男装する妻の1日
――ガチャン!
「この売国奴がァ!」
静かな喫茶店内に、グラスが割れる音と男の怒号が響き渡った。
落ち着いた空間に浸っていた客の視線が一斉に壁際の一席に集中する。
そこには、何事もなかったかのように足を組んで椅子に座って新聞を読む洋装の人物と、その男を見下ろして拳を固く握っている和装の男。片手に折り畳んだ新聞を握りしめていた人物の足元には、投げつけられたグラスが掠めて外れた帽子が転がっていた。
椅子に座っている人物は足元に散らばったガラス片を一瞥して、呆れたように溜め息を吐く。
帽子の中に押し込んでいた団子状にまとめていた長い髪を下ろし、アヤは目線を上げていきり立つ男の刺すような視線に正面から立ち向かった。
「あの、申し訳ないですが、別に私がここで合衆国人用の新聞《英字新聞》を読もうと勝手では」
「その新聞はなァ……合衆国派に与する偏向報道まみれの新聞ではないか!その新聞を読むということは、合衆国派の利益になり、それは労働者から搾取を行う資本家を支持するこということと同義だ!」
捲し立てる男の口角から唾がアヤの顔に飛ぶ。
だが、それよりもアヤは男の稚拙で飛躍した論理に呆気に取られていた。
「えっと……」
アヤは、呆れたように丸くなった目を動かして、男に気づかれないように周囲の状況を確認。まだ幼さがほのかに香る面持ちの女が一丁前に男の洋装をして喫茶店にいる光景は、明らかに多くの人の目を引いていた。また、正面に立っている男は、いまにも掴みかかってきそうな雰囲気を纏っており、店員もどうしていいかわからないのか呆気に取られて動けないでいた。
――助けはなさそうね。
「はぁ……最悪ね」
アヤはめんどくさそうに腕を垂らして帽子を拾って目深に被り直した。
「おい、この男女ァ! この合衆国かぶれが! 俺の話を聞いているのか!」
「罵倒の語彙はそれだけですか?」
「なんだと!? き、貴様ァ…!」
「やはり、一般教養や見聞を深めるため、他人を罵倒する語彙力をつけるためにも、新聞を読むことは有効なようですね。アナタは文明開花という言葉をご存じで?? この国はもう変わったのですよ?」
アヤは白いシャツにかかった水を手で払い、服装を確認した。
焦茶色の背広に白いシャツにかかる吊りバンドと蝶ネクタイ、壁には持ち手に琥珀があしらわれたステッキという典型的なモダンボーイスタイルは、帝国時代の文明開花の象徴である喫茶店によく馴染んでいた。一方で、アヤの正面にいる古臭い旧時代の--帝国が帝国にとして成立する前――の武家階級者の装いで傍若無人な振る舞いをする男。
アヤは毅然とした眼差しを、今にも額の青筋が破裂しそうな男に向けた。
「私はアナタと問答するつもりはありません。では、失礼」
何事もなかったかのように立ち上がり、背広の内ポケットから財布を取り出して机の上に代金を静かに並べる。割れたグラス分も多く見積もって――
「――アナタが狼藉を働かなければ、二回はここで美味しい珈琲をいただけるのに。こんなところで怒鳴り声をあげるなんて恥ずかしいと思わないのですか?」
「女のクセに男の格好をしているお前に言われる筋合いはない!お前のような破廉恥な人間が増えているからこの国は狂っていくのだ」
「…………なるほど」
アヤは残念そうに視線を落として男の脇を通り抜ける。
そして怒って固まる男の背後に至って革靴の踵を鳴らすようにして、足を止めた。
「…………この国はずっと狂っていますよ。そして、アナタのような人を生んでしまった」
諦めたようにアヤはポツリと漏らし、男の脇を通り抜けて店を出ようとした。
そのときだった。
「き、貴様ッ! 我が国を愚弄したな!」
直後、男の逞しいだけの腕が大きく振り上げられる気配をアヤは感じ取った。殴って相手を従わせる――いかにも連邦派の人間らしい――と、アヤが皮肉っぽく胸の中で笑って振り返ったのと同時に、背後で振り上げられていた拳が顔面めがけて振り落とされた。
恐ろしく直線的で理性のかけらも感じない暴力。
アヤは一瞬で左手に持っていたステッキの感触を確かめて、左手首をくるっと回す。
「――ッ!」
まるで時が止まったかのように、男の動きが止まった。
喫茶店にいた全員の視線は、男の喉に突きつけられたステッキの先端に集中していた。
「刀じゃなくてよかったですね…旧時代ならアナタは喉を刺されて死んでいましたよ」
「お……おま…え……な、なんだよ……それ」
「これは連邦の棍術の応用です。もしかして見えませんでしたか?」
アヤは目に力を入れて、ステッキの先端を僅かに男の喉に押し込む。
さっきまでの血気が嘘だったかのように、男の顔色が青白く変化していく。
「では、これにて失礼。お代とグラス代はこちらに置いておきますね」
アヤは凍ったように固まる男に軽く一礼し、喫茶店を出ていく。
「――はぁ、あそこお気に入りだったのに」
雑踏の中に愚痴をかき消す。休日の銀座のレンガ街は人でごった返していた。
革靴の音、下駄を鳴らす音、子どもの泣き声、威勢のいい商店の客引きの声、貴族や成金が使う馬車を引く馬の嗎き――この国を挟んで行われている連邦と合衆国の大戦争の影響は微塵も感じない。まるでそんな戦争が存在しないかのような錯覚すら覚えるほどだった。
「早く帰ろう」
笑顔あふれる大通りの中で、アヤだけが溜息を漏らしていた。
半年前、帝国劇場に呼ばれた日のことを思い出していた。美しく、可憐で、精一杯飾られたドレスを着ている自身が咄嗟に脳裏に浮かび、アヤは顔を横に振って伏目がちに通行人の脇を通り抜ける。
「なぜ停電させたのか……暗闇……闇……あぁ、私のためだったのか。私は光の中では自分を保てないから……だめ、華山アヤになりきらないと。あれから半年も中佐から任務を貰えていないのに」
結婚させられてからアヤはまだ一回も宮都中佐と遭遇していない。
アヤは『中佐の求める華山アヤの役になりきれているのか』という不安と『いつになっても本格的な任務を与えられない』もどかしさに葛藤する日々が続いていた。
しかし、ここ3ヶ月、男装して通い続けている銀座にはどうやら答えはなかったらしい。
アヤは群衆に紛れ、街中の明るさから逃げるように帰路に着いたのだった。