すると思ってくださいね」
アヤを見下ろす笑一の表情が一瞬固まる。
皮肉にも、笑一の右手をアヤが前から腕を後ろに伸ばして捕まえる形になっていた。
「へぇ……すごいね。君は優秀だ。僕が何をしようとしていたのか、もう分かったんだ」
「これでも半年一緒に暮らしておりますので」
「そっか。僕はまだキミのことが何もわからないよ」
(――それはこっちのセリフ)
アヤは洗っていた湯呑みを乾いた布で拭いて食器棚に置く。
だが、そのときだった。