蛇の餌
「――はぁー、これが金井財閥のご令嬢の朝食とは情けないわねぇ」
「お嬢様、これが我々の選択した道にございます」
「リンもつまらないこと言わないでよ。ちょっと自分に毒づいただけじゃない」
スズカによる兵糧攻めが始まって以降、メイたちの生活事情は一気に厳しくなっていった。
季節が食欲の秋を迎えようとしているのに、メイとリンの懐事情は冬の寒さを思わせるような状態。
二人の眼前に広がっている朝食の品数は、わずか三種類のみ。
お茶碗半分の麦ご飯と山菜の味噌汁と簡単な漬物。
一ヶ月前と比べると、かなり質素なものへと変貌を遂げている。だが、貧相な朝食を前にしても、メイとリンは示し合わせたように涼しい表情を保っていた。
「まぁ……でも、改めて思うけど、いよいよここまで来たのね」
「ご実家からの仕送りが届かなくなって今日でちょうど一ヶ月になります」
「あらもうそんなに……まさかスズカの仕返しが『兵糧攻め』なんて。嫌味な性格を隠さなくなってきたわねぇ」
「しかし、これもお嬢様の頭に入っていたことなのでは?」
「まぁね。私も同じ嫌がらせすると思うし……だから、それも嫌なのよ。あいつと同じくらいに性格が悪いということじゃない? それに、これで私たちが生活に困って泣きを入れてくると思われているのも、なんだか癪なのよ」
わざとらしく不満気に鼻を鳴らすメイ。
空になったティーカップを静かに置かれると、最近彼女が愛飲するようになった冷たい井戸水のおかわりを、リンがティーカップに注ぐ。
「おかげで時間はたっぷり稼げました」
「そうね。向こうもすっかり勝った気でいる頃でしょう」
「ならば、そろそろ蛇退治の時間ですかね?」
「えぇ……獲物がこちらに噛み付く瞬間が私たちの逆転の好機」
「お嬢様、いつでもご命令を。準備はできております」
「ふふっ、最高ね」
お互いに不敵な笑みを浮かべて顔を見合わせる。
「私の方も準備は整った……あとはこれを――」
メイは車椅子のポケットから分厚い大型の封筒を抜き取り、決意のこもった瞳をリンに向けた。
リンは、顔の前に出された封筒を両手で大切そうに受け取り、黙って一礼する。この封筒の中にあるものがスズカを倒す鍵になる――と、メイにそう言い聞かされていたリンは、いよいよ時が来たと背筋をピシッと伸ばす。
そして、メイの命令を待つ。
「それを貴女に託す。中を確認しなさい」
リンは促されるまま、封筒の封を解いて中身を確認する。
入っていたのは、片手でちょうど掴めるほどの厚さの書類の束だった。
「……これがあの方を倒す武器に?」
「そうよ。あいつが私を恐れている理由もわかるはず」
リンは怪訝そうに片眉を釣り上げて、パラパラと書類に目を通す。最初は疑いを隠せなかったリン--だが、書類を読み進めて一分が経過するころには、指先の震えを抑えることが難しいほどに驚きが露わになる。
「お嬢様これは……ど、どうやって」
なんとリンが手に持っていたのは、金井財閥急成長の理由になっている『密貿易の決定的証拠』の数々だったのだ。そこには『連邦』『合衆国』『帝国』『金井財閥』の関係者がどのように繋がり、どのような役割をになっていたのか、克明に記録されており、これが万が一でも世間に知られてしまえば、世界中がひっくり返ってしまうことはリンでも理解できた。
だが、違和感が一つ。
目にしている書類に顔を近づけると、ほのかにインクの香りが立っている。
リンは視線を不敵な笑みを浮かべているメイに向けた。
「お嬢様……これをどうやって手に入れられたのですか?」
リンの質問に、メイは待っていましたとばかりに、ニカッと白い歯を見せて自分の頭に人差し指を向ける。
「うふふっ、これは私の頭の中にあったものよ」
「……頭の中、ですか?」
「そう。これはあの日私が事務所に潜り込んで一度は手に入れた機密書類の複製品なの」
「ふ、複製……を、し……た?」
「あら、言っていなかったかしら? 私は昔から物覚えが良すぎてね。事務所に忍び込んだときに見た裏帳簿やら積荷の載せ替え記録もぜーんぶ覚えちゃったの。すごいでしょ? 署名や印章まで完全に再現できちゃうのよ」
リンは、ここでようやくメイが山の頂上に幽閉されていることの本当の理由を理解するに至った。
密貿易の証拠を押さえられたからといって、金井財閥の娘であるメイを簡単に殺すことはできない一方、世間と近い場所に留め置くこともできない。なんらかの理由をつけて世間から隔離し、生かさず殺さずの処遇を続けるしかない状況――しかも、不正の証拠である書類そのものを正確に手書きで書き写す胆力と十代にしては驚異的な判断能力と分析力を備えている――まさに神童と呼ぶにふさわしい存在だったのだ。
呆然と立ち尽くすリンの腕を、メイが無邪気に引っ張る。
「リン、これをどうにかして新聞社に届けてくれる?」
「新聞社に……ですか?」
「いつも届けてくれる新聞があるでしょ? あそこにお願いするわ。一応、記者の人に直接送れるように名前も書いてある」
リンは書類の束を封筒に戻し、見ていなかった宛先を確認する。
そこには、【帝国新聞社 新田義明】と記されていた。リンは一呼吸おいてから、納得したように封筒を閉じると大事そうに胸の中に抱えてメイに頭を下げる。
「あら、その表情から察するに貴女の知り合いかしら?」
「いいえ……しかし、この新聞記者は少し前に一等寝台に侵入して泥棒を働き、謹慎処分を受けたと聞きましたが信頼できるのでしょうか?」
「信頼できるかはわからないわ。でも、泥棒する前は政治家たちの不正や汚職を暴くことで有名な記者だったの。世間から後ろ指を刺されることになった新聞記者なら、なおのことこの衝撃事実を自分の手で報道したくなると思わない?」
「なるほど。功名心を利用すると」
「そういうこと。貴女からの質問は以上かしら?」
「はい」
「リン、質問は?」
「えっ……いや、ありませんが」
「それでは、あとは貴女に頼むわ」
一瞬、虚を突かれるような感覚に襲われたリンだったが、メイが興味なさそうにティーカップの水を啜っている姿を見て冷静な表情を取り戻した。大事そうに封筒を抱きしめ、腰を直角に折り曲げて頭を下げる。
「承知しました。必ず出して参ります」
「ふふっ、そんな気負わなくていいわ。それに、誰が見張っているかわからないし、明け方にこっそりと裏から抜け出して朝一番に郵便局で出してきなさい」
「承知しました」
メイがにっこりと笑う。
「今日は自分で車椅子を押して寝室でゆっくりするわ。貴女は貴女に与えられた使命を果たしなさい……きっと、それも私に言えないことなのでしょ?」
メイは全てを見透かしているかのようにウインクでリンの背中を押す。
だが、不思議とリンは嫌な心地は覚えなかった。
「……ありがとうございます。失礼します」
リンは黙って頭を下げて、足早に食堂から出て行く。
一人取り残されたメイは自分でティーカップに新しい水を注ぎながら、遠く先にある壁を虚ろな目で眺めながら呟いた。
「はぁ……。孤児にしては卑しさが足りないし、メイドにしては賢すぎる。軍人にしては不器用さが足りないし、刺客にしては優しすぎる……貴女たちの計画に、私の計算が上手く乗ってくれたらいいのだけど。果たして……まぁ、まだ油断は禁物ね」
メイは退屈そうに首を伸ばすと、器用に車椅子を反転させて食堂を後にした。
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