月夜に虎が役人を乗せ、峠を疾走せし記(付補遺)
宮仕えの身であるところの袁傪たち一行は嶺南の視察に向かう途上だったが、急遽予定を変更して地元の虎園に寄ることとなった。昨晩宿泊した宿に虎園の使者がやってきて、ぜひ当園を訪れて欲しいという園主の伝言を携えてきた。地方の金持ちから種々の献上品を集めるのも監察御史の大事な仕事であったから、一行は喜んで承諾したのである。
案内役が言うにはそろそろ目的地に着くという話であった。進むにつれて、何やらいいにおいがあたりに満ちてきた。厨房で魚介類や肉を煮込んでいるときの、あの胸をあたたかくする香りだ。近付くほどに強くなっていく。
嗞瑠(ちゅ~る)、嗞瑠、超嗞瑠(ちゃおちゅ~る)……嗞瑠、嗞瑠、超嗞瑠……。
袁傪はそう口ずさんだ。従者が、その歌はなんなんですか、と訊ねると、彼は歌うのをやめた。
この歌をご存知ないのですか。市場で物売りがずっと歌っているでしょう。
はあ。何を売っているんですか。
これです。
袁傪は満面の笑みで懐から細身の竹筒を取り出した。
中身は鶏や鰹なんかを濃く煮詰めて固めたもので、飼い猫なんかにあげると大変喜びます。虎園の敷地内に精製工場があるそうです。このにおいはそこから漂ってくるのでしょう。
虎園でいくらでも買えるのに、わざわざ持ってきたのですか?
これは人間が食べても平気なものなのです。味もいいし、保存も効く。長旅にはぴったりでしょう。
そう言う割には道中食べているところを見なかった、と従者は思った。非常食として取っておいたということだろうか。
こちらの方が近道だから、と案内役が言うので林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。
袁傪と従者は首を傾げて叢を見遣った。
何だったんでしょうか、今のは。
案内役が、知らない間に虎園の敷地が広がっていたのかもしれない、とおよそ納得しがたい言い訳をしながら詫びると、再び牛を進めはじめた。
一行が遠くに去ると、叢の中から虎のものとは思えぬ声が響きはじめた。あぶないところだった、あぶないところだった……。
虎園はその名の通り、虎と戯れることができる庭園だった。主要な都市の市場では虎を連れた男が現れて、真的《本当に》真的真的真的这是虎、と言いながら宣伝のチラシを配っているのを見る。
森を切り開いて造られた芝生が、地平線の向こうまで続いていた。岩や樹、池が美しく配置され、時々休憩用のあずまやや飲食物を売る出店が並んでいる。近くの市場から乗り合い牛車で来るという来訪者たちがひっきりなしに入ってきては虎めがけて走っていく。出口には虎の人形や虎の形をした饅頭を売る店が設置されており、こちらもなかなか盛況だという。
三百匹以上いるという虎たちは芝生の上に転々と寝そべり、あるいは池で水浴びをしている。人々はその周りに群がって、毛皮に顔を埋めて吸い、背中に乗って歩かせ、あるいは一緒に水浴びを楽しんでいた。
よく襲われませんね。
視察団を引き連れて園内を見せていた飼育員は、袁傪がそう言うのを聞くとにやりと笑って、嗞瑠を懐から取り出した。
これで飼い慣らしていますから。
主人は木陰に寝そべっている虎に近寄ると、嗞瑠を鼻面に差し出した。
お客様には入場料と引き換えに嗞瑠を3本渡しており、中の売店で買うこともできます。虎たちは人間を嗞瑠を与えてくれるものだと理解しており、また愛嬌を示したり背中に乗せてやったりすると嗞瑠をもらえることを学習しております。彼らは飼い慣らされ、人間を襲うことを忘れてしまったのです。餌も加熱されたものを好みます。
客に疲れているのかぐったりとしていた虎が、嗞瑠の匂いを嗅ぐや否や見る間に生気を取り戻し、二本の手で竹筒をしっかりと掴んで中身をちゅうちゅうと吸いはじめた。腹を見せてごろごろ転がる様からはもはや威厳というものが一片も感じられない。その瞳のどろりとして生気のない様子に、袁傪は言い知れぬ嫌悪感を覚えた。
飼育員は続いて嗞瑠の精製工場に一行を連れて行き、工場長に案内を任せた。
工場は大まかに三つの部分に分かれていた。
まずは運ばれてきた原料の下ごしらえをする部分で、ここでは肉や魚を捌いたりカニの殻を割って身を取り出したりしている。
次の部分は下ごしらえの済んだ材料を煮込む部分で、ここが一番大きかった。大人が十人手を繋いで輪を作っても収まらないような大釜が竃の上に置かれ、釜の周りに組まれた足場の上で作業員が灰汁をとったり撹拌したりと忙しそうに働いていた。煮詰まり具合や材料ごとに異なる釜が用意されているらしく、いくら歩いても釜しか見えなかった。
最後の部分は出来上がった嗞瑠を竹筒に詰める部分で、竹筒や嗞瑠を運ぶ者、漏斗を使ってそそぎ入れる者、筒に栓をする者、筒に「嗞瑠」のラベルを糊付けする者に分かれて作業をしていた。
ひととおり見学が済むと、一行は園主の館へと案内された。館は虎園や工場を見下ろす位置にある高台に建っていた。外壁は一面漆喰で塗り固められ、夕陽に照り輝いていた。玄関の前には異国の花木が植えられ、黒く毛並みの良い猟犬が辺りを睥睨していた。
遠路はるばるようこそ。お楽しみいただけましたかな。
園主は玄関から出てきて一行を迎えた。白い衣に包まれた身体は頑健そのものだったが、左脚を庇うように杖を突きながら歩き、黒硝子の伊達眼鏡を掛けている様は妙に老いて見えた。一同その異様な姿に言葉を失っていると、脚と眼を虎にやられましてな、と柔和に微笑んだ。
宴の席が設けられ、園主はこの虎園が完成した経緯を話して聞かせた。曰く、園主はかつて奥地を遊行していた際に虎に襲われ片脚と片目を失ったが、懐に隠していた干しガツオを投げ与えたところ従順になった。そこで園主は嗞瑠を開発し、完全に虎を飼い慣らすことに成功した。各地の山を巡ってはこの地に虎を集めて見世物にし、儲けた金で徐々に土地を広げていったのだと言う。
袁傪の従者は、やはりどうにも胡散臭い、と思った。園主には黒い噂が付き纏っていた。曰く、人間を虎に変える妖術を持っているだとか。五石散の闇商人たちと通じて虎の子供を高値で売りさばいているだとか。今回ここへ途中で寄らないか、と言ってきたのも、おおかた綺麗な所だけを見せてもてなし、疑惑を払拭しようと目論んでいるからだろう。
上司たちが口々にご追従を言い交わすのを聞きながら、従者は上座を窺い見た。園主と袁傪が並んで座っていた。袁傪は園主に物怖じした様子もなく、妙に惚けた表情でご馳走をしきりに口に運んでいた。噂を知らぬわけでもあるまいによくあのように食べられるな、と内心嘲りながら眺めていると、袁傪がつと器を卓に置いて、そういえば、と園主に話し掛けた。
袁傪はいちど精神を病み休職して以来すこし不安定で、黙っていたかと思うと大声で突拍子のないことを言い出したりするのだった。部下たちはみな静まり返り、固唾を飲んで袁傪の挙動を見守った。
来る途中で虎と会いました。すぐにあちらが逃げてしまいましたけれど……脱走した虎に心当たりはございませんか。
園主は微笑み、首を傾げた。
ありませんね。それより地元の若い衆と会わなくて幸いでした。悪い奴らじゃあないんですがね、道ゆく人に峠攻めの勝負を吹っ掛けて暇を潰してるんですよ。
袁傪の言葉が気分を害した様子はないように見えたので、従者はほっと胸を撫で下ろした。あと地元の走り屋たちに捕まらなくてよかった。
宴はつつがなく終わった。一行は今日は園主の館に宿を借りて、明日は本当の目的地である郡司のところへと向かう予定だった。袁傪はいつになくまめまめしく今後の行程や業務を従者に含み置き、早々と寝てしまった。従者も疲れていたのでさっさと寝ることにした。
数刻もしないうちに虎に食われる悪夢で目覚めた。虎たちが唸り吠える声や金網に体当たりするような音が虎園の方から響いてきた。
昼間はあんなに大人しそうだったのに、何なんだろう。
ふと胸騒ぎを覚えて袁傪に充てがわれた部屋に向かうと、空の布団と封書が残されていた。
虎を象った美しい彫刻が、板の間に差す月光の中で妖しく輝いていた。
李徴はひどく空腹だった。近くには獲物になりそうな獣の姿ひとつ見つからず、怒りは咆哮となった。
袁傪と出会った朝、彼を食べることを我慢できたのは、理性が働いたからだった。こんなに長い時間、清明な思考を保っていられたのはいつぶりか分からない。しかしそれも限界のようだった。これが人としての思考の最後になるのならば、あの時袁傪と話しておくのだった……。しかしあのときは臆病な自尊心と尊大な羞恥心が邪魔をして、彼をして旧友を呼び止めさせむるには能わなかったのである。
そんなことを思い悩んでいたものだから、足はしぜん袁傪と出会った辺りに向かっていた。顔を上げると、月明かりの中に人が立っているのが見えた。不意にあの忌々しい鰹と鶏の匂いが漂い、思考はまたしても動物的本能に支配された。
李徴は飛びかかった。しかし喉元に噛み付く一瞬前になってそれが袁傪であることに気付いた。李徴は身体を逸らして叢に飛び込み、「あぶないところだった」と繰り返しながらいま見たものを整理しようと努めた。
袁傪はなぜか全裸だった。
ふたたび人間的思考の力が蘇ってきたが、袁傪が全裸で森をほっつき歩いている状況を理解することはできなかった。何故こんな山の中を全裸で歩いているのだ。しかもこの嗞瑠の匂いはいったいどこからくる。
袁傪はやがてこちらをおびき出そうとしてきた。
ごろごろごろごろ。ちっちっちっちっち。にゃ~お。おわあこんばんは。
下手な鳴き真似だった。効果がないと悟ると今度は叢に近づこうとしてきたが、その度に李徴は袁傪の脇をすり抜けて反対側の叢に潜り込むのだった。
何故だ……。嗞瑠が足りないのだろうか……いっぱい持ってきてよかったな……。
ぶつぶつ呟きながら袁傪は手に持っていた嗞瑠の筒から中身を取り出すと、それを全身に塗りたくりはじめた。叢の間からそれを見ていた李徴は肉球で鼻を塞いだ。匂いの元凶はお前だったのか。
その上、袁傪が持ってきた嗞瑠は特別に自作したもので、魚や鶏の他にも自分の血を少し混ぜて煮固めているのだった。李徴が狂うのも無理はなかった。
旧友が全裸で、しかも全身に嗞瑠を塗りたくって現れる。純然たる悪夢だった。無防備であるだけならまだしも、嗞瑠まで塗られていたらどうしようもない。あの歌が狂ったように鳴り響く……嗞瑠嗞瑠超嗞瑠……。
このままでは旧友を食べることになると悟った李徴は、自尊心も羞恥心もかなぐり捨て叢を出た。袁傪の前に立ちふさがり、声音を使って威嚇すれば逃げ帰るだろうと思ったのだ。
いい加減にせぬか。我は異類のものなり。これ以上戯れるつもりなら、生かして帰さぬ。
しかし袁傪は予想だにしていなかった反応をした。物怖じした様子もなく近づいてきて、こちらに話しかけてきたのだ。
人語を話す虎よ。腹が空いているのでしょう。私を食べてください。
李徴は先程までの勢いが嘘のように萎んでいくのを感じ、後退った。
何を言っている。
食べてください。そうでなければひと思いに殺してください。
嘘を言っているようではなかった。袁傪の瞳は夜闇よりもなお暗く、中空に開いた虚のようだった。李徴は背筋が冷たくなるのを感じ、食欲すら忘れた。
なぜ死を願う。
そう聞くと、袁傪の目は遠くを見るように李徴から逸れていき、掠れ声で語り始めた。
私には親しい友がおりました。私と同じ年に科挙を通り官職を得た者です。詩人を志し、性格は傲岸不遜で尊大でした。私には詩のことは全くわかりませんが、彼は立派な人間なのだと私は思っておりました。私は彼を大事に思っておりましたし、彼にとっても私は数少ない友人の一人でした。
彼はやがて詩作に専念すると言って官職を辞し、地元に帰りました。しかし思うように芽が出ず、それまで溜めていた金だけでは到底妻子を養うことができなくなり、再び官吏の職を得たのです。その頃にはかつての同僚たちは出世していて、彼はこき使われる方の立場になりました。それが彼には耐えられなかったのです。彼は最後に私に会った時、こう言いました。もう詩作の才能は尽き、年相応の出世を望むべくもない。
私は彼を励まそうと、即興で詩を作ったのです。ほんの戯れでした。私のような素人の詩と比べれば自分がいかに優れた詩人であるかを思い出してくれると思いました。その詩の冒頭はこうです。
虎乎老虎乎 虎よ! 夜の森かげで
燃赫於夜森 赫赫と燃えている虎よ!
孰不滅之手 いかなる不滅の手が
造均整値畏 お前の畏るべき均整を造りえたのであるか?
於孰海孰空 いかなる海、あるいはいかなる空の中で
燃其瞳之輝 お前の瞳の輝きが燃えていたのか?
以孰翼昇天 いかなる翼をかって天に昇り
孰手掴其火 いかなる手を用いてあの火を掴みえたのであるか?
それを聞いて、彼は黙り込んでしまいました。
滅茶苦茶だろう。科挙が終わった途端、詩作の規則なんて全部忘れてしまったんだ。そう私は笑いましたが、彼は蒼白な顔をして何も言いませんでした。気分を害したかと心配していると、突然立ち上がり、帰る、と言い残してどこかに行ってしまいました。
それきりでした。私はなんども彼に手紙を送り、会おうとしました。私の行いは侮辱だったのだと反省し、謝ろうと思っておりました。だが、何も返ってこなかったのです。
程なくして、彼が出張先の宿から失踪し、帰らぬ人になったと連絡を受けました。私は、宿に置いてあったという紙に何が書いてあったかを聞いて、目の前が暗くなりました。
虎。
虎、と殴り書かれた紙が散らばっていたそうです。
私は理解しました──私が彼を殺したことを。少なくとも私の詩のせいで彼はおかしくなったと。
私は心痛のあまり仕事を遂行できる状態ではなくなり、休みをいただきました。しかし父母はそんな私を理解せずしつこく働けと責め立て、近所の人は私を怠け者と後ろ指を差してきます。耐えかねた私は仕事に戻りましたが、その間にも心身は徐々に蝕まれていきました。
彼の後を追おうと思うときだけ頭から霧が晴れるのです。
どうか人助けだと思って、私を噛み殺してください。
そう膝を付いて頼む袁傪の目には涙が溜まり、頬を流れ落ちていくのだった。李徴はたまらず、袁傪、と呼びかけた。その声はもはや虎のようではなかった。
顔を上げてくれ、袁傪。おれはここにいる。
まどろむようだった袁傪の目に意思の光が閃き、弾かれたように立ち上がった。
その声……李徴……。まさか……。
李徴は詩を朗詠した。
以孰肩孰技 いかなる肩が、いかなる業が
撚其心乃糸 お前の心臓の糸を撚り合わせたのか
然時動其心 そして、お前の心臓が動く時には
使用孰手指 いかなる手指が用いられたのか?
以孰槌孰鎖 いかなる槌、いかなる鎖をもって
鍛造其叡智 その叡智をつくりあげたのであるか?
孰鉄砧孰力 いかなる鉄床が? そしていかなる膂力が、
掴其可畏思 その恐るべき思念を掴みえたのであるか?
それは、袁傪が詠んだ詩の続きであった。
袁傪はおぼつかない足取りで李徴に歩み寄り、その首に顔を埋めて泣きはじめた。
どうして姿を黙って消したのです。
李徴は震える友に向け、哀切な声で語りかけた。
おれは詩人になりたかった。だが、本当の意味での詩人ではなかった。おれは誰よりも上手く詩を作ることができた。だが、何を詠んだらいいのかわからなかった。おれの詩は確かに完璧だ。おれも一面では確かにそうだと思っていたし、誰もがそう褒めそやした。だがおれの耳には作る側から全て紛い物のように聞こえ、人に聞かせる価値もないように思えてくるのだ。
いつしか詩が書けなくなった。官職を捨ててまで打ち込んだ夢が自分の手の中で腐っていくのを見ておれは笑った。笑いは発作のように訪れては止んだ。詩人でもなくなったおれは一体何者だ? 何者でもないさ、とおれは笑った。その笑いもすぐに止んだ。
おれが官職に耐えられなくなったのはそれが屈辱だったからではない。おれはもう何者でもなかった。この先ずっとこうして生きていかなければならないのか?
書けなくなると同時に、ある考えがまとわりついて離れなくなった。詩はどこに宿るのか。詩の詩たる所以はなんなのか。詩人の頭に宿るのか。言葉に宿るのか。読み上げるときのその声に宿るのか。馬鹿らしい問いだと思った。答えはなかった。どれにしても俺には訪れなかったというのが唯一の答えだった。
そんな時にお前が即興で作る詩を聞いた。
素人づくりの滅茶苦茶な詩だ。滅茶苦茶なのはお前にもわかるだろう。科挙を通った人間が書いたとはとても思われなかった。
それでいて、それはどうしようもなく詩だった。
おれは狂ってしまった。なぜ詩はおれの頭を通ってはくれなんだ。なぜ俺には詩が微笑んでくれなかったのか。おれは森を駆け回って、叫び、吼え猛った。それでも詩は降りてこなかった。頭にあったのはお前の詩だけだった──虎だけだった。
袁傪は、やはり私の詩のせいだったのですね、と言った。李徴は首を振った。
そうではない。お前は何も悪くない。お前はただ詩を作っただけだ。それに、虎になっている間、おれは一度も人を喰らわなかった。それは、おまえの作った詩を繰り返し念じていたからだ。おれがいままで人間であることを覚えていられたのは、袁傪、お前のおかげだ……だが、もうそれも限界だ。
李徴は、袁傪から身体を離し、袁傪から限りなく距離を取った。
どうしたのです、李徴。
逃げろ、袁傪。おれはもう限界なんだ。もう何日も獲物にありついていない。お前を食べたくて仕方がないんだ。それにその匂い──その忌々しい魚の匂い。もう耐えられそうにない。……お別れだ。おれのことはもう忘れるんだ。今日のことは夢だと思って、お前は人として生きろ。
李徴は振り返り、叢に足を踏み入れた。しかし程なく草を激しく踏み分ける音が聞こえ、尻尾を強く引っ張られた。
やめろ。
李徴は振り返り、袁傪を脅しつけた。その声はもはや虎の吼え声としか聞こえなかった。それでも袁傪はあきらめようとしなかった。
いやです。
やめろと言っている。
やめません。
ふたりは揉み合いになり、元の開けた場所に戻っても取っ組み合いを続けた。
人食い虎になるというのなら、私を食べてからにしなさい。他の者で人の味を覚えるなんて、許さない。
おれはお前を食べたくない。
ならば、今後一生、人を食べずに生きなさい。
お前がそれを言うのか。真っ裸で魚の匂いをさせているお前が。
李徴は絶望し、叢に逃げ込んだ。しかし、嗚咽混じりの声が追い縋ってくるのだった。
また逃げるのですか。どうして闘わないのですか。私は、あなたなど、怖くもなんともない。私を食べようとするのなら、その度に食い止めてみせる。
互いの啜り泣く声だけが辺りに響いていた。
信じられなかった。おれが本気を出せば、袁傪ごとき容易に殺してしまうだろう、と思った。しかし、信じられないのと同じくらい、その言葉を信じたいと思っていた。そう自覚すると、不思議と飢えが鎮まっていくのを感じた。
再び叢から出てきた李徴の姿を見て、袁傪は驚き叫んだ。
李徴、姿が……。
それを聞いて自分を見下ろせば、毛皮は跡形もなく消え、二本の脚で立ち上がっていた。李徴は呆然としつつ手を広げたり握りしめたりした。どうやら本当らしかった。人間に戻ったのだ。
袁傪は狂喜し、麓に戻りましょう、と言った。虎園に招かれているのです。来客が一人増えたところで構いはしないでしょう。
それを聞いた李徴は蒼白な顔をした。
樹々の向こうで弦を弾く音が響いた。それが何か悟る前に李徴は袁傪に突き飛ばされていた。
起き上がった時には、袁傪の背に矢が深々と刺さっているのが見えた。李徴は喚きながら彼を起き上がらせようとしたが、叢から現れた虎園の主人がそれを無理矢理引き剥がし、腹を蹴り飛ばした。
まさか虎溺泉の呪いを解くとはね。この男は危険だな……そうだ、こいつも一緒に飼ってやろう。そうすればお前ももう逃げようなんて思わないだろう。
主人は李徴の髪を掴んで引きずりあげ、目を覗き込んだ。
この男が嗞瑠漬けになっていくのを見せてやる。楽に死ねると思うなよ。
そう言い捨てると主人は李徴を地面に投げ捨てて踏みつけ、懐から透明な液体の入った瓶を取り出した。
やめろ!
弦の音がもうひと度鳴り、園主の腕を矢が貫いた。主人は瓶を取り落とし逆上したが、二の矢に頭を貫かれ息絶えた。
叢から出てきた従者は袁傪に駆け寄って様子を確かめたが、何かを堪えるように息をつくと、目を瞑って首を横に振った。
矢に毒が塗ってある。ここではどうしようもない。薬がなければ……
麓に降りて、医師に見せればよいのだな。
従者はその声を聞いてはじめて李徴の存在に気づいたようだった。どうして二人とも裸なのだろうという疑問を抱きつつ、あなたは誰ですか、と尋ねた。
李徴は答えず、園主の死体を検分しはじめた。
お前たちは麓の虎園に招かれたのだろう。こいつは人に呪いを掛けて虎に変化させ、嗞瑠で飼い慣らしている。私もそうだった。あいつはおれが出張先で取った宿にやってきて、あの虎園に招いた。
死体の側から立ち上がった李徴の手には、瓶が握られていた。中で液体が軽い音を立てる。
これはかつて虎が溺れ死んだという呪泉の水。被った者はたちまち虎になってしまう。
李徴は瓶の封を開けると、頭からその中身を被った。
従者によって背中に括り付けられた袁傪の体はひどく冷たく、走るごとに手足が力なく跳ね上がった。止血のために結んだ布はすぐに用をなさなくなり、とめどなく流れ出る血は李徴の毛皮を伝って口に入り込んだ。美味しかった。美味しいと思ってしまう自分の浅ましさを恥じ、心の中に袁傪に何度も謝った。同時に、自分の中の獣性がどうしようもなく滾るのを快く思った。
走るうちに袁傪を李徴に固定していた縄がほどけてしまった。李徴は袁傪の薄い身体をその顎門にくわえ、また走った。歯の間から伝わってくる弱々しい鼓動をひと思いに噛み砕いてしまいたくて涙を流した。衝動が突きあげるたび、李徴はまたあの詩を諳んじるのだった。
時星々投槍 星々がその光芒を地上に放ち、
且其涙濡穹 その涙で大空を覆いつくしたとき、
認其乍微笑 お前をよしとして微笑んだのであるか?
造其乍作衆 お前を造り、かつ人々を造ったのであるか?
虎乎老虎乎 虎よ! 夜の森かげで
燃赫於夜森 赫赫と燃えている虎よ!
孰不滅之手 いかなる不滅の手が
造均整値畏 お前の畏るべき均整を造りえたのであるか?
袁傪、お前はどうしてこんな詩を書くことができた。お前は夜闇で虎に会ったことがあるとでも言うのか。それとも今日という日を予見していたのか。そう心の中で問いかけた。
答えを聞く日はきっと来ないだろうと思った。
友を食べずにいるためには走るしかなかった。
それならば死ぬまで走るまでだった。
息はもうとうに上がり、肺から血がせり上がってきて袁傪のそれと混じり合った。李徴はなぜかそれがとても喜ばしいことに感じた。脚から肉が剥がれ落ち、骨が砕けていくのを感じた。それでも李徴は速度を緩めなかった。
途中の駅に競馬に興じる若者たちが屯していた。人をくわえた虎が走ってくるのを見るや否や、石を投げながら追いかけてきた。しかし全速力の馬でさえも李徴には及ばなかった。李徴はまた一人になり、彼の頭にはあの詩があるばかりになった。
背中の重みも、血の味も、体の痛みや苦しさも感じなくなった。あとに残ったのは、空を駆けるように軽やかな至福の感覚だけだった。
麓村の医師は夜も明けようかという時間に、自分を呼ぶ声を聞いたのだそうだ。
助けてくださらんか。毒矢を受けました。このままでは死んでしまいます。
眠りを妨げられた医師は迷惑がって居留守を使おうと思ったが、帰る様子がない。しつこく懇願する声を聞いて、仕方なく灯りを片手に戸口を開けてやった。
酷い矢傷を受けた男が戸口の前に横たわって浅い息をしているのが見えた。この男が自分を呼んだとは考えられなかった。
折しも曙光が地平線を割って差し込むところだった。
何かが爆発したのだと思った。あるいは炎が燃え上がったのだと。
目が慣れると、それは爆発でも炎でもないことに気付いた。暁光が何かに射し込んで乱反射し、自分の目を灼いたのだ──何に?
医師は灯りを下ろし、呆然と見下ろした。
それは虎の形をした琥珀だった。
どこから湧いたとも思えぬ精巧な虎の彫刻が、腕の間に男を庇うように四つ足で立ち上がり、辺りを睥睨していた。《終》
《補遺:本説話に関して、明治期の日本において華族の蔵にて異版の一部が発見された。何らかの原本が存在するのか、日本人による後代の創作なのかは未だ定かではない。以下にその抜粋(現代語訳)を記す。》
……そこまでを皇帝に語り終えた私は、従者に言ってその琥珀を持って来させた。これを献上すると申し出ると皇帝は感嘆し、褒美をつかわすと言った。
私は人ひとりが航海できる船が欲しいと奏上し、辞職を申し出た。皇帝は逆上したが、代わりに従者を置いていく、兵部省にでも置けば直ぐに活躍できる武の者である、と言い従者を前に立たせた。彼は私も自慢の偉丈夫だ。皇帝も満更でもない様子だった。私は従者に「袁傪」の名前を譲った。彼は皇帝の計らいで兵部省に配属されることになった。
「袁傪」は荷と食糧を船に乗せるのを手伝ってくれた。そして、船が見えなくなるまで見送る、と申し出てくれた。私はありがたくその申し出を受け入れ、出航した。
私は「袁傪」の目になって私達を見送るところを想像した。
遠ざかる船を。
その上に乗る私を。
……今しがた、荷に紛れて隠れていた一匹の大きな虎が、私の隣に現れたのを。
驚く「袁傪」の顔が見えるようで私は愉快になった。
皇帝に献上した「李徴」は、私が宿泊した部屋に置いてあったものだ。琥珀を鋳融かして大きくしたものを虎の形に削ったものだ。よくある工芸品だが、あんなに大きな物は見たことがなかった。虎園の残党狩りをするついでに徴発した。本物の李徴は、村まで私を送り届けるとその辺の叢で筋肉痛を癒し、私の荷物に隠れて都までやってきた。
すっかり人間への戻り方がわからなくなってしまった、と李徴が欠伸をしながら言った。食欲はすっかり治ったというのに。
曲芸でも覚えたらいいでしょう。
いい加減なことを言う。
いいじゃありませんか。私は笛を吹き、あなたは踊る。あなたは詩を作り、私が歌う。どこに漂着するか分かったものではありませんが、これからはそうやって生きていきましょう。
李徴は返事代わりに喉を鳴らし、そのまま寝はじめた。
私はその隣に腰を下ろし、李徴の背中を枕にして波の音に耳を澄ませた。そして私も眼を瞑り、再び「袁傪」の目に見えているだろう光景を想像した──私たち二人だけを載せた舟が、波に運ばれて小さくなってゆくのを。
本質的な話をするのですが、小説を書きはじめたきっかけは紅玉いづきの『ミミズクと夜の王』でした。正確には、巻末にある電撃大賞の募集を見て「小説ってその辺の人が書いていいもんなんだ」と思ったという結構あるあるな話ですね。ちなみに電撃大賞にはその後一度も応募しませんでしたし、こんな話ばかり書くようになりました。なんで?
光るマゾの侍を書いた後に一体何を書けば……と思ってすごく悩んだ記憶があります。スランプになるの早すぎる。そして選んだ答えが「ちゅ〜るを塗りながら全裸で登場する袁傪」。ブレイクの詩集から「虎よ、虎よ!」を引っ張ってきて全部がうその漢文を捏造したのが楽しかったですね。
ラストの画は『シテール島への船出』です。全然内容が関係ないんだよな。