嘘と秘密だらけの新婚旅行
アヤは目を細めて首を捻った。
「なんの答えです?」
「そうだねぇ。まずはこの作戦の意味……とかかな」
「私は中佐から与えられた台本に従って動いているだけですので、意味は考えていません」
「なるほど。じゃ、君から僕に報告するという形で、今考えていることを僕に教えてくれないか?」
あくまでも柔和な表情を崩さない笑一。
それが反対に自分を試す好奇な顔つきにしか見えないアヤは、少し考えて口を開いた。
「意味は簡単です。私が使えるかどうかの試験です」
「違う違う、そっちじゃない」
「どういうことですか?」
「なぜ中佐はこの鞄の中身を欲しがったと思うかって話だよ」
「なるほど……これはあくまでも次の舞台の布石です。中佐はこの国の中枢に何か仕掛けようとしているのでは?」
表面的な喜びが透けて見える笑顔がアヤの目に映る。
「おぉ、興味深い意見だ。続けて」
「あの新田という男、駅で私にぶつかったとき、何か必死になって追いかけている感じでした。彼はここ数ヶ月に渡って次々と政財界や軍部の不祥事や汚職を暴いており、今回も大きな闇を追いかけていると話しています。きっと中佐は彼が追いかけていた何かを彼より先に手に入れようとしたのでしょう。そして、ミュラーがそれを持っていることを知っていた……いや、もしかして、新田をそそのかしたのは中佐ですか?」
「ほーう? どうしてそう思う?」
「そもそも、笑一さんの台本に新田の存在があるなら、彼もこの舞台の登場人物の一人ということになります」
「そうだね」
「新田は今、帝国の中枢から最も嫌われている存在です。そんな彼の影響力を削ぐことができる……しかも、我々が軍部の大汚職の証拠も事前に保全できる……ミュラーとの関係も私がすり替えた鞄の中身からは明らかにならないでしょうし、中佐は今回の事件をきっかけに陸軍の上層部の一部を傀儡にしたいのでは?」
「あーー、確かに。あの人なら考えそうだねぇ」
「……正解か不正解かも教えてくれないのですね」
「そりゃ、僕は何も中佐から聞いていないからね」
アヤは呆れてため息と一緒に肩を落とす。
だが、笑一はまだ楽しそうに話を続けようとする。
「じゃ、今度は新田をうまく使って任務を完遂したチカちゃんの解説でもしてもらおうかな?」
「全部ですか? 長くなりますよ?」
「うーーん、そうだな。まぁ……例えば、この鞄をすり替えた場面とか?」
アヤは「あぁそんなことですか」と漏らして、目線を旅行鞄に移して口を開く。
「横浜駅で乗ってくるミュラーを部屋へ案内したときですよ。私が何もわからないふりをして入ってきたとき、彼もまだ部屋に入ったばかりだったのか、無用心にも寝台の上にこれがまだ置いてありまして」
「へぇー、そんな簡単に?」
「おそらく誰かと取引をするつもりだったのは本当でしょう。無意識だと思いますが、咄嗟に廊下に誰もいないかを確認して私に背中を向けたので、その一瞬で鞄をすり替えました。まさか中佐の用意してくださった鞄と全く同じものを持っているとは思いませんでしたが……これも彼の方の計算だったのでしょう」
「あははっ、二人ともさすが! じゃ、ミュラーはどう思った?」
「本人は最後まで私が取引相手かどうか判断しかねている様子でした。色々とシグナルを送ってきていたので……つまり、取引相手は女で私と年齢か容姿が近いということになります。ただ、これ以上は私の感知するところではありません」
「それじゃ、最後だ。ミュラーについてはどう思った?」
「……まぁ、あの人も我々と同じような人間だと思います。合衆国の人間かも怪しいかと。どうでもいいことですが」
「あははっ、すごい。 やっぱり気づいていたんだ」
「そりゃ、気づきますよ」
「どこで気づいたの?」
「もしかして、なにやら楽しんでいます?」
「うん。すっごく。気になるからね」
気持ちが強く乗った言葉に押され、アヤは溜息を吐く。
そして、ミュラーとの思い出を脳裏に思い起こした。
「彼は合衆国の人間を名乗っているはずですが、私を食堂車に誘うときに『我がセイロンティー』と言いました。おそらくセイロン島のお茶のことを言っていると思いますが、セイロン島は合衆国の支配域ではなく、明確に連邦の支配域です。また、戦争について尋ねた際の彼の反応から、彼は『ただ武器を売っているだけの人間ではない』と思いました。彼には明確に思想がある。組織なのか、彼自身のものか分かりかねますが」
さらに、この他にもミュラーと重ねた会話の内容の端々に感じた違和感などを洗いざらい笑一に伝えた。
淡々と告げられるアヤの報告を、いつになく真剣な表情で聞き入る笑一。
「――報告は以上です。 満足ですか?」
アヤが冷たく言葉を切ると、再び嘘っぽい笑顔を浮かべ、満足げに立ち上がって手を叩いた。
「いやぁー、素晴らしいよっ! これで僕も君もやるべきことを終えたわけだ」
「お疲れ様でした」
アヤは両膝に手をおいて深々と頭を下げた。
だが、笑一は話を続ける。
「よし、それでは……ここからは、『夫婦』の仕事に集中しよう」
「仕事? 私はそんな台本を中佐からいただいておりませんが?」
「さて問題です。どうして僕たちの切符の行き先が神戸になっているでしょうか?」
「……はぁ、とても嫌な予感がします」
アヤは眉を顰めたが、笑一は嬉しそうに首を横に振る。
「いいや残念。なんと中佐からの新婚旅行のプレゼントです!」
「はぁっ! し、新婚旅行!?」
「ほら、僕たちは遠出したことないでしょ? これも関係を深める良い機会だと思うんだ」
夫婦で乗車する寝台列車。
しかもその行き先が『神戸』――新婚旅行だと言えば、誰も怪しまない場所に設定されている。
ただ、アヤは戸惑っていた。
中佐の意図を汲み取ることができず、どう反応し、どう動いていいのか全く頭に浮かんでこなかったからだった。
深淵から全てを見通しているような、異様で威圧的な雰囲気。
神出鬼没で、誰も正確な正体を知らない。
非常に人間的なふるまいを見せたと思えば、突然冷徹漢へ豹変することもある。
分かっていることは、自分の上司であり、才能を認めてくれた唯一の人で、『仕事』に必要な技能を叩きこんだ張本人で、偽装夫婦でいることを命じたということだけ。
だが、無駄なことは一切しない主義。
アヤはこれも何かの試練だろうと、仕事として割り切ることにした。
「まぁ仕事ということなら、承知しました」
「よし、それじゃ僕たちの部屋に移動しよう。他人の部屋だとなかなか寛げないからね」
笑一がおもむろに丸々と太った二つの旅行鞄を手にして立ち上がる。
「あら部屋をとっているのですか?」
「あぁそうだよ。平気で女を殴るような意地汚い成金の部屋さ」
「成金? えっと、じゃ、新田が拾った切符っていうのは」
「あははっ! さぁー、誰のなんだろうね。もう終わった話だから忘れちゃったよ」
いつもはほとんど閉ざされている糸目が、一瞬クワっと開いた。
何も聞くな、とアヤは命令されているように感じ、それ以上の言葉を飲み込む。
「それじゃせっかくの新婚旅行だ。思いっきり夫婦らしく楽しむとしますか」
「まさかその荷物を持ったまま旅行ですか?」
「大丈夫だよ。駅には本物の鞄持ちが待機しているからさ」
「承知しました……ただ、一つだけよろしいでしょうか?」
「うん?」
笑一は笑みを崩し、不思議そうに首を傾げる。
アヤは刹那の沈黙のあと、重い口を開いた。
「可能であれば、私の前で煙草を吸うのはやめていただきたいのと……あと、寝るときはこの部屋に戻りたいです。申し訳ありません」
笑一は少しがっかりしたように目を伏せたが、すぐにいつもの飄々とした表情を浮かべて大きく頷く。
「わかった。アヤちゃんが嫌がることはしないよ。安心して」
「ありがとうございます……すいません」
「気にしないで。言ってくれてありがとう」
こうして華山夫婦は、自分の荷物と存在の痕跡を消してから、成金風青年と芸者が泊まる予定だった隣の部屋へ移動したのだった。




