征歴1917年 帝國劇場より雛は羽ばたく
「……これが私?」
劇場に到着して早々、アヤは悲しそうに目を落とした。劇場のドアマンが開けた扉のガラスにぼんやりと反射した自分の姿が、とても奇妙に思えたからだった。
新鮮な血液で一心に染め上げたようなドレスの首元にかかる派手なネックレスを握り締め、光のない瞳と見比べて皮肉っぽく笑った。普段頭の上で団子状にまとめている髪も、アヤは久々に下ろしており、それが年齢に見合わない妖艶さを醸し出している。
「中佐はなんのつもりで……私をここに」
アヤは開かれた扉の前で立ち止まり、奥歯で唇を噛み締めた。
そして思い出す。
全ては2時間前、突然家に届けられた1枚の手紙から始まった。
『用意した衣装を着て、本日19時に帝國劇場に来い。お前を待つ、宮都中佐』
季節の挨拶の手紙に扮した「台本」の暗号を紐解き、文化教養の高い貴族令嬢風の装いをして駆けつけたわけだが、そこから先の命令がないため、どこで何をすればいいのかしばし思案してしまっていた。
「お客様、失礼ですが……」
柔らかい男性の声。目深に帽子を被った帝國劇場のドアマンだった。
アヤはハッと前を見る。
扉を開けた状態で立っているドアマンが、俯きながら「どうぞ中へ」と言わんばかりに手を振っていた。
「あら、これは大変失礼しましたわ。私としたことが」
「いえいえ……素敵なドレスです。私もつい見惚れてしまいました」
アヤはバツが悪そう俯きながら両手を軽く握り、見慣れない煌びやかな世界に足を踏み込んだ
その瞬間だった――パンッ
小さな破裂音。
そして。
「――!?」
同時に、アヤの背後で扉の鍵が閉められる音がした。
突然、劇場の照明が消え、退路も絶たれたアヤ。だが、この絶体絶命な状況にもかかわらず、むしろ楽しそうに厳しく絞っていた口元を緩ませて闇の中を歩き出す。
「ふふっ……相変わらずですね。中佐は」
そもそもアヤは最初からこの状況に違和感を覚えていた。土曜日の帝國劇場。本来なら今頃競うように派手に着飾った成金や貴族たちでごった返す時間だが、客どころか従業員すらいない。
全て仕組まれている――アヤは直感でドアを潜り抜けるときに目に焼き付けた劇場の間取りの記憶を頼りに歩き、会場につながる階段の前で立ち止まった。
「中佐、どこにいるのですか?」
空間に響かせるように大きな声を出して闇の中に呼びつけた主を探す。しかし反応はない。
反響が遠くなっていき、アヤは目線をおろして溜め息を吐いた。そのときだった。
「――っ!?」
アヤは、ぞくりと背筋を氷で撫でられるような感覚に襲われ、ほぼ同時に後ろから肩を掴まれた。
「前を向いたままでいい」
男とも女とも、はたまた年齢も読めない誰かの囁き声がアヤの耳に届く。
「中佐、これはどういうことですか?…あの――」
「――前を向いたままでいいと言っただろう」
静かな威圧感にアヤの背筋が勝手に伸びる。
「はい…申し訳ございません」
「それで…今の自分をどう思う?」
「えっ?」
「ドアのガラスの反射で自分を見ただろ?どう思った?」
押し殺したような声が、つい先ほどのアヤの記憶を呼び起こさせる。
アヤは落ち着いて唾を飲み込んで口を開いた。
「私が私として着る分には、曇り一点なく惨めな思いになりました。まだ16歳の未熟者には到底似合うものではなかったかと」
「なるほど。では…私がなぜ呼び出したと思う?」
「中佐は無意味なことはしません。しかし、こんな大きな劇場を貸切にした上で、わざわざ停電させて、呼び出した理由を問うということは、何かの試験……いや、この状況を把握しているということは、ドアマンも同業の方ですか?」
「答えだけを話せ。質問はなしだ」
アヤは深呼吸をして一拍とってから、眼前の闇を見据えて答えた。
「はい……まず、停電させた理由は、中佐が私に顔を見られたくなかったから。中佐はいつも私に顔を見せてくれませんので、これは簡単です。次、この劇場に呼び出した理由は、この劇場で次の仕事があるから……もしくは誰かと会わせたかったから。ならば、私を迎えてくれたドアマンの方と引き合わせるため。同時に、中佐が、この劇場を貸し切れるほどの力を持っていることを私に示すため……この劇場である理由は…組織の本部がここだからでしょうか」
自信満々にアヤは静かに両手を握り、背後にいる質問者の反応を待つ。
しかし、しばらくの静寂の後、聞こえてきたのは短い舌打ちだった。
「……つまらんな」
「えっ?」
「お前ごときの小娘に顔を見られないためにここまでするわけないだろ。もっと広く考えろ。私の台本に無駄は一切ない。なぜここに呼び出した?なぜ停電にした?お前に何を感じて欲しかったか?……ただ、今日は許してやる。そのまま考え続けろ」
「中佐、私はいつになったら仇を教えてもらえるのでしょうか?」
「……くだらん。興醒めだ」
アヤの背後で中佐が鼻で笑った。
直後、アヤは右肩にかかっていた中佐の手の圧力が消える。
「中佐、私は――ッ!?」
アヤはこの機を逃すまいと、身体を捻って後ろに振り返ろうとした。
だが、視線が背後の気配を捉えようとした瞬間、劇場の照明が一斉に灯り、アヤの目に光が襲いかかってくる。
アヤは光を遮るように手をかざし、白ばむ視界の中から中佐の姿を探した。
うっすら見えたのは、外套を羽織った性別不詳の将校の姿。
「中佐、私は何を……うん?」
中佐を追いかけようと一歩踏みだした瞬間、アヤは足元に分厚い台本が置かれていることに気づいた。
台本に気を取られた一瞬に、中佐はアヤの視界から完全に消失する。
「相変わらず、神の如く現れ、雲のように消えていく人ですね」
どこかで中佐が聞いていることを期待して独り言を吐き、アヤは足元に置かれた台本を拾い上げて軽く目を通す。
1ページ目の1行目には、「主演:華山アヤ」と記載されていた。
「これが……私の役ってこと?……やっと、やっと……私も任務に出していただけるのですね」
読み進めると、そこには生まれから今に至る【完全に捏造された「アヤの新しい人生」】がびっしりと描かれていた。長い訓練の日々を思い出しながら噛み締めるように脳に焼き付ける。
今日から始まる華山アヤとしての人生に、アヤは興奮を押し殺しながら台本を読み進める。
「――やぁ、華山アヤさん初めまして」
聞き覚えのある柔らかい声。
目線を前に向けると、そこにはタキシードに着替えた先ほどまでドアマンを演じていた夫となる人物が、輝くような笑顔で右手を差し出していた。アヤは雰囲気が一変した夫の顔と差し出された右手を交互に見て、覚悟を決めたように頷き、ドレスの裾をちょこんと摘んで軽く膝を折り曲げる。
「うふふっ、こちらこそ、よろしくお願いします。華山笑一様」
華山アヤは屈託のない笑みを浮かべ、夫となる男の手を取ったのだった。
初投稿です。誤字脱字の指摘大歓迎です。
勉強させていただきます。