雨の中の誓い
リンがスズカに一撃を見舞ったあと雨の中に倒れたのをメイは目撃した。正門に停車している自動車のライトが、雨の中で倒れている少女をぼんやりと映しているが、起き上がれそうには見えない。
「リン!!」
心臓が飛び跳ねそうになる。
車椅子から飛び降り、玄関先で気絶する刺客たちも無視して、何度も転びそうになりながら、叩きつけるような雨をかき分けて、唯一の友の元へ駆け寄った。
なんとか起きあがろうとするリンの背中を抱き、傷の様子を素早く確認する。
「大丈夫!? ……うわっ、ひどい傷」
「さすがに……痛いわね」
「バカじゃないの! 無茶ばっかりして!」
「でも、そうしないと……蛇を騙せないと、思って……」
「それでもやりすぎ!!」
「だい……じょうぶ。あいつは……私の正体を知って、ころ……せ……なくなったから」
リンが右手で強く押さえている脇腹の傷口からは、絶え間なく血が流れ出ている。ここでようやくメイはリンの脚からも流血していることを確認した。続けて、裂けたメイド服の生地と共に小刀が深く刺さった箒の穂先が目に入った。
「貴女、脚も怪我しているじゃない!」
「これは大丈夫……あいつが私の脚を狙ったのがわかったから、箒の穂先を身代わりにした……けど、少し切れちゃったみたい」
どうやらリンも一方的にやられたわけではないらしい。
リンは脇腹を刺された後に上下が逆転した際に、箒を尻に敷くようにしてクッション代わりに衝撃を和らげていた。さらにスズカがリンを足止めしようと小刀を振り落とした際に、寸前のところで脚を小刀の鋒の軌道上から外していたのだ。結果、悪天候と薄ら灯りという好条件と、メイド服と固い箒の穂先が、スズカの認識を誤らせた。
つまり、小刀は脚を貫いていない。
ただ太ももの表面を切りつけたに過ぎない。
だが、メイの不安は晴れない。リンが立ち上がれないという事実は彼女に重くのしかかる。
それは、リンが彼女の心配を打ち払うために、無理に笑みを浮かべても変わらなかった。
「ふふっ、これくらい痛いだけで大丈夫よ。傷も深くない……から」
「ダメ、止血しないと! ……ちょっと待ってて!」
身体が自然と動く。
メイは自分の着ていたドレスの裾を引きちぎり、即席の包帯を作る。
丈夫な生地に何度も拒絶されながらも、メイは最後は歯も使って、肌が露わになることも厭わず、とにかく友の救助を優先した。背後で意識を奪われたままの宿敵には目もくれないで、がむしゃらになる。
雨で全身がドボドボになっているメイを薄ら目で見たリンが呆れたように鼻で笑う。
弱々しく伸びた腕が涙目になっているメイの頬に伸びた。
「それよりも……メイ、貴女やっぱり歩けるのね」
ハッとした。
一瞬だけ、メイの手が止まる。
今、彼女は間違いなく、二本の足でここまでやってきた。
メイは上手な言い訳が思いつかなかった。
いや、違う。
命を投げ出してまで自分を救おうとしてくれた友人に、これ以上嘘を吐くことを体が拒否したのだ。
「…………ごめんなさい」
振り絞ってやっと出てきた言葉。
顔を伏せるメイの頬をリンが優しく撫でる。
「別に構わない……わ。ずっと知っていたし……だって……貴女の寝室にある歩兵銃あるでしょ……私が椅子を使わないと取れない位置にあって……脚のマッサージにも反応して……くれたじゃない」
メイは全て納得した。
自分も詰めが甘かったらしいと言いようのない感覚に襲われる。
献身的な脚のマッサージも、嘘を検証するための行動だったと。
メイは引きちぎったドレス生地を、リンの脇腹の傷口の上に被せる。
「…………わかってて……どうして言わなかったの?」
リンは痛みを誤魔化すようににっこりと笑った。
「そうせざるを得ない理由があったと……思ったから。一緒に暮らして…貴女は優秀すぎるから……殺されないために、脅威と認識されないために……そうしないと……もっと辛くなるから……仕方なかった……」
「もっと早く貴女を信じればよかった……本当にごめんなさい」
「……だい…じょ……うぶ……わたしも……嘘ついてた……か、ら……」
リンが包帯代わりのドレスの生地を掴む。
「ここだけちょっとキツく縛ってくれる? ……ちょっと出血が心配に」
「えぇ任せて!」
リンに促され、メイは彼女の鍛えられた腹部に即席包帯を巻き付ける。
太い血管を傷つけたのか、小さな泉のように血が流れ出ていた。
メイは少し迷った。
明らかにリンの体が限界に達しているように見えたからだった。
「思いっきり……縛って」
迷いを察したリンに背中を押され、メイは結び目の端を強く握った。
「…………わかった。我慢してね」
「えぇ、思いっきりお願い」
同時にメイは込められる力いっぱいに包帯の両端を引っ張る。
ギュッと腹部に食い込む生地。
「ッ――んんッ!」
リンが声にならない悲鳴を上げ、身体がビクンと大きく跳ねた。
直後、メイの頬に触れていたリンの右手がパタリと水溜りの中に沈む。
リンの意識は痛みから逃れるように彼方へ飛び立っていた。
「ちょっと貴女!? 待ってよ! 目を開けなさい!」
メイは何度も彼女の背中を揺さぶる。
なおも左脚からは血が流れている。
メイはただ狼狽した。相当な痛みだったらしい。
このまま死んでしまうのではないかという不安が、メイを絶望の淵に叩き落としていた。
「だれか!!! お願い!!!!!!! この子を助けて!!!!」
叫びは虚しく雷雨が掻き消す。
辺りを見渡しても、当然助けの気配はなし。
それどころか、絶望するメイを嘲笑うかのように雨がさらに激しくなってきた。
「リン! 目を覚ましなさい! 命令よ!!!! 帝国劇場に行く約束をしたじゃない!」
メイは激しく後悔した。
無謀な茶番に大切な友を突き合わせて、深く傷つけることになったことを。
「ごめんなさい…………私一人では貴女を……助けられない」
大粒の涙がリンの頬に落ちる。
そのときだった。
『大丈夫、痛みで気を失っているだけだ。安心して』
優しい男の声が頭上から。
突如、メイの頭上だけ雨が止む。
咄嗟に、頭上を見上げる。
そこには右手に傘、左手に救急箱を持った初老の男が立っていた。
制帽を目深に被っており、白くなった口髭をたっぷりと蓄えている。
タクシーの運転手を彷彿させるが、制帽には金井家の家紋の刺繍が施されている。
つまり、メイの身内に当たる人物。
もしくは、スズカの仲間。
メイは目を丸くしながら男に尋ねる。
「あ……アナタは?」
「おっと、これはどうも初めまして」
見た目の割に若い声の主は、制帽を意識を失っているリンの頭に乗せ、黒い制服の内ポケットから折り畳んで押し込まれたハンチング帽を被り直す。そして、メイに笑いかける。
「これでわかるかな?」
その男にはメイも見覚えがあった。
ここ数ヶ月、毎日屋敷を訪れていた人物。
メイは男の変身に目を疑った。
「えっ!? アナタは、し、新聞配達の……ど、どうして」
「まぁ、こういうことなんだよね」
得意気に白い口髭を剥がす男。
顔の雰囲気もガラッと変わって初老の男から好青年に変貌する。
「それじゃちょっと失礼しまーすよっと!」
男は、メイに傘を預けると、丁寧にリンの体を受け取って慣れた手つきで救急箱から止血帯を取り出してリンの応急処置を進める。テキパキと脚の止血を終えると、脇腹の傷口に消毒液をふりかけてガーゼを当て直し、メイド服の上から清潔な包帯を何重にも巻く。
メイは傘を持ったまま、彼の横で作業を静かに見守った。
男は応急処置を完璧に終えると、目を瞑ったままのリンを愛おしそうに撫でてから、彼女の腰に腕を差し込んで軽々と持ち上げて正門に向かって歩き始めた。
「あ、あの……」
「お嬢さん、僕の大切な人を助けてくれてありがとうね」
「待って!……アナタとリンの関係は!? 簡単には連れて行かせないわよ!」
「……今はこの子とこの子の本当の主人の伝書鳩役……って言えばわかるかな?」
「で、伝書鳩?」
だが、男はメイの戸惑いを無視するかのように、溜息を漏らす。
「あーあー……こりゃひどい。身体に相当なダメージが残っていたんだね……君は僕と違って戦闘向きじゃないのによく頑張ったよ。すごいよ、君は」
「ちょっと! 質問に答えてちょうだいよ!」
「あー……ここから先はあの人に聞いてもらっていいかい? …僕も彼女を守るという使命を果たさないといけないんだ」
静かで優しい。
だが、それ以上は何も言わせない圧力もある。
メイはただ男の背中を見送るしかできなかった。
不思議な魅力を持つ男は雨に打たれながらリンと共に去っていき、入れ替わるように視界の奥から黒装束を纏った人物が姿を見せる――途端に、メイの心拍は異常な高揚を覚えた。
傘を投げ捨て、咄嗟に地面に落ちていたリンが持っていた箒を構える。
「来ないで!」
黒装束はピタリと歩みを止める。
メイと対峙する人物は、鼻先まで覆っていたマスクと目元を隠す仮面を外してみせた。
刺すような目つきの鋭い女は、おもむろに両手をあげてメイに一歩ずつ近づく。
「安心しろ。お前に手を出すつもりはない」
「お、女!? ……アナタたち何者なの?」
「それは言えない。それに質問するのは私だ」
女はメイの横を通り過ぎ、彼女の後ろにいるリンに箒で脳天を打たれて気絶しているスズカの前で腰を下ろした。首筋に手を当てて簡易的な生命反応を確認するや体勢をうつ伏せに変えて、背中で腕を組ませてきつく縛り上げる。
メイはさっきの新聞配達員の男と同様に、黙ってそれを眺めていた。
口数の少ない女は、屋敷の玄関でリンに首を締め上げられて気を失っていた暗殺者たちも同様に縛り上げて、スズカの横に薪のように並べる。全員がなんとか生きているということに安堵しているように見えた。
「あの……これはどういうこと?」
「お前の計画に乗った結果、といえばわかるか?」
嘘を許さない全てを見透かしたような鋭い視線が、メイを釘付けにする。
一切の勝手を許さない支配的な圧力に、メイはあやうく息をすることも忘れてしまうほどの緊張に襲われていた。一方女は、乱暴にメイの顎を右手で掴んで強引に目の奥を覗き込もうとするかのように顔を近づける。
「それで? お前の本心はどこにある? アイツを使って何がしたかった? それだけ聞かせろ」
質問というよりも、怒っているようにも受け取ることができる。
メイの唇が震える。
「な、なによ……」
「例の告発のことだ。アイツに語った理想を実現するために告発しようとしたのか……それとも理想はただ単に会社を乗っ取るための方便だったのか……どっちだ?」
「……っ!」
「私はこのストーリーが嫌いでね……仮に、告発が成功すれば、間違いなく金井財閥は大痛手を負う。だが、お前は正義の告発者として、世界に不幸と武器をばら撒いた一族に代わって会社を立て直す柱として君臨することができる」
「…………」
「もちろんその場合、今回みたいに刺客が送り込まれて殺されるかもしれない……だが、それは告発に失敗しようが、成功しようが、結局は同じこと。結末も同様だ。告発の成否はストーリー分岐の一つでしかなく、どのルートを通っても、お前は悪事に手を染めていた一族を経営から追い出すことができるわけだ」
「何が言いたいの?」
「フン……どのみち今日ここで起きたことは、最初からいつか起こることだったということだ。その証拠に、お前は備えをしっかりと用意していた。お前はいつでも動くことができたはず……」
「そうだとして何が不満なのよ」
「気に食わないのが、アイツを最後の保険として使ったことだ。卑怯者め」
「……なるほど、そこまで読めていると」
「だから改めて聞くぞ。お前の本心はどっちだ。理想の世界か、己の野望か」
メイは力強く睨み返すように、はっきりと女の目を見て口を開いた。
「私は武器じゃなくて、幸せを世界に運び届けたいの……お金なんかいらないわ」
「…………それはアイツを利用してまで実現したい夢だったのか?」
メイは口を固く結んで頷く。
数秒の沈黙の後、女の手がメイの顔から離れる。
「そうか」
メイはすかさず女の腕を引っ張った。
真剣そうなメイの瞳を見て、女の表情が一段と引き締まる。
「……ねぇ、あの子に一つだけ伝えてくれる? 最後まで利用してごめんなさい。友人失格って」
「ふむ……。それくらいはいいだろう」
「そっちの言う通り、私はあの子を自分の理想のために利用した。そして傷つけたことには変わりない」
「そうだな……そしてあいつは我々の掟を破っている。任務より私情を優先したわけだ」
「あの子は何も私に話さなかったし、とても優しい人だったわ。あの子に責任があるなら、まず私を罰してからにしなさい。お願いっ!」
「フフッ……そうか。優しいやつだったか」
「なんで笑うの?」
女は「いやいや」と飽きれたように、でもどこか嬉しそうに話を続ける。
「アイツはお前の嘘のほとんどを見抜いていた。もちろん利用されていることも……それでもお前をほっとけなかったらしい」
「えっ……?」
「これをお前にやる。読んでみろ」
「手紙?――っ!?」
端が濡れた手紙を開いて一読した瞬間、メイは思わず声を失ってしまった。
――師匠と同僚への感謝の言葉と共に、独断専行に対する謝罪。
――親の仇と任務に揺れる葛藤の吐露。
――もしものことがあればメイを組織で保護してほしいという嘆願。
――メイの素晴らしい人柄の列挙と機密を漏らしてしまったことの謝罪。
結びの言葉には、「可能ならば今後も彼女の友として側にありたい」と。
その一文に心を動かされた。メイの肩が震え始める。
「我々は毎日新聞の交換を通して、お前たちの生活の状況を把握していた。しかし……こんな手紙が入っていたのは初めてのことだった。さすがに私も震えたよ」
「リン……」
「まぁ結果としてスズカの確保に成功したわけで、お前にもあいつにも処罰するつもりはない。安心しろ」
深い愛情が感じられる長い告白文は、的確にメイの心臓を射止めていた。
次第にメイの視界が涙で滲む。
「本来アイツの任務は、新聞配達員にお前の告発文を渡して終了したんだ。でも、アイツはお前との約束を守るために動いて、戦って、雨の中で倒れた……アイツが自ら選んだ道だ」
涙が止まらなくなった。
メイは嬉しかったのだ。
自分の思いが、不安が、孤独が、全てリンを名乗る少女に伝わっていたことが。
同時に、早くまた会いたいと、願ってしまう。傷つけて申し訳ないと思ってしまう。
考えが纏まらなくなり、メイはその場に膝から崩れ落ち、想いが綴られたリンの手紙を抱きしめて、ついに声をあげて泣いた。
「まったく不器用な連中だ……ここ一ヶ月ずっと惚気の手紙を送られてきた身にもなってみろ」
女はメイを無視して、スズカを軽々と肩に乗せる。
彼女の背後から、リンを連れ去った男が駆け寄ってくる。
「中佐、手伝いますよ!」
「悪いな、こいつを運んでくれ。アイツの様子は?」
「一応鎮静剤を打ちましたが……とりあえずこのまま病院へ運ぼうかと」
「わかった。こいつらは私の車に運べ。お前はアイツを病院へ」
「承知しました」
大泣きしているメイの前に男が立つ。
「メイお嬢様、僕からも一ついいかい?」
「うぅっ……な……に……です、か?」
「あははっ、そんな泣かないで。簡単なお願いだよ……これからもあの子の友達でいてくれるかい?」
「え……えっ?」
「実はあの子もいろいろあったんだよ。だからこそ、初めてできた本当の友達ってすごく価値のあることだと思うんだよね。そうですよね、中佐?」
「……ったく、お前は」
メイは顔をあげ、涙と鼻水を乱暴に拭き取って、太陽のような笑みを浮かべた。
「えぇ、もちろんよ!」
「よかった。それじゃ、これからもよろしくね!」
最後に、女がメイに手を差し出して、優しく立ち上がらせる。
そして妖艶な唇を彼女の耳元に近づけた。
「……世話になった。協力感謝する。お互い成すべきことをしよう」
この人たちなら大丈夫。
メイは涙を拭いて大きく頷く。
「リンをお願いします!!」
リンの仲間たちの背中に深く頭を下げる。
女は任せろと言わんばかりに片手をあげて返すだけだったが、メイにはとても力強く感じられた。




