鞄持ちの素顔と取り調べ
「――それじゃ、楽しい神戸観光を始めようか」
神戸駅を出たアヤと笑一は、駅に面する大通りに向かう。
アヤの視界に後部座席のドアが開いたままになっている黒塗りのタクシーが映った。刹那、笑一が突如立ち止まり、大きな革製の旅行鞄を軽々と両手で持つ彼の背中を追いかけるように歩いていたアヤに向き直る。
得意気な笑顔を崩さず、首を軽く振ってタクシーを指す。
「ほらね、鞄持ちが来たでしょ?」
「あれがですか?」
「そうだよ。運転手は誰だろうね」
含みを持たす笑一の言い方にアヤは不満気に口先を尖らせる。
そのまま二人は吸い込まれるようにタクシーの後部座席に乗り込む。運転席には全身黒色の制服を纏った制帽を深く被って俯いている人物がおり、アヤは運転手の背後に腰を下ろした。
『――二人ともご苦労だった』
運転手の声を聞いてアヤの目が丸くなる。
「中佐!?」
アヤは思わず運転席にしがみついて中佐の顔を覗こうとしてしまう――が、笑一がアヤとの境界を作るように旅行鞄を置いたため、その企みは失敗してしまった。ただし、アヤは助手席に、綺麗に畳まれた笑一が変装のために使っていたものと同じ車掌の制服とその上に綺麗に紐で綴じられた紙の束があることを見逃さなかった。
それは中佐も列車に乗っていたということを意味していた。
アヤは、笑一だけでなく中佐にまで監視されていたと思い直し、途端に緊張で身体が硬直してしまった。
「笑一、どうだった?」
「いやぁー、もう完璧ですよ! さすが中佐が認めた人材というだけあるなと」
「中身は確認したか?」
「そりゃ、もちろん! それも完璧です」
「新田の反応は?」
「中佐も見ていたでしょ? 何もわからないまま気絶です……そっちこそミュラーは?」
「こちらも問題ない。アイツも問題を起こした以上、飼い主からもお役御免を言い渡されるだろう」
「わーお、それはとても素晴らしい話だ。これもアヤちゃんのおかげだね」
だが、アヤはうまく反応できず、俯いたまま小さく「はい」と答えることしかできなかった。
そんなアヤの様子を背後から感じ取った中佐は、少しだけ制帽のつばをあげてタクシーのエンジンを始動させる。同時に、片手で助手席に置かれている紙の束に手を伸ばす。
「アヤ、合格だ」
「ちゅ、中佐!?」
だが喜ぶのも束の間、アヤの足元に中佐が後ろに向かって投げた台本が落下する。
「次の台本だ。覚えろ」
「はいっ!!!!」
アヤは嬉しさで顔を紅潮させながら、素早く台本に目を通した。
また時間を測られると思っての行動だった――が、中佐は嬉しそうに鼻を鳴らしてアヤの集中の邪魔をする。
「覚えるのは、ホテルに着くまででいい。今回は少し長いぞ」
いつも通りの一方的な命令口調。
ただ、アヤには優しさに感じられた。
「あ、はいっ!」
少し遅れて返事。
怒られると思ったが、中佐はそれ以上のことは何も言わず。
「............アヤ、次も期待しているぞ」
とポツリと漏らし、静かにアヤを鼓舞したのだった。
◇◇◇
「――うーん」
寝台車から担ぎ下ろされた新田は、カビの臭いが漂う警察署の留置場の独居で目を覚ます。
上階から滴る天井、鉄格子の扉、カビが群生するコンクリートの壁――正体不明の青年に殴られたことを思い出した新田は、無賃乗車と客室荒らしの現行犯として駆けつけた巡査に逮捕されたことを見張りの巡査に知らされて、動揺を隠せないでいた。
「――だから何度同じこと言ったらいいんだよ!」
取調室に響く新田の怒声。彼は何度も同じ説明を繰り返していた。
「俺は陸軍の宮都中佐とミュラーがやろうとした取引を暴こうとしたんだよ! 間違いなくあったんだ! あいつらの鞄から一覧表と現金を――」
だが、語気を強める新田と反対に、机を挟んで彼と相対する警察官らは、怪訝そうに首をかしげて互いに顔を見合わせる。何人もの警察官が代わる代わるやってくるが、全員が不審な表情を隠さない。
取調べも五時間ほど続き、新田は同じ言語を使っているはずが、話が通じないことに恐怖を覚えるほどになっていた。
だが、新田の取調べを行う巡査らは皆、口を揃えて彼にこう話す。
――そもそも陸軍に『宮都中佐』なる人物は存在しない
さらに付け加えて
――『土方チカ』は合衆国に留学している
新田は愕然と目を見開くしかできなかった。
「そ、そんな馬鹿な……それじゃ俺は一体だれを…………」
その日から新田は一日十四時間以上の取調べを受けることになる。
暴力がなかったのは幸いだったが、次々とやってくる高圧的な巡査たちと怒鳴り合う劣悪な拘禁生活が一週間ほど続き、新田の思考回路もある種の適応反応を示すようになり、やがて彼は巡査の尋問にただただ頷くだけの生きた人形になっていった。
「よしっ……それじゃ調書を読み上げるぞ。長いから概要だけを話すぞ」
制帽を深く被った巡査が静かになった新田に尋ねる。
答える気力も失っていた新田は、首を落とすようにカクンとうなずく。
「まず、お前は一等寝台車の旅券を窃取し、一等寝台車に乗り込んだ。そこでお前は合衆国人ミュラー氏の鞄を盗んだ。理由はそこに『陸軍とミュラー氏の癒着に関係する書類がある』と確信していたから……ここまではいいか?」
「……はぃ」
「だが、実際にお前が盗んだのは、新聞記事の切り抜き記事を蓄えていた鞄だった」
「…………ちがう」
「お前は何度もそこに一覧表があると言ってたな。しかし、ミュラー氏は『そんなものはない。新聞の切り抜きが持ち物』だと言っていたぞ」
「ふっ……」
「おい新田、何がおかしい?」
新田は、虚ろな目を顔の見えない巡査に向けて、無精ひげで覆われた口を開けた。
「そりゃ…そんな一覧表があるなんて……認めないでしょ。はははっ……」
「お前はまだ信じているんだな?」
「当たり前だ……記者のカンがそう言ってんだ」
「…………そうか」
新田はふと鉄格子で固められた窓からの景色を眺める。
一等寝台車からみた車窓の景色と打って変わった無機質な光景に死んだ目を向けて、ぽかーんと口を開けた。頭のおかしい奴扱いが続き、本当に自分がどうなってしまったのかと、何も信じられなくなっていた。
薄暗く湿っぽい地下から、希望色に溢れた地上へ。
早くここから出たい――それだけが新田の今の願いだった。
「……俺は何を追ってんだろうな」
口から自然と漏れ出た言葉に、調書を眺める巡査の手が止まる。
「幽霊でも見ていたんだろう。働きすぎだ」
巡査が立ち上がり、制帽のつばを上げる。
その瞬間、新田の体に雷に打たれたような衝撃が走った。
ふわりと頭から垂れてきた長い髪と冷たい瞳に釘づけになる。
「お、女!?」
思わず立ち上がるが、ここ数日満足な食事を摂ることができなかったため、自分の足で身体を支えることができず膝から崩れ落ちるように顔から地面に倒れ込んだ。そんな彼の視界の端に黒光りする長靴の先端が映りこむ。
「貴様の与太話……いつもの匿名の情報提供者なら信じてくれるかもな」
「お前ッ! ま、まさか……」
「帝国にとって腐った中枢の連中も癌だが、お前のような承認欲求に飢えた正義漢も毒になるんだよ。お前と会うことは二度とないだろう」
正体不明の女の悪魔のような囁きを聞いて、新田は初めて自分がハメられたことに気づいた。
だが、彼はもう言い返す言葉を残していなかった。
冷たく遠ざかる足音。
それから少しして、扉の閉まる音がまだ起き上がれない新田の耳に入った。
記憶が戻ってくる。
細くなった手を握り締め、新田はもう一度自分の記憶を信じることにして裁判所で改めて訴えようと考えた。
だが、一度盗人の烙印を押された新田の言葉に耳を傾けるような人間は、もういなかった。




