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嘘と秘密だらけの一等寝台車

「も、申し訳ない……なんだあの酒は……」

「こちらこそ話し込んでしまって申し訳ありませんわ。まさか新田様がお酒に強くないとは思わず」

「まぁ、そこまで飲むわけではないので……うぅっ……チクショウ、このままだと成果なしだ」

「京都までと仰っていたので一度休憩してもいいような」

「ダメだ! ……ミュラーを追えば、必ず……現場は抑えられるので…………うぅっ!」


 大きく寝台車が揺れたせいで、強い吐き気が新田を襲う。

  咄嗟に口を手で抑えなんとか吐くのは阻止できたが、出戻りの胃液のせいで口の中が辛くなった。

 同時に、頭痛と猛烈な吐き気に苛まれる。

 旅行鞄に触れることもできない状態だったのが、余計に新田の苛立ちを強くさせた。


「新田様、だ、大丈夫ですか!?」

「大丈夫ですよ。ちょっと考えているので、そっとしててください」

「あぁ……はい、申し訳ありません」


 シュンと肩を竦めるチカ。

 気まずい沈黙が室内に滞留する中、新田は少しチカと距離を取ろうと、上体を壁に預けて目を瞑り再び考えを巡らせる。目を瞑り、深呼吸を繰り返し、これまでの記者人生の中で駆使してきたあらゆる取材方法を思い出しながら、どうすれば証拠を抑えられるか考える。


(まずは、ミュラーを部屋から出さないと)


 何かないかきっかけを考える――そのときだった。


「――あっ!?」


 それは一瞬の閃きだった。

 胸を締めつける気持ち悪い酔いの中、新田は再び天啓を得た思いに浸る。


「チカさん!」


 目の前にいる、 ミュラーが警戒していない人間を使え--新田の魂が叫んでいる。


「あの! 少しまた芝居をいいですか!?」


 チカは一瞬目を見開くが、すぐに怪しい笑みを新田に返した。


「あら、なにか妙案でも?」


 打って変わるチカの冷めた態度に、新田の胸が一瞬だけ詰まる。


「あっ………えっと、俺が酔いつぶれてしまったことにして、話の続きをしたいと隣の食堂車か最後尾の展望車へ連れ出してくれませんか? 気に入られていそうなアナタの誘いなら絶対乗るはず!」

「うふふ……なるほど、それなら任せてください」


 チカは刹那の思案の表情の後、新田が何をしようとしたのか理解したかのように頷いて立ち上がる。


「では、ミュラー様とティータイムを楽しんでまいりますね。できるだけ早くお仕事を終わらせてくださいよ」

「お、おう……」

「それでは、またご機嫌よう」


 チカは静かに立ち上がり、ワンピースの裾をちょこんと持ち上げて新田に頭を下げて、覚悟を決めたように足早に部屋を後する。新田はなんとか扉に耳を当てて、廊下の様子を伺う。遠くから別の個室の扉をノックする男が聞こえた。

 そして――。


『――ほらほらミュラー様、先ほどのお話の続きを食堂車で伺っても?』

『オヤ、フィアンセ大丈夫デスカ?』

『もうすっかりお休みになられましてよ。しばらく寂しくて』

『オーウ! ソレハソレハ! ……デハ、食堂車デ、ティータイムデェスネ』


 ほどなくして、上気した少女の声が新田の耳に入る。

 新田の目には映っていないが、チカが嬉しそうにミュラーの腕をとって食堂車に誘導している様子が瞼の裏に浮かぶ。食堂車に向かうにはちょうど新田のいるチカの部屋を通らなければならず、新田の耳にはミュラーと思われる上機嫌な口笛が聞こえてきた。


「――もう大丈夫だよな?」


 新田は、チラッと目だけを外に出して、廊下の様子を確認。

 食堂車に続く廊下には、半ば強引にチカに腕を引かれて歩くミュラーの背中があった。

 二人はそのまま赤絨毯の敷かれた廊下を歩き、隣の寝台車に姿を消す。


「よし、いくか」

 

 ふらつく足。

 新田はなんとかミュラーの部屋の前まで移動したが、あることを思い出す。

 一等寝台は鍵をかけることができるということだった。


「くそっ、鍵だ……どうだ?」


 しかし、伸ばした手が金具に指先が触れた瞬間だった。


「――ん? ……これは」


 施錠されているはずの扉が、なぜか新田を部屋へ誘い込むようにゆっくりと開いたのだ。


「どういうことだ? 鍵を閉めなかったとか?」


 不思議に思って目線を下げる。


 すると、ちょうど新田の靴のつま先に親指の爪ほどの正方形の薄い鉄板が落ちていることに気づく。

 部屋の前に来るまではそんなものなかったはず。


  (まさか、あの子がこれで……いや、まさかな)


 チカが薄い鉄板を使って鍵の施錠を不完全な状態にした――という想像は、一瞬で新田が妄想と判定する。


「いやいやっ、ありえない!」


 頭を左右に振って気を取り直す。

 本来の目的を思い出した新田は、天の導きと確信し、躊躇なくミュラーの部屋の中に潜入。

 今度は中から確実に施錠して、寝台の下に隠された革製の大きな旅行鞄を探す。


「見つけた……ふふっ、これで…………」

(――いけ!)


 隠された旅行鞄のうち、一つを勢いよく開ける。

 だが――


「――ん?」


 二つある内の一つは、なんとミュラーの日用品や衣類が入っているだけだった。

 煙草、下着、シャツ――不審な点は見当たらず、新田は早々に捜索を止めて、もう一つの鞄に目を向ける。


「これか……よし!」


 確実に一覧表(リスト)は入っていると新田は、記者としての情熱を腕に乗せ、力任せに鞄を開く。

 そこには、大量の紙が――しかし。


「あっ……!」


 開けた勢いに釣られて飛び出してきた鞄の中身を目にした瞬間、新田の時が完全に止まる。




「ど、 どど、どういうことだ。 なんだ……これは」


 中身を理解した瞬間、全身から血の気が引くような感覚に襲われた。


「し、しんぶん??」


 満載の旅行鞄に入っていたものは、なんと短冊状に切られた新聞紙の束。

 想像していた一覧表は存在せず、無価値な古紙の群れが敷き詰められているだけだった。

 まるで、新田がこの旅行鞄を開けることを最初から予期していたかのような仕掛けに、新田は呼吸すら難しくなってしまう。


「そんなバカな!? ミュラーのやつ、俺を罠にかけようとしたのか!?」


 思わず叫んでしまう。

 中に両手を突っ込み、全部床の上に散乱させた。

 旅行鞄の底まで確認したが、金目のものすらない。


「そ、そうか! 一覧表は別のところに!」


 慌ててミュラーの部屋を捜索。

 だが、新田が探し求めていた汚職の証拠はどこにも見当たらなかった。


「くそっ! どうなってんだ! ……まさか情報提供者が間違えていた? いや、でも今まで間違ったことはない。それにあいつのおかげで俺はここまで上り詰めることができたんだ! 間違うわけない……のに、クソッ! なんで一覧表がないんだよ!」


 酔いと諦めもあって、ついに新田は床の上に散らばった新聞紙の上に座り込んでしまう。


「うん?」


 ふと、目線を散らばった新聞紙に滑らせると、新聞紙に所々赤い丸が記されていることに気づく。


「ジーメンス……事件? ……新田義明…………逮捕?」


 全てジーメンス事件に関係する記事ばかりで、異様な光景に新田は目を丸くして動けなくなる。 

 それに、もう一つだけ新田の視線を独占する記事もあった。


「お、俺が逮捕されるだ……と?」


 なんと、一際大きな印が付けられている記事には、「新田義明逮捕!」という文字が躍っていたのだ。

 日時を確認すると、明日の朝刊。

 つまり、未来の新聞記事がジーメンス事件の記事に紛れていたのだ。


「馬鹿馬鹿しい! ど、どういうことだ?」


 何か意味があるのか――途端、記事を拾う新田の手の動きが止まる。

 新田の肩に静かに手が置かれたのだ。


『――お客様、切符を拝見してもよろしいでしょうか?』


 物腰柔らかい若い男の声が、新田の背中に突き刺さる。

 同時に、新田は雷に打たれたかのような戦慄が走り、蜘蛛の糸に捕らえられた虫の如く一切の身体の動きを封じられてしまった。彼は背後の男が個室を開錠する音や彼に迫る足音も耳にしていない。


 突如闇の中から現れた亡霊のような存在だったが、彼は動けないながらすでに理解していた。


「お、お前は……俺を騙したのか?」

「…………はぁ、まさか保険としてミュラーが飲むはずだった酒をお前が飲むなんて……でも、あの子はうまくやったらしい。簡単な試験だったけど、十分な働きだ」

「あ、あの子!? チカのことか!」


 新田は急いで振り返ろうとする――が、先に後ろの男に腕を背中へ捻り上げられ、そのまま壁に強く押しつけられてしまった。

 男の目を見張るほどの強い腕力と肩と手首の激痛に、新田は一瞬にして抵抗する気力を奪われてしまう。


「窃盗と無賃乗車の現行犯だ……次の駅で下りてもらいますよ」

「は、離せっ! 切符は持っているし、これも社会正義のためで――」

「――嘘をつくなよ……おっさん。俺から盗んだくせに」

「ま、まさか……!?」


 新田は限界まで首を回し、男の横顔を瞳に映し、驚愕する。


「――ッ、う、うそだ……ろ。お、お前は……どうして、な、なんで……ありえない!」


 新田を壁に組み伏せていたのは、車掌の制服を綺麗に着こなした青年――だったが、その顔に、新田は見覚えがあったのだ。ただし彼の記憶によれば、彼が車掌をしていることはありえない。

 驚きを隠せない新田に対し、車掌は不敵に鼻を鳴らして制帽のつばを持ち上げた。


「君の出番はもう終わったんだ……今日は妻の初舞台でね」

「な、何を言っている……」

「わからなくていい。ただ、そろそろ君が降壇してくれないと、僕たちも次の場面へ飛べないんだ」


 車掌の声がガラリと変わる。

 それは間違いなく東京駅で新田を蹴飛ばした青年の声だった。


「なにもかも、デタラメだったんだよ――ありがとうね、新田さん」


 耳元で名前を囁かれた直後、新田は首に強い衝撃を受けて意識を失い、床に崩れ落ちてしまった。

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― 新着の感想 ―
新田くんは終始踊らされてましたとさ
すごいな、文字だけで華があると伝わる男性なんですねえ
車掌さんかっこいいいいいいいいいいいい!!!!!!
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