次は友として
「急がないと……時間がないわね」
リンはさっそく行動を起こした。
駆け込んだのは、最低限の着替えと家具、切れかかった日用品しかない殺風景な部屋。リンがメイドの仮面を外せる唯一の場所だ。
部屋の内鍵を閉めて外の廊下の様子を確認。
問題なしと判断すると、リンはまっすぐ部屋の隅に置かれた本棚へ向かう。綺麗に並べられている書籍の中から、リンの細い指が選んだの一冊の図鑑。手にとってパラパラと捲ると、ページに挟み込まれていた『差出人のない手紙』がリンの足元にバッサリと散り積もった。
「はぁ、やってしまったか」
リンは、ほぼ毎日のように屋敷に届けられる手紙を集めて日付の順に並べると、今日も人知れずに屋敷に届けられた新しい手紙をメイド服のポケットから取り出して最後尾に添えて、ページの真ん中がくり抜かれた図鑑の中に挟み込んで元に戻した。ついでに、本棚の淵に積もった埃も確認。頷いて辺りを見渡す。
「移動の痕跡なし。問題なさそうね」
リンは、さらなる用心のために室内の確認を進めた。
やはり異常なし。
安堵したように胸に手を置いて一呼吸置き、メイから預かった封筒を机の上に置く。
「さてと、今日は寝ずの作業になりそうね」
指の関節を鳴らし、自身に発破をかけて椅子に座って机の引き出しから、まっさらな紙を取り出す。そして、慣れた手つきで預かった機密資料の封を慎重に解き、中に入っている書類を机の上に並べ、その横に同じ大きさの真っ新な紙を寄せた。
ちょうど機密資料とまっさらな紙が横に並ぶ形になる。
紙の質感も、大きさも、全て同一。
リンは目を細め、頭の中のキャンバスに完成図を思い浮かべて大きく息を吐く。
「さぁやりますか……やっと見つけたわけだし」
肩甲骨にかかるくらいの髪を頭の後ろで縛って気合いを込める。
「それにしてもあの子……。これを、全部を書き写していたのね。私も負けていられないわ」
気が遠くなりそうな模写作業に内心うんざりしながらも、リンは複数種類のインクを使い分けて機密書類の複製を開始した。彼女にとっては慣れた作業だったが、今日は特に量が多い。
メイが預けた資料を一読し、筆圧も含めて完全に再現すると、順番が狂わないように一枚ずつ丁寧に床に並べて乾かす。感情を殺し、黙々と作業を続ける――いつもならこのまま過集中状態で乗り切れる作業だった。メイが一ヶ月かかった作業を、リンはわずか一日弱で終えなければならない。
これは、リンの独断で行われている作業だった。
「『貴女は貴女に与えられた使命を果たしなさい』……か」
脳裏に反響するメイの意味深な言葉。
リンは本当の自分に与えられた使命を思い出しながら、窓の外に視線を逃すと、すでに外は黄昏時を迎えていた。
「もうこんな時間。まだ全然進んでいないのに」
完全に集中する前に、毎回リンの脳裏にメイの不敵な笑みが浮かび上がって作業を邪魔する。
メイの聡明さは想定を大幅に超えていた。
何を考えているか、その深層までは辿り着かせない雰囲気と、時折見せる年齢相応の人懐っこさ――まだ本性は出していないとリンは考えていた。
「きっとこの資料を郵便局に届けるのも。本音は違うところにありそう。さぁ、あの人はこれで何がしたいんだ……まぁ私には関係ないことか」
両手を組んで天井に突き出すように腕を伸ばす。
硬くなった筋肉をほぐすと、リンは再び作業に戻った。
「お嬢様、アナタは私を使って何をしたいのでしょう」
頭に浮かんだ疑問が勝手に溢れる。
だが、リンは邪念を掻き消すように何度も頭を横に振った。。
底知れない相手に自分のペースが乱されている事実が、リンの頭の中で別の人物を彷彿とさせたからだった。ただあの人は今のリンに全く関係ない人物で、まさに不要な記憶と言っても良い。
「女の子だけど中佐みたいな人ね」
同時にスズカの顔が脳裏に浮かぶ。
「やっと見つけた……」
瞳の色が静かな怒りに染め上がる。
リンとして生活する中で胸の奥底に隠してきた凄惨な記憶が、再び克明に蘇っていた。
両親を惨殺した若い女達の姿と死ぬかも知れない恐怖――服装が変わろうが、化粧で顔の雰囲気を変えようが、人を蔑む目と耳の形は変えられない。彼女はやっと親の仇の一人を見つけたのだ。
「ダメ……今は」
時間は刻々と過ぎていく。
『リン』を取り戻した少女は再びペンを走らせた。
「はぁ……………少し疲れたわ」
眼下には、床一面に並ぶ複製された書類。なんとか作業を間に合わせたリンは、わずかに残った足の踏み場を器用に渡りながら、届けられた新聞の紙面の隙間に書類の種類ごとに挟み込む。
チラリとリンの視界の端に見える誌面には凄惨な事件や不祥事に関する記事が躍る。思わず読み耽ってしまいそうになるが、リンはグッとそれを抑えた。集まった情報を、素早く、直接、必要な人に、確実に届けるツールとしての新聞の価値をリンは改めて実感しつつ、作業を進める。
気がつけば、窓の外の闇は少し和らいでいた。リンは、窓の外にうっすら広がる早天をしばらく眺めて英気を養うと、最後の気力を振り絞って書類の複製をなんとか終えた。
時計を確認し、慌ててメイから預かった書類を封筒に戻して席を立つ。
向かったのは、半日以上顔を合わせていない主人の元。
「――おはようございます。お嬢様」
いつもの入室動作を経て、慎重に寝室に入ると、ベッドの淵に腰掛けて窓の外を眺めるメイの姿があった。
「お嬢様おはようございます。ずっと起きていらしたのですか?」
「えぇ、リンも寝ていないでしょ?」
「私のことはお気になさらず」
「もう行くの?」
「はい。ご挨拶だけ」
「……そう。こっちにきて」
メイはリンに背中を向けたまま、自分の隣に座るように手を置く。
リンは目を伏したまま、少しだけ距離を置いてメイの横に腰を下ろした。
メイはリンに顔を合わせないまま、静かに彼女の顔の前に一発の実弾を差し出す。血で染め上げたような特異な色をしているそれを目の当たりにして、リンは自身の目を疑った。
「これは……どういうことでしょうか?」
「あぁ、これのこと? 本当はあの最終試験の日に装填するはずだった弾丸よ……これを貴女に渡しておこうかと思って」
「えっ?」
「はぁー、まったくもう……貴女はリンと違って鈍いのね。つまり、今なら私のこと裏切っても良いってことよ。壁にかかっている歩兵銃の中から好きなのを取って私を撃ち殺しなさい。これで少なくとも貴女だけはスズカから逃れることができるはずよ」
「えっと、お嬢様? いったい急に何を仰っておられるのですか?」
戸惑うリン。
一方で、メイはリンの態度を気に留めないまま、投げやり気味に話を進める。
「ただね……殺すならこの弾丸を使ってさっさとラクにしてちょうだい。難しいなら私が装填してあげるけど?」
その瞬間、リンの拳に力が入る。
メイはまだ話を続けた。
「どうかしら? 今回は弾が入っているから、それで私を撃って――」
リンはこれ以上の言葉を聴きたくなかった。
思考よりも先に身体が勝手に動き出す。
「――お嬢様ッ!!」
ついに、リンは声を張り上げてしまう。
手は出なかったものの、元気のないメイの肩を強く揺さぶってしまうくらいの衝動にリンは襲われていた。だが、そんな彼女の鬼気迫る表情を見て、メイは儚げな笑みを浮かべてゆっくりとリンを抱きしめた。
「……ふふっ、やっと怒った」
メイが呆然とするリンの手をそっと退ける。
「ごめんなさい。貴女が本当の姿を全然見せてくれないから。ちょっと試しちゃった」
「これも試験ということですか? さすがに何度も試されると私も疲れてしまいます」
「……えぇ、ごめんなさい。こんなので。でも安心した。貴女は優しい人なのね」
含みを持たせるメイの言葉はあえて無視して、リンは彼女の手に上から手を添える。
「…………では、こちらはお返しします」
リンは弾丸をそっと押し返して静かに立ち上がった。
そしてメイの前に回って、丁寧に跪いていて足の甲に額をつける。このときリンは、メイが抱えている不安を少しでも振り払ってあげたいと思うようになっていた。
「たとえ、私たちの関係が嘘や偽りから生まれたものだとしても、私はお嬢様の味方です」
「…………ふふっ、それじゃ一つだけ約束しましょうよ」
「なんでしょうか?」
「この件が終わったら、帝國劇場でお芝居を一緒に観に行かない? 友達として……どう?」
リンが顔を上げると、そこには屈託のない一六歳の少女の儚げな笑みがあった。
さっきと打って変わった希望に満ちた表情に、リンはメイの頭に手を乗せて応える。
帝國劇場は彼女にとっても思い出の場所の一つだ。
リンは少し考えて、メイの前で『役』を外すことにした。
「そうね。一緒に帝國劇場に行きましょう……約束する」
「へぇー、貴女はそんな話し方をするのね。そっちの方が私の好みだわ」
「まぁ……今だけよ。それじゃ――」
優しく囁き、リンは再び従者の仮面を被り直して、メイに頭を下げる。
「――では、行って参ります。お嬢様」
メイはこの瞬間、リンの本当の目的を直感的に理解した。それは彼女の予想通り――リンの目的は『金井財閥の機密資料』だとわかった瞬間だった。つまり、ここから先二人は会うことがない可能性が高い。
リンは任務を果たし、メイは目的を遂げる。
だが、メイはリンの心の内に触れた嬉しさを隠すことなく、笑顔のままリンの背中に向かって手を振った。
「絶対に無事に帰ってきて。次会うとき、もう私たちは友達同士よ」
「承知しました……次は良き友として」
リンはいつも以上に背筋を伸ばして、勢いよく部屋を出ていく。
彼女は自室に戻り、荷物をまとめて、明けた空の下へ飛び出す。
ただ、彼女にはまだやることが一つだけ残っていた。
「さて……あの人は早くきてくれるかしら」
リンは唯一残された朝の日課を開始。
昨日の新聞を脇に抱えて小走りで正門まで向かうと、白い口髭を生やした新聞配達員が直立不動の姿勢で立っている様子が目に入った。
新聞配達員の男はリンの姿を認めるなり、ハンチング帽のつばをあげて笑みを覗かせる。
「――本日の朝刊です」
「いつもありがとうございます。こちら、昨日の朝刊です」
「かしこまりました」
朝刊を受け取り、昨日の朝刊を引き渡すだけの作業。
いつもならこれ以上言葉を交わすことなく、お互いに背中を向けて歩き出すところだった――が、新聞配達員の男はリンから受け取った新聞に視線を固定したまま口を開く。
「これは?」
「いつも新聞の配達ありがとうございます。ですが、もう朝刊は不要となりました」
誰が聞いても意味のつながっていない会話。
だが、凛とした表情を浮かべるリンの顔を一目見て、新聞配達員は白髭を手でさすって納得したように小さく頷く。
「承知……いやぁ、お疲れ様でした。もしかして、本日の朝刊も不要でしょうか?」
「えぇ……特に連絡がないなら」
「それがね、今日は全くないのですよ」
「そうですか。それではもう朝刊は不要ですね。こちらもお返しします」
新聞配達員の男は驚きもせず、リンから返却された朝刊を受け取ると、昨日の朝刊と合わせて襷がけしていたザックに押し込もうとする。ただ、うまく収納ができないのか、手間取っている様子。リンはわざとらしくも見える不器用な動きに冷ややかな視線を向ける。
「ちなみに例の書類はどこに? かなりかかったようですが」
「……全てはお嬢様の頭の中にありました」
「あぁなるほど、そりゃすぐに見つからないわけだ」
突然砕けた口調に戻る配達員に、リンはムッとした表情で反応を示す。
「雑談の時間稼ぎのために不器用なフリはやめてください。お嬢様もきっと見ておりますので」
「あははっ、そりゃ参ったな」
ここで新聞配達員は新聞をザックに綺麗に収納して、観念したように「失礼しました」とハンチング帽のつばを軽く摘む。
「ちなみにメイドさんは、これからどうされるおつもりで?」
「ただ友として成すべきことを。逸脱をお許しを」
リンはキッパリと言い切る。
静かだが、確かな覚悟がうかがえる回答。
それは、お互いに仮面を外した一瞬だった。
リンの答えを聞いた新聞配達員の男は、満足そうに爽やかな笑みをリンに向けた。
「素敵な従者になりましたね……」
「そうでしょうか?」
「えぇ本心ですよ……ですが、お気をつけて。昨日から見張りの数が増えてこの屋敷を取り囲んでいますゆえ」
「えぇ……やっぱり」
「おや知っていたのですか?」
「まぁ元々見張られている気はしていました。ですが、教えてくれてありがとうございます」
「それでは私はもうこちらで失礼しますね」
「えぇ、では、またどこかで会う日まで」
「こちらこそ、これまでご購読ありがとうございました」
お互いに形式ばったお辞儀をして、同時に背中を向けてそれぞれ来た道を歩き出す。
リンは明るさを取り戻しつつある空を仰ぎながら、麓の郵便局までの経路と到着する時間を計算した。
「メイの昼ごはん……間に合うかな」
リンはまた戻ってくるつもりだった。
次は友として――彼女を一人にするつもりは毛頭なかった。
玄関に戻り、ブーツに履き替えて、気合を入れるように紐をキツく縛る。そして、買い出し用のバスケットの中にメイから受け取った機密書類を収納。念のためにバスケットに蓋をするようにタオルを被せておく。
「では行って参ります」
主人からの返答はなく、リンの声が広すぎる玄関に反響するだけ。
それでもリンは勢いよく玄関を開け、バスケットを胸の中に抱えて走り出す。
『さようならリン……結局私は貴女の名前を最後まで聞けなかったわ』
屋敷から離れていく背中を、屋敷の主人は窓辺から静かに見守っていた。
彼女の膝の上には、メイドを試すときに使う歩兵銃が置かれている。
「でもよかった……優しい貴女を殺すことにならなくて」
メイは、リンから押し返された緋色の弾丸を慣れた手つきで歩兵銃の薬室に押し込み、力一杯にボルトを引いて装填を完了させる。メイがまだ誰にも話していない罠を仕掛けた瞬間だった。
次の更新は21日の火曜日となります。
感想や誤字脱字の報告いつもありがとうございます。
もし可能でしたらXなどで感想ツイートや宣伝などしていただけますと幸いです。励みになります。




