(2)
ケンイチ、と誰かが呟く。ケンイチ!と気色ばむ者がいる。不意に現れたオレに(大げさに云うと)どよめく組事務所だった。
室内は百坪位を縦に伸ばした間取りだ、まず手前に2組のパイプ椅子に挟まれた会議机が1つ在る(もしも、組に不測の事態がやってきた時ここが最初の緩衝になるそうだ、笑)。次に、背の低いスチールカウンターが部屋を仕切り、その奥にオフィス然にスチール机が2組突き合わせで5列程並ぶ。
正面、右手側面の中程までが窓で、採光するつもりがまるでないそのブラインドは、きつく閉じられている。続く残りの壁は、ガラス戸のあるスチール棚が間口を室内に向けて並び、よく見かけるキングジムのファイルが、バラバラの見出しで乱雑に収納されている。
床は素っ気ないグレーソフト塩ビのパネル貼りで、パステルカラーの今風のワーキングチェアや、ズラリと在る机上のビジネス電話機にノートパソコン、などと見ると……空間は、パッとしない構えの企業の事務オフィスに見えなくもない。まず目を引くカウンターの横には、大振りな観葉植物の鉢が座る、職場に緑もある訳だし(ただし植物に隠されるように傘立てが在る。そこに傘はささっていない。代わりに数本、金属バットや木刀が乱暴に突っ込まれている)。
一見して此処が健全な職場と云い難い、と判るのは壁のあちこちに貼られた水着姿のアイドルのカレンダーや、競艇、競馬の開催記念などの販促ポスターであったり。また正面の窓の上部、和室で云う長押風の壁面に掲げられた、変な書体の【正直一路】という扁額だろうか、闇金でもやりたいのか、事業方針がまるで読めない。
勿論、此処がどんな場所なのか、すぐに見当はつく筈だ。此処にいる男達は、その姿や佇まいに(サラリーマンを思わせる者)まともな者は誰もいない。
装いは皆まちまちで、一様に不真面目だ。上下濃いグレーのドレススーツに、黒や紺のカッターシャツでノーネクタイ、首元に成金趣味の太いゴールドネックレスをチラリ見させる者。黒のアンダーシャツに小さめの黄色いTシャツを被り(かぶり)デニムを穿くが素足に草履の奴。ダボダボのチノパンツに、カラーTシャツの上から昔の風呂敷の色と模様のアロハシャツを羽織る強面の若い男、などエトセトラ。
彼らは皆、態度も不遜極まりない。椅子に座る或る者は、机から離れた場所までキャスターを転がして、足を放り出しタバコの煙をくゆらせて天井を見上げていた(灰皿は足元にすらない、ポイ捨て常習犯だ)受話器を握って通話中の男がいる。コイツはスチールデスクの上に胡坐をかいて、首を傾げてオレを睨みながら、それでも会話をしていた。
一番奥に、職場で云うなら、居並ぶ平社員を統括する向きに配置された括りの机に、丘までやって来て、最期にオレに忠告をした(してくれた)例の兄貴分がいた。彼は椅子に座り肩肘衝きで、手前にいる(これまた行儀悪く机上に片尻り座りの)緑色の極道スーツの男と話していたが。オレの登場で兄貴分も緑色も会話を止める。立ち上がる兄貴分、連れ立って緑男もオレを認めるなり睨み、床に降りた。
2人が此方に歩んでくる、皆呼吸を合わせたのか、オレの周りに(それぞれがもったいつける威勢を張りながら)集まってきた。
ゴジラは、室内に入るなり後ろ手にオレの襟首を掴んで(もう必要はないのに)それを放していない。云い忘れていたがオレの背に、上着の背を握りすがって見たことが無いおっさんが1人、衝き付いていた。入り口扉のすぐ右側に簡単な応接セットが在る、その長椅子に寝転がって、隅の壁掛け液晶テレビのニュースを観ていた男だ。場違いに(いや、そうでもないか)エンジの上下のジャージ姿にスニーカー、小柄な男は?何だコイツ、オレが連行されていると見るや、体を捻って飛び起きてきた。用心棒か何かだろうか?
そしてオレの前にやってきた兄貴分。正面からオレの胸ぐらを掴み「ケンイチ!コラァ、貴様!」だ。3人懸かりで上着を引っ張るのはヤメロ、とオレは思う(別に逃げねーよ?上着はあの街で買ったオレの一張羅なんで、引っ張るんじゃねー)
てめーぶっ〇すゾ、とか。何様のつもりだ、とか。罵声で室内が大騒ぎになる。オレは部屋の真ん中まで引き摺り込まれる。誰かがオレの頭を机に押さえ付ける。オレの横っ腹に蹴りが入る、背中を殴りつけられる……だが、このまま一気に流血の修羅場、リンチには至らなかった。
兄貴分が「ヤメロ、止めとけ!」と(形だけだろうが)場を制止してくれたせいもある。兄貴分はなぜかあの丘で、オレに手加減をした。その際に組に戻ってワビを入れろと云ったのは甘言だったろうが、その約束通りオレはやって来た。なのでその手前、庇わざる得ないのか。場が破裂しない理由が他にあるとすれば。
実は此処にいる連中の多くはオレを嫌ってはいない。組織としては今やオレは裏切り者だ。だが一人一人との関係性は?年の上下はない、それなりに皆がダチだった。
首根っこを押さえてる、一回り年上の怖い顔の男。コイツの泣き言はいつも安酒を呑みながら聞いてやった。尻や腹に足蹴りを入れてくる金髪の七三分けは、街の路地裏でよく半グレに袋叩きに遭っていた、それを助けたのはオレだ。背中でオレを押したり引いたり派手に騒いでるアロハ、お前は金が何時も無くて、よくオレが拉麺を奢ってやった、あの山小屋チェーン店は旨かったナ。
だからだ。皆が大騒ぎで、ケンイチ、ケンイチと怒声ってドカドカ!バンバン!騒音を上げる割にオレに致命傷がない、肝心のインパクトで力を抜いている?特に背中のアロハは体を張って(いつの間にか用心棒風の男を押しのけて)、危険なゴジラ達の攻撃の邪魔をしてる(若干だ)。馬鹿だなもういいアロハ、お前悟られるゾ……だから、痛い、ちまちま殴りやがって、もういいんだよ、てめーら!!
「くそっコンチクショー!」
オレは大声を上げた。体を丸め机に蹲り踏ん張り耐えていたが、手加減があるにせよまともに拳を振るうゴジラなどもいては。ボロ雑巾になりかけていた、その時だ。
「ケンイチ、ケンイチだと?ケンイチがいるのか!」と、壁越しに声が上がる。
部屋の中央、入り口カウンターから見て左壁中央に、黒塗りの立派な扉が在る。いわゆる隣部屋が社長室(組長室)だ。そこから声が上がって扉が開いたかと思うと、やばい!と息を呑むオレの目に星が飛んだ。オレは強烈な拳をまともに顔面に受け、すっ飛ばされて床に転がった。
現れて一閃、オレを殴り飛ばしたのは組幹部の男だった。細身で濃紺の洒落たスーツに短髪、この人はマツダさんという(此処Z会本部の本部長、直系松田組の親分さんでもある)。
Z市を牛耳るヤクザ、Z会は総勢100人弱。いくつかの直参組を傘下に置く複合団体だ。その在り様はいたって健全な極道組織、古くもない新しくもない、ごくありきたりな地方ヤクザの中堅勢力だった。
束ねる組長の名は小山裕司と云う。つい最近還暦を迎えた、オレから見ると老いなど微塵も感じないナイスガイ・オヤジだ。組の経営方針はオレ達チンピラもよく知る処で「組は反・反社会勢力でありましょう」という、含蓄あるものだ。オレやオレ達はよくオヤジがどこかの宴席で語ったらしいゾと噂で聞いたり、何なら直接幹部との会話の端を盗み聞いたりした「社会に寄り添わねーから、社会に嫌われる」「暴対法はオレ達を取り締まる法律じゃない」「金儲けを考えるな。それで立派な社会の一員になり、本当の金儲けが出来る」
要するに組の云う任侠とは質実剛健らしい、だからと云って羽振りは悪くなさそうだから、上手く立ち回れてる。Z市は巨大都市だ、巨大企業も在る。甘い汁も吸いようで、結局は経営手腕がものをいうとばかりに、Z会は極当たり前にこのZ市から必要悪と認知、許容されていた。
このZ会の首長、小山組長は2代目になる。若い頃からの叩き上げで、当時の仲間達が組幹部になり(暖簾分けをうけて所帯の小さい組を持ち)経験豊かな面々が皆でこのオヤジを支えている、外様を排した気心が知れた者達の固い絆で結ばれた一枚岩の屋台骨だ。その幹部の一角であるこのマツダさん、オレが元気で肩書など存じ上げないでガチで殴り合ったとして……ええい、話にならん。とにかくスゲー人だ。
オレは、背中をスチールデスクにじらせながら弱々しく立ち上がった、派手に鼻血を噴いていた。くそ、マツダの兄貴は普段優しい男だが、この状況で怒らない筈はないわな……と、袖で鼻を拭う。
幹部マツダさんは、オレをゴミを見る目で一瞥すると「……ケンイチを捕まえたのは誰だ?」
「ハイ、オレです」幹部に名を売りたいとばかりに、茶髪のアフロがゴジラの後ろで手を挙げる。一つ遅れてニヤリとゴジラも、痩せっぽちも手を挙げる。
マツダさんは面白くなさそうに頷くと「お前らも来い、それと」と。兄貴分に顔を向けて顎をしゃくり「英治、お前も来い」と云ってから、怖い目をオレに向けた。
「ケンイチ、組長が呼んでる。丁寧にワビを入れろ。それから……此処の皆にアタマ下げてから、行け」
オレはハッとする。そうだった。
こいつらはオレを無視をしなかった。本気でオレを殴る奴もいたが、知った顔は下手な芝居の歓迎だった、どいつもこいつも。例えば幹部にイラつかれたり八つ当たりされたりの、とばっちりに遭ったんだろうな……
オレは両手を腰に沿わせた、皆を見る。囲む荒らくれ達が一瞬固まる。
オレは皆に一礼をした。皆はぎょっとして……中には「オ、オゥ」と応えてしまう者もいて、そいつは馬鹿っと隣に肘打ちされる。
マツダさんは、その光景に目を細めた、静かな表情を一瞬して「ケンイチ、お前ら。部屋に入れ」
ゴジラ一行は意気揚々と先頭で。兄貴分(英治)は神妙な面持ちで。オレは青褪めてとぼとぼと、その後ろに鬼の形相のマツダさん。オレ達は一列になって組長室に入って行った。
赤いカーペットが敷き詰められた床が柔らかい、二十畳の倍はある正方形の部屋。
オレにとっては高い、高すぎる敷居だ。だが自分の不始末だし、悪者は自分だし、謝らないと話が進まないしで、足を止める訳にいかなかった。だから、黒壇の執務机にふんぞり返って座り、あらぬ方角を見ている苦い顔のオヤジが視界に入ってもオレは足を止めなかった筈だが。それが止まってしまう。たじろぐ?そう、たじろいでだ。
組長机の右側に豪華な応接セットが在る。ブラインドの窓を背に、2つのシングルのソファーに白いドレススーツの男達が1人づつ座っている。コイツらは知らない顔だしどうでもいい、問題は……
オレに背を向けた対面の長ソファーに、巨人の背中が在った。両腕を拡げもたせ掛けてくつろいでいる男。規格外に巨大な背中に太すぎる首や腕周り。そして目立つ金髪、サーファーヘア……金狼だった。この恐怖の男が其処にいた。そうか、コイツがまだここにいやがった……
立ち止まった事を不快に感じたのだろう、幹部マツダさんはオレを前に突き飛ばす。オレは足の力が抜けて、よろよろと数歩前進すると、組長の前に膝をつき蹲った。視界の右隅にオレに気付き、おや?お前はあの丘で……と、金狼がオレを認知・反応する気配があった。途端に、冷や汗が背中に流れる冷たさを感じる。
オレはあの丘でこのバケモノと出会っている。残念ながらこの金狼は管理人・矢野龍介に敗北した。だから、そのツケはオレが支払う事になるだろう。
誰かがジ・エンドと云ったな。オレはようやくその意味を理解した。恐怖と云うのはこんな風に、人の心臓を締め上げる感覚なのか、とそれを味わった。
伏せた目線の先に、カーペットの黒いしみがポツポツ拡がっていく、オレの止まっていない鼻や口元の血の滴りか?額から流れ始めた脂汗か?それともここに至って、〇にたくないってオレは涙を流しているのだろうか……