メイドと姫の朝。そして蛇と呼ばれた女とメイド
都会から離れた山荘の一日は早い。
部屋数が十を超える屋敷の清掃を早朝から始め、メイの生活動線に埃や塵が一つもない状態を作り出すところから始まる。掃除が終わると、ちょうど毎朝屋敷を訪れる来客の時間が訪れた。
「――本日の朝刊です」
「いつもありがとうございます。こちら、昨日の朝刊です。処分の方よろしくお願いします」
「かしこまりました」
短い会話。
リンは新聞配達員から新しい新聞を受け取ると、それを丁寧に折りたたんで足早に中庭を通り抜けて屋敷に戻る。そして、届いたばかりの新聞と優しい石鹸の匂いを漂わせるメイの部屋着を、脚の不自由なメイのために作られた車椅子に乗せて彼女の寝室を訪れた。
「お嬢様、失礼します」
リンが、夢の世界に浸るお姫様の肩に優しく手を置いてか細い身体を小さく揺らすと、リンの主人は目をこすりながら上半身を起こした。
「おはようございます」
「はぁ、もう朝なのね」
「お着替えもお持ちしました……後ろから失礼します」
メイの着替えの手伝いを終えると、リンは慣れたようにメイを抱きかかえて車椅子に座らせて、誰もいない派手に飾り付けられた寂しい食堂まで連れていく。日替わりで用意する紅茶を注ぎ、何を食べても「美味しいわ!」と瞳を輝かせる主人の朝食をその隣で静かに見守るのが、リンの朝の日課になっていた。
「本日は合衆国で流行しているパンケーキを作ってみたのですが、いかがでしょうか? お口に合えばいいのですが」
「リン、最高よ……これ、ううっ……こんなほっぺがとろけるようなお菓子を食べたのは初めてだわ!」
「光栄です」
恍惚の表情を浮かべるメイ。彼女を横目にリンは淡々と食器の片付けを行う。
食堂と台所の往復の間、メイはリンが持ってきた新聞の朝刊に目を通して屋敷の外の世界の情報を摂取する。メイが新聞を読み終わるタイミングを見計らって、リンは再び食堂に姿を現す。
「このまま私の書斎に連れて行って」
「かしこまりました。それだけでよろしいですか?」
普段ならメイのワガママが発動する時間だが、今日はない。
拍子抜けした表情を浮かべるリンに向かって、メイは悪戯っぽく笑いかけた。
「安心して。今日からめちゃくちゃな命令はしないわ」
「そうですか……それは少し寂しくなりますね」
リンが静かに答えると、下からメイが不服そうに頬を膨らませてリンに顔を向ける。
「ねぇ、やっぱり嫌味?」
「いいえ、事実を申し上げただけです」
「そう……それじゃ、今日はここで本を読んでいるから、しばらく一人でも大丈夫よ。貴女は自分のやるべき仕事をしなさい」
「承知しました」
リンは車椅子を押して、食堂の隣にあるメイの書斎に彼女を送り届ける。壁には世界地図が張られ、本棚には無数の哲学書が並べられている、メイの執務机には外国語で書かれた本が積み上がっている。
ここがメイが一日の大半を過ごす時間で、リンはメイドになった日にメイから「ここに置かれている本の内容は全て記憶しているのよ」となだらかな胸を張って宣言されたことをふと思い出した。
くすっと笑いそうになるのを抑えて、リンはメイを所定の位置まで彼女を連れて行くと、そそくさとドアまで下がる。
「ではお嬢様、私は麓の街まで買い出しに行って参ります」
「わかったわ。気をつけていってらっしゃい」
「はい。お昼までには戻りますが、念のため窓の鍵は閉めさせていただきます。ご不便をお掛け致しますが、何卒ご理解いただければと」
「えぇ、いつもありがとうね。私も貴方みたいに立派に銃を扱えればいいのだけども」
「…………失礼します」
驚きで表情を崩す前に、リンは丁寧に頭を下げてメイの書斎を後にした。
「どうしたのよ急に……」
リンはぽつんと浮かんだ疑問を口にして、屋敷に唯一設けられている住み込みで働く彼女のために用意された部屋へ向かう。毎日磨かれなくなった髪を後頭部で結び、買い出し用の財布と大きなバスケットだけを持って玄関へ。
念のためと屋敷の外周を回って、窓が確実に施錠されているのかも確認。
二十分もかかる入念な確認を終えたリンは、最後に玄関の扉が閉まっているのを確認して、ようやく正門に向かって歩き出すことができた。
「施錠確認よし……最近物騒な事件が多いから気をつけないと」
リンは踵を返して、屋敷の正門に歩みを進めた――と同時に、屋敷の正門に続く坂道を猛スピードで駆け上がってくる自動車が目に入った。突然の来訪者にリンは慌てて、正門に急ぐ。
リンが門扉に到達したのと同じく自動車も正門前で停車――運転手が飛び出してきて慣れない様子で後部座席のドアを開ける。リンは目を細めて来訪者を観察した。
「――はぁ、相変わらず陰気な屋敷ねぇ」
降りてきたのは、真っ赤なワンピースに黒い帽子を被ったリンよりも年上な雰囲気を持つ典型的なモダンガールだ。パッと女を一目見て、リンは眉を顰めて不快感を露わにする。
ある種の本能的な反応だった。
「いやー、ここも久しぶりねぇ」
「……どなたでしょうか?」
「へぇー、アナタが新しいメイドさん? すぐメイドを辞めさせる我儘娘の下で一ヶ月耐えたって聞いたから、すごい女傑なのだと期待したのだけど」
「…………」
「あら、ダンマリ?」
「ここは帝都海運を率いる金井財閥の敷地でございます。部外者の方の立ち入りはご遠慮いただいております」
リンは物怖じせず、高飛車な態度を崩さない女にはっきりと忠告する。
だが、女はリンの不穏な気配を気にする様子もなく、リンの脇を通って敷地の中に入ろうとする――が、リンはすかさず女の手首を掴み、無言で睨みつけた。
「どちら様でしょうか?」
ギリギリと手に力を込めるリン。それでも、女は愉悦の笑みを崩すことなく、舐めるようにリンの身体を見渡すと、異様に長い舌で自身の唇を拭ってみせた。
「あらぁ……アナタ、誰に手を出していると思っているの?」
「それがわからないため、私はアナタにどちら様かをお尋ねしているわけですが?」
「うふふっ……まさかアナタ、金井財閥相談役『金井スズカ』を知らないって?」
リンの頭の中にメイの親戚筋の名簿が浮かび上がる。
金井スズカ――金井財閥の次期当主と結婚したメイの義姉に当たる人物で、未だに女性の活躍が見込めない帝国内において経営手腕が評価されて異例の相談役まで上り詰めた女傑だ。リンも彼女の名前は把握していたが、それでも物怖じせず、スズカの目をまっすぐに見つめて口を開く。
「これは失礼しました……しかし、本日のご来客予定名簿にお名前はありません」
「そりゃ、あの娘が何をしているか、ちゃんと反省しているのか、会長に報告するためにわざわざ私がやってきてあげるのだから予告したら意味ないでしょう? 入れないのかしら?」
「申し訳ございませんが、お嬢様は執務多忙につき誰ともお会いできません。面会希望の場合、また日を改めてお越しいただければ……」
「メイドのくせに私に命令するってわけ? この家も、ここの食事も、アナタのお給金も、誰が出していると思っているの? 全ては会長のおかげでしょ? アナタ仕事を失いたいの?」
「私はお嬢様のメイドでございます。ゆえに私が従うのはお嬢様の命令のみです」
「……ふぅーん。そういうことね」
二人の女の間に火花が散る。
明確な蔑視と堂々たる敵意のぶつかり合いは、わかりやすい一触即発の雰囲気を漂わせている。リンは自分を飛び越えた後ろにある屋敷の主人に向けられている不穏な気配に、本能的に強い危機感を覚えつつ立ち向かっていた。
だが、車から降りてきたもう一人の男の一声が、険悪な熱気に冷や水を浴びせる。
「――スズカさん、もういいよ」
運転手に支えられて降りてきたのは、メイの兄である――金井財閥の次期当主『金井直好』だった。リンは咄嗟に記憶していた金井一族の顔写真を思い出し、名前と顔を付合させる。
本人確認が完了――と、リンは、スズカから手を離して先ほどと打って変わって、深々と丁寧なお辞儀で主人の兄を迎えた。
「直好様、初めまして」
だが、直好も挨拶をするリンのことは視界にいれず、薄らとこめかみに青筋を立てているスズカの腕を優しく引っ張って車の中に戻そうとした。
「スズカさん、また日を改めよう。しっかりしたメイドも就いているみたいだし」
スズカは少し不服そうにリンと直好を交互に見て、諦めたようにため息を吐く。そのまま、スズカはお辞儀をしたままのリンの横に身体をつけて、直好には聞こえないくらいの声で囁き始めた。
「アナタ、この家のメイドなら、少しだけ頼み事を聞いて欲しいの」
「…………なんでしょうか?」
車の後部座席に戻った直好に悟られないように、リンはお辞儀をしながら返事をする。そんな彼女の背中に長く伸びきったスズカの爪がゆっくりと降ろされる。ぐりぐりとメイド服を貫く痛みに、リンは表情一つ変えずにお辞儀を続けた。
「会長がね、あの娘のことを心配しているのよ。昔くだらない正義感で会社を潰そうとしたことがあってねぇ。私と会長でなんとか阻止したのだけども、それでもあの十六の娘が何を考えているか、いまだにわからないわけ。だから、会長も不安みたいでねぇ」
「それで? なんのご用でしょうか?」
「簡単よ。これからメイの様子を私たちに報告するだけ。毎日手紙でどんなことを話していたか、どんなことをしていたか、それだけでいいわ」
「なるほど……」
「当然お給金も弾むわよ。今の三倍は出してあげてもいいわ……あの娘に信頼されているアナタにしか任せられない仕事なの。どう、できそうかしら?」
「…………丁重にお断り申し上げます」
リンは痛みに耐えながら、きっぱりと意思を明確に表す。
同時に顔をあげ、凛とした佇まいで、目の前で面食らったように目を丸くしている高飛車な女を見つめる。立場はリンのほうが圧倒的に低いが、彼女は彼女なりの忠義を示して、スズカに早急な帰宅を促す。
「えっ……はぁ!?」
「どうぞ、早くお帰りください。ここは部外者の立ち入りは禁止されています」
「お前……絶対後悔することになるぞ」
本性を見せるスズカ。
だが、リンはスズカを睨み返して、拒絶の意思を示した。再び辺りに立ち込めた一触即発の雰囲気だったが、車の中から直好が顔を出してスズカの腕をさらに強く引っ張る。
「スズカさんどうしたの? 早く行こうよ!」
「えっ、えぇ……今行くわよ!」
自動車の横に立っていた成り行きを見守っていた運転手が、スズカとリンにそれぞれ一礼して後部座席を閉めて運転席に乗り込む。リンは自動車が発進して坂を駆け降りて見えなくなるまで、しっかりと睨みを利かせた。
やがて、穏やかな朝の静寂を取り戻すと、リンは地面に置いていたバスケットを腕に通して歩き始める――だが、彼女の目にはいつになく感情がこもっていた。
「……くそっ!」
浮かび上がったのは、存在しないはずのリンの記憶。
激しい雷雨の夜と血の臭いと、耳の奥にこびりついた男女の悲鳴。そして、稲光が一瞬だけ露わにした血の海の中で愉悦に浸る人物の耳と、その声がはっきりと頭の中に浮かび上がる。
麓の街に向かう道中も、彼女の頭の中では吐き気を催すほどの血の再演が繰り広げられていた。奥歯で噛み締めた唇から伝わる血の味に気づいてもなお、彼女は軽く手で口元を拭うだけで、歩みを止めることはしない。
「アイツだ……間違いない」
風がリンらしからぬ言葉をかき消す。
だが、リンの両手には、誰にも見せたことのない怒りを纏った拳が強く握られていたのだった。
次回の投稿は10月10日の金曜日です。




