捕まる女と掴めない男
それは『富士駅』に到着するのと同時に発生した。
『――お客様のお部屋に泥棒が入りまして』
可憐な少女と初老の紳士しかいない食堂車でささやかに催されていた茶会は、制帽を目深に被った車掌によって急遽中止になった。チカに背中を向けたままミュラーの耳に手を当てて淡々と報告を行う車掌に対して、ミュラーの顔色は言葉を車掌と重ねるにつれてどんどん青ざめていき、目線も落ち着きを失っていく。
車掌の声は今にも消え入りそうなほど小さかったが、不気味なほど落ち着きの払われた車掌の声はチカの耳にもはっきりと届いていた。だが、彼女は紅茶を啜って聞こえていないフリを続ける。
チカは、上品な香りと共に立ち昇る湯気の隙間から静かにミュラーの顔色の変化を観察し、次の動きを予測していた。
「オ、オゥ……申シ訳無イデェス」
やっとチカを視界に入れたミュラーが申し訳なさそうに頭を下げて席を立つ。
「あら、何か問題が?」
「イヤ……チョット失礼。オ代ハ、ココニ」
「ミュラー様、私にお手伝いできることありますか?」
「ノー! ダ、大丈夫ディス……チョット仕事ノトラブル……」
見るからに大きな問題を前にチカなんて構っていられないと言わんばかりのミュラーに、チカはきょとんと目を丸くする――演技をしながら、車掌と共に足早に個室に戻るミュラーの背中を黙って追いかけた。
「……ごめんなさい」
誰に向けたわけではなく、何気なく口から出てきた謝罪の言葉。
一人残されたチカは車窓からの景色を横目で眺めながら、味気ない孤独なティータイムを続ける。
しばらくして、構内で待機していた巡査たちが一斉に寝台車に乗り込んで気絶している男の四肢を引っ張って引き摺り出す様子と、男の後に続くように彼とは対照的な高級な装いに身を固めた西洋人が慌てて降車する姿が、新しいお菓子を口につけようとしていたチカの目に入った。
ミュラーが革製の大きな旅行鞄を巡査から取り戻そうと母国語で怒声を上げるが、巡査たちは何を言っているのかさっぱりわからない様子で証拠品を奪いにきた外国人を身体を使って阻止している。
5分もすると、二人ともチカの視界から消え、再び優雅な静寂が彼女を優しく包み込んだ。
列車も大きな汽笛を鳴らして、次の駅に向かうために進み始める。
チカは、ちょうど空になったティーカップを置いて、部屋に戻ろうと席を立つ。
だが――彼女の背後には、見覚えのある長身の男が笑顔を浮かべて立っていた。
「――見目麗しいお嬢様、よろしければ席をご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
聞き覚えのある軽薄な声と、鼻に刻み込まれた重ったるい香料を含んだ煙草の臭い。
品のない高級な装いを纏った優男の登場に、少女は『土方チカ』の仮面を外してため息を吐く。
「……あの、足音を殺して背後に立たないで頂けます?」
「あははっ、もしかして気づいていた?」
当たり前だとアヤは眉間にしわを寄せる。
食堂車の大きな鏡には、清純な装いを纏うアヤと、彼女の背後に立つ彼女と服装を合わせるように頭の先からつま先まで白で統一した笑一の姿がはっきりと映っていた。アヤは黙って視線を鏡に向けると、笑一は「こりゃ迂闊だったか」と笑う。
「はぁ、ここでは人目につきますから、お話は私の部屋でどうでしょう?」
「おっ、嬉しいね。君から誘ってくるなんて。こんなお昼からなんて楽しみだよ」
「そのまま床に組み伏せて喉を掻き切られるかもしれませんよ」
ジロっと鏡越しに睨みを効かす――が、笑一は吊り上げた口角を上げたまま、戯けるように 大袈裟に両手をあげて後退りする。
「おっと、それは怖いねぇ。用心しないと。大丈夫だよ、何もしない」
「…………かしこまりました。では、参りましょうか」
こうして華山夫妻は、『土方チカ』の部屋へ。
「安心して。この客車にはもう僕たちしかいないからさ」
「では、話し声も気にせず、広々と使えますね」
隣り合うように腰を下ろそうとする笑一から逃げるように、アヤはあえて彼と向かい合う位置に座った。
そして足元に隠していた二つの革製の大きな旅行鞄を寝台の上に置いて、笑一に見せつけるように勢いよく解錠する。一つには細かい文字が並ぶ書類の束が、もう一つには大量の現金と数種類の旅券、替えの下着などが押し込められていた。
笑一はその一つ一つを興味深そうに唸りながら検品する。
紙を捲る音だけが響く個室の中で、アヤは目のやり場に困り、車窓に目線を移す。
一瞬アヤの視界に入った目の前にある【極秘】印が押された書類の数々の内容を正確に思い出しながら、新田が車内で得意気に話していたミュラーと陸軍の癒着について考えを巡らせながら、笑一の言葉を待つ。
「なるほど……」
三〇分ほど経過し、笑一は丁寧に荷物を旅行鞄に戻してアヤに顔を向けた。
清々しいほどにわざとらしい満面の笑みに、反対にアヤは冷ややかな視線を送る。
「――素晴らしい。どうやら君の初舞台は大成功だったようだね」
「そうですか」
「あれ?? 感動とかない感じかな?」
「私は中佐に言われたことをしたまでです。この列車に乗ってミュラーという名前の外国人の持っている鞄を奪え――台本もわずか数項しかない非常に簡単な任務でした」
「いやいや! そんなことはないと思うよ? あの新田という男を使ったのはさすがだったと思う。だってあの男の登場は君の台本にはなかったはずだからね」
「なるほど。では、笑一さんの台本にはあったということですね?」
「あっ……あはは…………ど、どうだろう??」
「白々しいですね。本当は私が失敗しないかずっと監視していたのでしょう? あの男が逮捕されて退場したときに全て悟りましたよ」
「いやいやいやっ、監視だなんてとんでもない。僕は与えられた役を忠実に演じていただけさ。するとどうだろう、ここで妻と出会った。いやぁー、僕たちの縁は切っても切れないようだねぇ。やはり運命に導かれた夫婦はどこまで行っても一緒になる定めなんだ」
「その切れない縁とやらがあるのなら、試しにそれで笑一さんの首を括って差し上げましょうか?」
「あうっ……そ、それは厳しい話だ」
またわざとらしく怯えるフリ。
構って盛りな子どものような態度に、アヤは呆れを隠せない。
「ハァ……それで?」
「ん? アヤちゃんどうしたの?」
「笑一さんも役を与えられているなら、まだ私と接触する必要はないのでは?」
「ふふっ、君と同じで富士駅に到着した時点で僕も降板したんだ」
「なるほど……色々と演じられていたのですね」
「あはっ、そういうこと」
ニィッと八重歯をのぞかせて得意げに頷く笑一。
きっと自分の知らないところでも動いていたのだろう、とアヤは笑一に見られないように顔を伏せて肩を落とす。自分一人でやり遂げたと思っていた役が、舞台が、実は目の前にいる苦手な『夫』の手助けによるものだったことを知り、一転して胸中に曇天が立ち込める。
アヤは不満そうにぷっくりと頬を膨らせて、笑一に尋ねた。
「中佐は私のことをまだ信頼できないのでしょうか?」
「うーーん、それは違うような気もするけどなぁ」
「訓練を経て、夫婦になってからずっと任務を与えてもらえず、ようやく踏めた初舞台も実は全部ベテランの手助けで回っていたわけですから」
「まぁまぁ、それは考えすぎだよ。それよりもここにきた理由なんだけどね--」
だが、笑一はそんなアヤの気持ちがまるで全く見えていないかのように、アヤに顔を近づけて囁く。
「――ねぇアヤちゃん、ちょっと答え合わせをしないかい?」




