(3)
小山組長、オヤジの一発目の蹴りは強烈だった。
憤怒の首長を前に(いくら何でも無言の鎮座は通せず)オレは、土下座で「スミマセンでした!」と詫びの声を張り上げた、それは引き金になった。
瞬時に顔色を変えたオヤジは、机の椅子を蹴ってオレの前に飛び出すやいなや、その勢いの右足でオレの横顔を蹴り飛ばした。倒れ込むオレを容赦なく踏みつけ、蹴りあげ、蹴り飛ばす。荒くなった呼吸が酸素を求めて、一度肩を上下にゆする。忌々し気にオレの襟首を握ってオレを引きづり立たせる。右の拳、左の拳、右の拳・右の拳・右・右・右……何発殴られたかわからない。オレは子供時代から喧嘩ばかりで、殴られ慣れてる。だからどれだけ殴られても平気な筈だが、それでも意識が飛び始めた。何発殴られたか判らなくなってきたゾ、始めはカウント出来てたんだがな……
ようやく、オヤジは息を上げる……大きく息をつく。そして再び拳を振り上げようとして、オレのどうにか「スミマセン、出来心でした」と、呟く事が出来た虫の息に、動きを止めて舌打ちになった。
「……ケンイチ、ふざけやがって」
オヤジは苦虫を嚙み潰して、ぐちゃぐちゃ噛んで、松田さんを見た。
松田さんは哀し気に頭を下げる。兄貴分の英治は頭を下げたまま。ゴジラ達はニヤニヤ笑っている、これはうずくまるオレの背後の気配だ。
オヤジは「ふん」と鼻を鳴らしてオレの襟首の手を放し、身を翻すと、体を放り出す様に黒壇の机に戻り「仕方がねーな、くそ」宙に怒鳴り散らしていた。
これでけじめがついたとは到底思えない、始めの洗礼が今終わっただけだろう……
オレは、戻ったり来たりのぼんやりする意識の中で、あらぬ方向に気を向けていた。殴られ翻弄されながら、視界の片隅にどうしても消せない。目で追えなくなっても、研ぎ澄ました神経が奴に向く……金狼にだった。
ソファーに金狼が座っていた。何食わぬ顔で、オレなど興味がないと鼻先を空を向けて。が、こいつは動く筈だ、こいつはオレが憎いだろう。管理人に敗北した。オレはそんな管理人に守られていた、なら黙っている筈がない、何かをする……それが始まったら最期、つまり〇される……
金狼は、この任侠界で知らぬ者はいない危険な男だ。血も涙もないヤクザ。身長が2m、禍々しい150キロ越えの体格とトレードマークはサラサラヘアの金髪に、赤フレームのスクエアサングラス、海外ブランドの純白のドレススーツ。
世間には、正当な成功者が闊歩する陽の当たる表の社会と、不当な成功者が勝者として笑う、裏の社会がある(任侠界は勿論、多くが裏社会で暗躍をする組織だ)
表の社会では成功者が脚光を浴び、人の羨望を集め有名人となる。裏の社会の成功者はどうか(例外はある、全国区の反社会的組織の組長や大幹部は、名が広く知られ財産も持つが)、決して華やかな脚光の中で、光り輝く有名人には成り得ない。なぜなら、犯罪や略奪の中で勝ち得た成功だからだ。真実はただの強奪者、法の網をかいくぐった、今はまだ幸運の女神に見放されていない者、に過ぎないからだ。
ただ、手法はどうであれ。どちらの社会でも競争に勝ち抜いたのだ、最期まで勝者でいる者は報酬としての権力を得る。その世界観の中で名声を得ることになる。
裏の社会の名声は、表の社会のそれのように、広く世間に知られる事はない。その経緯が闇深い謀であったり、犯罪そのものの非合法、秘密裏な行為であろうからだが……では、秘密裏に事が進められた筈の出来事を、なぜ人が知り名声が形成されるのか?
そもそも表の社会と裏では、情報の伝搬や流布の仕組みが異なる。出来事が通信や画像で伝わるのではない(勿論今の時代だ、一部はそうだが)関係者の思惑がらみ口が、次の歪曲した耳目に囁かれ見せつけて、そこで初めて「その筋」という話が成立する。そして口伝や噂話というアナログな形で、しかしながら奇跡のスピードで、あっという間に全国に知れ渡るのだ。
情報の信ぴょう性はどうなのか。語られる話のトーンが落ちるほど、潜めやかな程「確かな筋の話」として囁かれる。
それゆえに、屈折して面白おかしく、都合がいいように描かれた偽情報が交錯するが、勿論、真実が語られる場合がある。情報に価値があり、とりわけ自身に関わりかねない「火の粉」の場合だ。それは恐怖が加味され、嘘ではありませんとか、本当の事を言いますとか、哀願の形になって。
その様々な情報の渦の蓄積が、裏の社会の名声だ。嘘であれ真実であれ、どれだけ他者を怯えさせたのか?脅威を見せつけたのか?
いつもその不吉な名声の中心にいて、いつもそれをほしいままにする者がいた、誰なのか?
それが金狼だった。裏社会での定評は、最も強いヤクザであり最も冷酷な侠客だ。
小山組長や、松田は近隣の付き合いの中で、中央(関東)や関西、日本全国の事件を伝え聞いたり、直に耳にしている。
あのイケイケの組織、消えたそうだ。無双と名の知れた誰それが看板だったが、夜襲され病院送りになったそうだ。誰がやったと思う、金狼だそうだ、金狼は素手でやったらしい。
ほう、金狼か?
東北の大親分が関東に乗り込んだ。いよいよその時がやってきたと、北の連中の息が揚がったのはいいが。大親分は結局下を向いて帰ったらしい、事を構えようと画策した宴席にアイツが来ちまったからだ、金狼だよ?ひと睨みだったそうだ。
顔も効くのか、金狼は?
(飛び道具で)弾けば簡単だと、あの武闘派の組が乗り込んだ、全員がヒットマン。知ってるいると思うが結果、八つ裂きの返り討ちになった。関係者の上から下まで、果ては親族にまで塁が及んで、皆いなくなった。胆力、腕っぷしだけじゃなく、残忍過ぎて手出しができねえ、そいつが金狼なんだ。
…分かったから、奴の話はもうやめろ、関わりたくねえ。
当然、(そんな)親分衆の語らいをオレは知らない。オレが知っているのは風俗雑誌の隅っこの三文記事や、深夜番組の残酷仕立てのドキュメンタリー位だ。つまり、オレは此処だけの話とかいう汚物が詰め込まれた箱から、斬首台から流れ垂れる肉片や脂の浮いた血糊を。たまたまそれが首筋に滴って、人の血だと判って知っている。噂という恐怖だけを知っている……
何より、オレはほんの昨日前にこの金狼を(管理人の格闘を)直に目の前で見ていた。桁外れに強いヤクザだという逸話は、本当の事だった。
体格で引けを取らない空手の達人、管理人・矢野龍介には敵わなかったが、その暴れ様は異次元だった。金狼は巨体でありながら、野獣のような猛烈なスピードと力で相手を潰し壊す。普通の人間が立ち向かっても、魔獣の前の子供だ。オレなどでは?喧嘩にもならないだろう。
なぜこんな(全国区の)暴力の塊のような男がここにいるのか、オレは知らない。丘に現れた時、何かつべこべ言っていたな、管理人を狙っていた、やっと見つけたとか何とか。少なくとも金狼は管理人を探していた。
虚ろに思い巡らせていると、不意に視界に何かが映る、靴底だった。ゆっくりぐじぐじと、オレの顔に靴底を押し付けている、それが金狼だった。
「おい小僧?いいザマだな、元気か?」
金狼?と認識した途端、オレの意識がはっきりする。金狼の横にオレは転がっていた。奴はソファーにふんぞり返ったままオレの足蹴にして。凶悪な顔でおどけていた、不意に半身を屈ませてオレを覗き込む。
「矢野はどうした?お前独りで何しに来た?」
オレは恐怖の中で自分の状況を探る。くそ、かなりやられた、顎は割れてないか、鼻は折られてないか、腕は繋がっているのか?奥歯が2、3本ぐらぐらしてる。鼻は折れてないが奥が痛く血が止まらない、左の視界が真っ赤だ、片目がやばいのか、鈍痛がする頭からの出血が視界を潰しているだけか?次は……金狼が来るのか?オレの体は保つのか?
呻くだけのオレに、金狼は舌打ちをする。今度は靴底をオレの横顔に寄せたかと思うと、そのまま「邪魔だっ」と、足蹴にする。オレはそのまま上半身ごと転がされる。
「クソガキ、面白くもねえ……」
金狼は?それきりだった。オレは体を震わせて、何とか組長・オヤジの前で正座の姿勢に持ち直していて、奴の態度に不信したが、それどころでもない、前門の虎がいる。
「オヤジ、すみませんでした」オレが出来る事、ともかく謝るしかない。
金狼を見ていた組長だった。沈黙して、やがて「……もういい」と、彼は大きくかぶりを振った。
「下っ端の不始末で大騒ぎしてもしょうがねぇ」
組長は机上の頬杖になる「ケンイチ」と、オレに。
「指を一本もらおう、で、下積みから出直せ」
オレは歯を食いしばる、組長は「おい」と、扉辺りに立ったままでいた兄貴分に目で合図を送ると、兄貴分英治がオレの背後から首根っこを抑えに来た。
オレは軍手を嵌めていた。床に突っ伏した両掌の、右手の親指の付け根が、出血で真っ赤だ(この騒ぎで傷口が開いたのだろう、オレは数日前に、管理人・矢野龍介から右手親指を食いちぎられていた…)
ぎょっとする兄貴分だった。お前、どうして?と云いながら「組長、ケンイチはもう自分で?指詰めてます、コイツの親指?ありません」
ああ?と声に出したのは、小山組長、英治の横に立つ幹部・松田、そして不思議に金狼だった。金狼は更に顔をしかめて「バカが……」と呟いた?
松田さんが、それなりの勢いでオレの頭をはたいた。馬鹿野郎!と声を荒げて「勝手に何やってんだ、それじゃ意味ねーんだよ!差し出すモンなんだよ、エンコはナァ!」
ああ、ああ、と声に出すのは、もう場を収めるつもりの組長・小山のオヤジだった。
「詰めたんならもういい。別にいらねぇ、身内の印が特にほしい訳でもねぇ」
ふう、とオヤジは息をつく。
「じゃ、ケンイチよ?もう少し皆にヤキ入れてもらえ。それで許してやる。それからお前は今からゴジラの弟分だ。それで終わりだ、いいな?」
オレは、はっと顔を上げる。奇跡だと思う。生きてる、五体満足に。組に迷惑をかけたチンピラなのに、殴られてそれで済んだ。
組長が、連れていけ、とゼスチャーしている。兄貴分がオレの肩を掴んでそこに立たせようとしている。だから…そこで口を噤んでいれば良かった。内心ほくそ笑んで、涙を流してすみませんでした、とむせび泣けば良かった。
だが、オレは兄貴分の手を振りほどいていた。馬鹿だと知りながら、その床にもう一度突っ伏す。
「組長、オレカタギになりたいです、オレをカタギにして下さい!」
オレは額を絨毯にこすりつける。場の空気は凍る。組長、小山の形相が、みるみる鬼に変わる瞬間だった。