中佐の呼び出しと動き出した敵
◇◇◇
――三週間後。
神戸での新婚旅行を終えた笑一は、宮都中佐から呼出を受けて都内の料亭に顔を出した。説教か、状況報告か――笑一は指定された住所に到着して、後者であると判断してルンルンと口笛を吹きながら荘厳な門をくぐった。
「――いやぁ、それにしても今日はえらく豪華だなぁ」
女将に案内されたのは料亭の離れ。
設けられたお立ち台の木のぬくもりを感じられる個室の中には、縄文杉を切り出して作られた座敷卓と香りで雅を演出する京畳、金糸が織り込まれた座布団が一人分のみ。江戸切子の中に生けられた一凛の菊の花が、落ち着いた空間の中にピリッとした緊張を与えている。
「さぁて……今日は、庭園からのっそりやってくる、に賭けてみようかな」
寂しく置かれた座布団に腰を下ろして日本庭園を眺めて時間を潰す。
「はぁー、中佐ぁ~。そろそろ来てくれないと寝ちゃいますよ?」
景色に飽きて大あくび。
だが、笑一の集中が切れたのと同時に、彼は背後に人の気配を感じ取って振り返ろうとした――が、首を動かそうとしたのと同時に鋭利に研がれたかんざしの先端が笑一の首筋に当てられ、細い手に口を塞がれる。
「馬鹿者、そう簡単に背後を取られるな」
背後から覇気のある力強い声。
笑一は久しぶりに背筋が凍るような思いを覚えた。
足音も、気配も微塵も感じられなかった。
笑一は、後ろの殺気を中和するように、大きな溜息を吐いてから満面の笑みを作った。
「おかしいなぁ。今日はご褒美なのかと思ったのに、折檻の時間でしたか? ……中佐」
直後、笑一にかかっていた圧力が消え、彼の視界に優艶な雰囲気を漂わせた女性の姿が入り込む。
「やっぱりアナタはその姿が一番美しいです」
「つまらんお世辞はやめろ」
桜の花びらが乱舞する詰袖の着物に、金色の西陣の帯。
顔の印象を薄くしてしまう白粉の上からでもよくわかる長い睫毛に縁取られた意志の強そうな漆黒の瞳と、スッと伸びた鼻梁、特に艶のある桜色の唇が大人の雅な色香に当てられれば、通りを歩くほとんどの男がすれ違いざまに見返ることは間違いないと思われる。
「お前と久しぶりにゆっくりと話したくてな」
座っていてもピンと伸びている背筋や、見るからに上質な生地で仕立てられたことがわかる白黒の縞模様の着物や綺麗にまとめられた髪に挿している金色のかんざしが、女性の澄んだ夜の月明かりを彷彿とさせる淡く漂う気品や外見の魅力をより高めている。
まるで薔薇と桜が掛け合わされたような不思議な雰囲気に、笑一の心も自然と惹かれてしまう。
(綺麗だ)
そんなありきたりな言葉がつい口から出てしまいそうになるのを抑えて笑一は、苦し紛れに鼻を鳴らした。
「はぁ、僕の賭けはいつも中佐が相手だと外れてしまう。普通に話がしたいだけなら、いきなり殺気を僕にぶつけなくてもいいのに」
「さっきのは東京駅での仕返しだ。お前、おもっきり殴っただろ」
「あはは……いやぁー、僕も嫌味な成金という役に入り込んでしまいまして。ただ、あの騒動のおかげで僕たちも車掌として潜入しやすくなったわけじゃない……です…………よね???」
「お前、今の言い訳、私の目を見て同じこと言えるか?」
「困ったなー、中佐が美人すぎて目も合わせられないや」
笑一は苦しい笑顔を浮かべ、日本庭園に視線を逃す。
この前の演目で、粋がる成金青年を演じていた笑一は、東京駅で周囲の注目をアヤと新田から逸らすために、わざと大声を張り上げて芸者を殴っていた。その殴った相手こそ、笑一の前で彼に睨みを利かせている宮都中佐だった。
「あはは……す、すいませんでした!!」
身体を押しつぶさんとする圧力に耐えきれず、笑一はその場で土下座する勢いで畳に額をこすりつける。そんな彼の耳に「ふふっ」といたずらっぽい笑い声が聞こえた。
「顔上げろ。お前の土下座はもう見飽きた」
「まぁ、僕にはこれしかできないもので」
顔を上げて舌を出す笑一に、中佐は呆れたように溜め息をついて口を開いた。
「茶番はここまでだ」
中佐は、机に置かれていた笑一の湯飲みを奪って、冷めきったお茶を一気に飲み干して話を続ける。
「あの作戦の2日後、ミュラーが死体で発見された」
「ほぉー、それは急な話で。他殺ですか?」
「表向きには借金苦による自殺とされている。だが、これを見てみろ」
中佐が懐から折りたたまれた書類を笑一に投げ渡す。
『事件報告書及び鑑識書』と書かれた紙には、事件の発生日時や目撃者、そして遺体の検視結果などが細かく記されており、笑一は興味深そうにじっくりと読み込む。
「ふむふむ……両膝の皿に銃創、顔面がへしゃげるほどの暴行痕……わーお、胸には十文字の刀傷か。これのどこに自殺判定要素が?」
「新田の取調と思考誘導の間に調べたのだが、仕掛けた奴は警察上層部も手中に収めているようだ。この事件報告書を書いた奴も消されたよ」
「ふーん」
「どうしたあんまり興味なさそうだな」
「いやぁー僕たちが楽しんでいる間も中佐は仕事をしていたんだなと思いまして……それじゃあの新田とかいう記者も殺された感じですか?」
「いいや。徹底的に取り調べたうえでこっちで手を回して釈放させた。だいぶややこしいことにはなったが、被害者も死んだことだしな」
「なるほど。中佐の取調べか……もう一生の心傷でしょうな」
「はぁ? 生かさず殺さずに寝かせないようにしているだけだが?」
「うわぁーあの長時間自分の認識を否定され続けるやつか……僕なら絶対耐えられない。あー可哀想。南無南無」
笑一は再び庭園に向き直り、自己認識を昇天させられたであろう新田に向かって両手を拝む。
中佐は緊張感のない笑一にムッと鋭い視線を飛ばした。
「ふざけたことをぬかすな。尋問を受けるときの手解きはたっぷりとしてやっただろうが」
「あれ苦手だったんですよ。だって、中佐の尋問は本当に怖くて……今も思い出すだけで寒気がしますよ。2週間食事が喉を通らなかったんですから」
「情けない奴だ。アヤは顔色一つ変えず耐えていたぞ」
ここで笑一は右眉を吊り上げて口角を上げた。
「でも、それを中佐はあの子の欠点だと考えているのでは? あの子は中佐に忠実だからこそ、訓練を訓練と割り切ってしまう。あの子の抱えている闇は本当に興味深いところがありますよ」
ここで笑一は、中佐の目が一瞬足元に沈んだのを見逃さなかった。
「へぇ、中佐もそんな悲しそうな目ができるのですね。あっ、それも演技ですか?」
「いい加減その口を閉じないと、本当にお前の口を封じることになるぞ」
「ははっ、そんな脅しは通用しませんよ。新婚旅行中にも同じような言い回しを何十回と妻から言われましたからね」
「はぁ、あいつはまったくもう……ところで、あいつもミュラーの正体には気づいていたか?」
笑一は嬉しそうに頷く。
「えぇ、気づいていましたよ。ただ、その正体にはあまり興味はなそうでしたがね」
「押さえた鞄の中に入っていた書類は見たか?」
「全部見たかはわかりませんが……あれもあれで大変な内容でしたね――陸軍の青年将校たちのクーデター計画と合衆国への支援要請書とは……さすがに僕もびっくりしましたよ。しかも、内閣の重鎮を武力で粛清したあと、陸軍の重鎮たちは彼らの思いを汲んで皇帝陛下の親政の提言を行うとか、この国の国家秩序の根底が揺らぐような史上最大級のスキャンダルだ」
軽やかな笑一とは反対に、中佐の表情がさらに引き締まる。
「だが、我々はこの計画を事前に察知し、今回の作戦で我々は陸軍に首輪をかけることに成功した」
「それなのに表情が硬いのはどうしてです?」
笑一の問いに、中佐はいつになく真剣なまなざしと共に答える。
「笑一……御庭番が本格的に動き始めた」
「あーそりゃマズいな」
笑一は笑みを崩し、中佐に向かって正座していつになく真剣に話を聞く姿勢にとった。




