運命の開戦前夜
◇西暦1941年 12月5日 05:24 北太平洋 第一航空艦隊 旗艦『赤城』 艦橋
北太平洋。
その海域は波が荒いことや中継地点である島が殆ど無いことから、自動車運搬船や超大型タンカーなどが後に登場するまでは航行する船は殆ど存在しなかった。
――しかし、そんな海域だからこそ、敢えて航行する存在もある。
ハワイ奇襲へと向かう大日本帝国海軍第一航空艦隊が正にそうだった。
「いよいよあと3日か」
「はい。本土から作戦中止の符号が送られてこない限り、そうなります」
第一航空艦隊司令官――塚原二四三中将の言葉に、参謀長――草鹿龍之介少将はそう答える。
塚原二四三。
史実では海軍航空隊の将の一人でありながらも、中国戦線で負傷してしまったことで艦隊の指揮官から遠ざかった人物であったが、この世界では彼が負傷する前に日中戦争が終結し、更には正彦の『空母の司令官には航空機に詳しい人間を抜擢して欲しい』という要望と半ば仕方が無かったとは言え、史実で機動部隊を壊滅させてしまった小沢治三郎の就任を渋ったことから、この第一航空艦隊の司令官に抜擢されたという経緯があった。
そして、彼の率いる第一航空艦隊もまた史実とは艦隊の編成が若干違い、空母の数と編成こそ史実と同じであったが、史実では参加していた重巡『利根』、『筑摩』の姿は無く、代わりに巡洋戦艦『金剛』、『榛名』が加わっており、金剛型4姉妹は全てこの艦隊に集中する形となっている。
また護衛の艦艇は数こそ史実と変わらないが、軽巡『阿武隈』は魚雷を降ろしてまで最新のレーダーや防空・対潜装備が搭載されていたし、駆逐艦は全て史実では戦争後期になってようやく登場した日本海軍の中では珍しい汎用駆逐艦となっていた。
「これだけの艦隊、ハワイに接近するまでに発見されないようにするのは困難だと見ていたが・・・案外、なんとかなりそうだな」
塚原は当初、この作戦に懐疑的だった。
確かに開戦と同時に敵の有力な基地を奇襲するという作戦の主旨は理解できるのだが、日本本土から6500キロも離れた島を奇襲するのは無理がありすぎると思っていたからだ。
――しかし、攻撃開始まであと3日というところまで迫っても、船の1隻も遭遇しないところを見るに、意外となんとかなりそうなのでは無いかと塚原は思い直すようになっていた。
「油断は禁物です。もしこれから見つかって通報されるようなことがあれば、我々は即座に帰還しなければならないのですから」
今回の作戦では何らかの形で発見されてアメリカに通報されるような事態になった場合、即座に艦隊を反転させて引き返すことになっている。
まあ、今回の攻撃目標は敵地の奥深くと言えるのでその対応は妥当なのだろうが、ここまで近づいた上でそうなれば、敵の基地を目前にして引き返すことになってしまうのだ。
油断禁物という草鹿の警告は、全く以て正しいと言えた。
「確かにそうだな。・・・もっとも、そうなれば一番危険なのは特殊部隊の連中だろうが」
塚原は小声でそう呟く。
そう、実は今回の作戦には沿岸砲台や停泊艦艇といった空襲では沈めるのが難しい目標を破壊するために陸海の特殊部隊が投入される予定となっており、彼らの回収は空襲を終えた後に艦砲射撃を行う第三戦隊の護衛の駆逐艦によって回収される事になっているのだが、もし第一航空艦隊が反転した場合、彼らはアメリカ軍が日本軍の接近に警戒している状況下で敵地に取り残されてしまうことになるのだ。
まあ、その場合は潜水艦が救出のために派遣される予定となってはいるが、脱出にはかなりの困難が伴うのは間違いない。
潜水艦の雷撃や戦艦が接近しての砲撃戦でもしてこない限り、危機的な状況下にならない――なにしろ、空母と戦艦が合わせて10隻も居るのだ――此方と違って、彼らの方がよっぽど危険だろう。
(まあ、こればかりはそうならないことを祈るしか無いか)
塚原はそう思いながら、攻撃隊発艦の時まで敵に見つからないことを祈った。
◇同年 12月6日 20:08 大日本帝国 帝都・東京 首相官邸
「開戦まであと2日。・・・いよいよだな」
「本当に勝てるのでしょうか?」
正彦の呟いた言葉に対し、作戦の打ち合わせのために招かれていた統合参謀本部長――井上成美元帥はそんな不安を口にする。
史実の海軍三羽鳥の一人である彼はアメリカの強大さをよく理解しており、とてもではないが勝てるとは思えなかったのだ。
――だが、そんなことは正彦も百も承知。
むしろ、彼は二十一世紀からの転生者であるがために、井上よりもこの時代のアメリカの強大さを理解していた。
「まともな方法ならまず勝てないだろうな。だが、原子爆弾というカードを上手く使えば、勝ったように見せることは出来る」
なにも完勝することは無い。
今度の戦争は日清・日露戦争の時と違い、仲介国が存在しない上に日米の国力差が歴然としているので、講和は困難だろうが、自然休戦状態に持って行ければ事実上日本の勝ちだ。
「問題はその後だな。日本は現在、満州に朝鮮、中国を勢力下に入れているが、これを米国との戦争の後も継続できるかは分からん」
そもそもこれらの勢力は日本が軍事力の支配下に入っているからこそ大人しく従っているだけにすぎない。
日本が負けたり弱体化したと見做されれば、離反の上でアメリカにつくという最悪な選択をしかねない。
なにしろ、彼らにとっては日本も欧米諸国も同じ異国なのだ。
ならば、自分達に大きく影響を及ぼす方につきたいと思うのは当然の判断だろう。
そして、彼らが裏切れば日本は完全に世界から孤立することとなる。
「そうなった時は改めて身の振り方を考えるしか無いな」
「・・・負けた場合のことは考えていないのですか?」
「そんなもの、考えるだけ無駄だろう」
正彦はキッパリとそう言う。
彼からしてみれば、日本が万が一、史実通り負ければ自分達は処刑されるだろうし、そうならなかったにしても日本の命運は連合国の思惑によって決まってしまうので、はっきり言えば考えるだけ無駄だった。
「俺たちが責任を負えるのはこうして政治を主導的に動かしている間だけだ。戦後のことは戦後の日本人に任せるしかない。・・・それより、南方作戦の準備は進んでいるな?」
「・・・はい。フィリピンでの作戦を除けば、大分、泥縄式になってしまいましたが」
「まあ、それは仕方ない。フィリピンの方は何年も前から準備していたから、ある程度準備は整っているが、南方作戦はここ一ヶ月あまりの間に急遽計画されたものだからな。だが、東南アジアに配備されている英蘭の軍勢は植民地軍の上に本国軍は現在のヨーロッパの情勢ではアジア方面に来ることは不可能だ。泥縄式でも問題はあるまい」
とはいえ、史実と違ってインドシナという拠点が確保できていない以上、油断は出来ない。
もっとも、そうなった時のための手は打ってあったし、問題は無いだろうと正彦は判断していた。
――しかし、彼は知らない。
この彼の打った手こそが、結果的にイギリス東洋艦隊を史実よりも増強させてしまう結果となることに。
◇同年 12月7日 10:31 アメリカ合衆国 ワシントンDC ホワイトハウス
「これは一体、どういうことだ!?」
ホワイトハウスの主――フランクリン・ルーズベルト大統領はアメリカ合衆国政府経済顧問――レンジャー・S・ジョームズをそう言って怒鳴りつける。
経済顧問。
それは史実には――少なくとも公式には――存在しなかった役職。
このような役職が出来た理由は、日本経済のアメリカ社会への浸透が深まったことで経済的植民地になりかけたからであり、ぶっちゃけて言えば対日経済対策のために作られたと言っても過言では無い。
さて、なぜそのような役職の男にルーズベルトが怒鳴っているのかというと、彼の進言に従って四ヶ月前に日本に対して行った要求の返答にて、日本が宣戦布告――正確には12月8日の午前0時を以てとなっているので、まだ開戦している訳では無いが――という苛烈な反応を返してきたからだ。
・・・誤解の無いように言っておくと、ルーズベルトを始めとした閣僚達は当初、この要求を日本に出すことに反対していた。
確かに日本企業の進出によってアメリカ産業界は大打撃を被ってはいたが、だからといってすぐに日本企業を締め出せば、物価の高騰などでアメリカ経済に悪影響を及ぼすことが分かりきっていたからだ。
しかし、日本企業の進出に危機感を持ったアメリカ経済界の声に押される形で仕方なく要求をポーズだけでもと――日本が呑まないであろう事を承知の上で――出すことにしたのだが、返ってきたのは宣戦布告というルーズベルトが全く予想もしていなかった最悪の返答だった。
「だいたいなんだ!解答期限と宣戦布告というのは!?私はこんなものを付けることを許可した覚えは無いぞ!!」
「そ、それは・・・」
ルーズベルトの激昂に、レンジャーは益々その表情に焦りの色を浮かばせる。
実はこの解答期限と宣戦布告の事をルーズベルトは全く聞かされておらず、今朝方に日本大使館の人間が大手の新聞社を集めて行った宣戦布告の宣告の記事を見て、ようやくその事を知ったという有り様だった。
「その方が日本を屈服させることが出来ると、国務省のある方から奨められまして。大統領には国務省の方から伝えると言っておりましたので、てっきり知っているものと思っておりました」
「ある方だと?いったい誰だ、そんなバカは」
「確か国務長官の補佐官のハリー・ポプキンスという男だったかと」
「・・・」
それを聞いたルーズベルトは思考を巡らせる。
(何故だ?そんな条件を独断で追加したということは、奴個人が日本との戦争を望んでいるのは明白だが、いま日本と戦争をしたところでどんな得がある?)
確かに戦争をすれば軍需の増加などで失業者問題は一時的に解決できるかもしれない。
だが、それはあくまで一時的であるし、それも戦争が長引くことが前提の話だ。
そして、勝ったとしても出来るのは日本の併合か属国化くらいで、欧州の戦争に介入する名分が立つわけでは無い。
つまり、日本との戦争はあまりにもアメリカにとって旨味が少ないのだ。
(いや、アジア進出の足がかりになることを考えれば、日本との戦争も無駄では無いのか?・・・まあ、なんにせよ大統領たる私に黙ってこのようなことをするのは大問題だ。すぐに奴を拘束して問い詰めよう)
ルーズベルトはそう考えつつ、レンジャーに部屋から下がるように伝える。
――この時、彼は日本との戦争に関してあまり心配していなかった。
『日本軍は大したことない』という情報部の報告を信じていたからだ。
だが、それが大きな間違いで有ったということを彼は1日と経たないうちに思い知らされる事となる。