ドクター・マッスル
「貴方クロードって言うのね! ねえクロードさん、これから何処に向かうの? 町はあっちだし、こっちだと森よ?」
「帰りたきゃ勝手に帰れ。付いてくるなガキ」
「一人だとまた亜人に襲われて今度こそ死んじゃうわ! 貴方の隣が安心なんですもの、傍に居させてくださいな」
「ちっ……めんどうくせえ」
すげなく切って捨てられても、ミスティは純真無垢に首を笑うばかりで傷付いた様子もなければ、クロードの傍を離れるつもりもなく犬ぞりを走らせている。それがどうにも面倒くさく、彼は大きく息を漏らした。
どうかしている。このガキ、亜人に殺されかけて頭おかしくしたんじゃないのか──そんなことさえも脳裏に過らせる程に、初対面にも関わらず少女は距離を詰めてきていた。ただでさえこの万年凍土にて半裸も同然の奇抜な男に、何をそんなに執心しているのか。理解できないまま、クロードはやはり無言で歩く。
「ねえクロードさん、貴方って最近巷で噂の『半裸の奇行士』よね? 見かけと裏腹にとっても強い剣士だって、聞いてたけど本当なのね!」
「……」
「今、連邦には『クローズド・ヘヴン』とか『獅子』だなんてS級冒険者たちがやって来ているそうだけれど……どちらが強いのかしら! 私はもちろんクロードさんだと思うわ! だってすごかったもの、ハーピーをあんなにすぱーって! しゅぱーって!」
「……『クローズド・ヘヴン』か」
ミスティの一人騒ぎの中、琴線に触れるワードがあってクロードは反応した。『クローズド・ヘヴン』──世界に50人程しかいない冒険者たちの頂点、S級冒険者の中でも指折りの10人で結成した、国際的な秩序維持組織だ。
亜人を相手に一対一で渡り合えるという実力者たちが今、連邦にやって来ているというのだ。昔日にも遭遇する寸前だった過去がある身として、それが少しばかり引っ掛かる。
やはり、『あの組織』絡みだろうか。大いにあり得ると当たりを付けつつもしかし、どうでも良いと彼は落ち着いた。誰が何処にいようが彼のやることは限らない。在るべきところにいつか向かうまで、死地を巡るだけなのだ。死人に、他者の思惑など関係ない。
「それに新聞を見てたら、共和国最強の『特務執行官』まで連邦を訪れるんですって! ここ最近ずっと続いてる失踪事件を捜査しに来るそうなのだけれど、とっても強い女の人らしいの! 憧れちゃうなあ」
「……そろそろお喋りは止めろ。森ん中だ、亜人に殺られても俺は知らねえぞ」
「え? あっ!」
延々と喋っている内に森の前までやって来たことに気付き、さしものミスティも口をつぐんだ。森の中は基本、亜人の住処であることが多い。下手に人間が騒げば次の瞬間、殺されていてもおかしくはない危険地帯なのだ。
愛らしく両手で口を塞ぐ少女に、一目とてくれずそのまま歩き続ける。いくらか亜人の痕跡を見つけ、また視線も感じるものの……警戒している程度で仕掛けては来ない。
一般的な亜人の対応は概ねこんなものだ。戦争の残党とでも言うべき亜人犯罪者たちは率先して憎い人間たちを殺しにかかるが、大多数の亜人というのは人間をむしろ恐れ、極力近づかないようにしている。
恐るべき身体能力を持ち、それでもなお人間には手を出すまいと引きこもっているのだ。それは何故か……学者による長年の研究の結果、判明した事実がある。すなわち亜人は人間の文化や文明、その異様な発展速度に恐れを抱いてるのだ。
人間の数十倍、数百倍もの永い時を生きる亜人。それゆえ時間感覚も恐ろしく緩やかで、発展や進化に大して極めて意識が薄い。そんな彼らからしてみれば儚い命でどこまでも高みを目指そうと文明を造り上げる人間の姿が、ひどく狂的な、おぞましいものに映るのである。
突き詰めればそうした恐怖感情が戦争に繋がった部分もなくはない。それ程までに亜人は人間に恐怖し、かつ憎悪しているのであった。
無言のまま十分弱。その間恐れからか、犬ぞりを巧みに操り引っ付いてくるミスティを鬱陶しがりつつもクロードは歩いていく。
そうしていると次第に森の中、拓けた土地が見えてきた──一軒家だ。亜人の住処には決して似つかわしくない人間的な建築物が、そこにはある。
目を見開き、ミスティが呟いた。
「え、家……? 人間のよね、これ」
「住んでるのは人間とは違うみたいだがな」
応えながら家に近づいてそのままドアを開ける。ノックも、呼び掛けもなしだ。あまりにも自然に不法侵入する姿にポカンとして、ミスティは犬ぞりから降りて次いで慌てて呼び止める。
「い、いけないわクロードさん!? 人の家に勝手に……あれ? もしかしてここってクロードさんのお家かしら」
「こんなところが俺の家なら、とっくに辺りの亜人どもは全滅してる」
「相変わらず物騒ね、クロード」
──と、開いたドアの先、家の中から女性が出てきた。知らぬ仲でもないのか、クロードに苦笑しつつも親しげに声をかけている。
セーターに白衣を着た、白髪の女だ。抜群のプロポーションが清楚に映える、全体的に知的な雰囲気を放つ美女。
翻って己の発育前の体を見下ろし、何とはなしに唇を尖らせるミスティに向け、微笑んで女は語り掛けた。
「ふふ、ずいぶん愛らしいお連れ様だこと。まさか貴方が誰かを連れてくるとも思っていなかったから、二重に驚きよ」
「知らん。このガキが勝手に付いてきただけだ」
「さっきハーピーから助けてもらったの! 私はミスティ、この近くにある町の商家の娘です! 貴女のお名前をお聞きしても、レディ?」
「あらあらご丁寧にどうも。ふふ……私の名前はね、『マッスル』」
「……ふえ?」
名乗りの場面で唐突に筋肉の話が始まり、ミスティは首をかしげる。そんな反応さえも女の想定の内なのか、悪戯げに笑ってなお、続けて言う。
「冗談に聞こえたかしらね。でも私の名前はマッスルなの。昔は本名があったけど、色々あって改名したのよ」
「は、はあ……それで、マッスル?」
「ええ。今の私を知る者は皆、ドクター・マッスルと呼ぶわ。貴女もどうかそう呼んでね、ミスティちゃん」
「は、はい。よろしくドクター……マッスル」
「はい、よろしく」
何やらあって名を変えたにせよ、何故マッスルなのか。他に何かなかったのか。そう言いたい気持ちもそれなりにあったがミスティはグッとこらえ、ドクター・マッスルと握手を交わした。人の過去は色々あるし、あまり追及しては駄目だと少女は、両親から教わっている。
さてとドクター・マッスルはクロードとミスティ、そしてそりを牽いていた犬たちを屋内へと誘った。せっかくの屋内だ、何をするにせよ入った方が良いに決まっている。犬たちにしろ寒い中を走ってきたので、暖かな場所での休憩はありがたいことだった。
「色々散らかっているけれど、どうぞごゆっくり」
「わあ……! すごい、何か、色んなものがたくさん!」
「お恥ずかしいわ。クロードはともかく貴女みたいな愛らしい子が来るって知っていたら、もう少し片付ける気にもなったのに」
頬を染めて苦笑する。一々色気のある仕草ばかりするドクター・マッスルだが、部屋の中身は色気の欠片もない。ミスティには到底理解できないような難しい言葉や数字が書き連ねられた書類の束、束、束。机と言わず椅子と言わず床にすら散らばっている有り様で、整理整頓とはまったく無縁の様相だ。
それでも汚いというよりは知的、あるいは学者的な印象を受けたのか、少女の瞳が尊敬に煌めいて女史を貫く。森の奥にて一人、何かを研究する才女とは何という格好よさだと、ミスティは感動していた。
「すごーい……!」
「あ、あはは。そんなに感心されることじゃないんだけれどね。研究に没頭すると、いつの間にかこうなってしまって」
「研究? ドクターは研究者さんなの?」
「ええ。浅学非才の身ながらね、少しばかり……この星について研究してるわ」
「星……?」
聞き慣れぬ学問。星についてというのが今一理解しきれずにミスティは聞き返す。ドクター・マッスルは淡く、苦く笑うばかりだった──何か取り返しのつかないものを悔やみ、恥じるように。
遮るようにクロードが、書類を粗雑に払いのけた椅子に座り、足組みをして素っ気なく言った。
「下らねえことくっちゃべってんじゃねえ。さっさとメンテナンスとやらを済ませろババア。てめえもだガキ、その口閉じて黙ってろ」
「はいはーい。もう、見るからに分かるわクロード。たった一週間でずいぶんこき使ってくれたのねえ」
「どうせ俺なんかこんなもんだ。分かっててこんなガラクタ、振り回させるんじゃねえよ」
椅子に腰掛け、リラックスした体勢から手にした鉄塊を放り投げれば、ドクター・マッスルはいとも容易くそれを受け取った。明らかにとてつもない重量であるはずのそれをだ。
人間ではない。直感的に彼女の素性に推測を付けるミスティは、年に見合わぬ聡明さを備えていると言えるのだろう。それゆえセンシティブな話題を避けるように、むしろクロードに向けて鋭く叱咤を飛ばした。
「失礼よクロードさん! ドクターはとても素敵なレディなのに、まるでお年寄りみたいに!」
「だとよ。どうだ『レディ』、ご感想をどうぞ」
「貴方ねえ……」
痛む頭を抑えるように、ドクター・マッスルは額に手を当てた。あまりにすげないクロードの態度に、分かってはいても注意せざるを得ない。呆れも露に忠告する。
「事実にしろもう少し、ミスティちゃんに優しくしてあげてもよろしくないかしら? そんなでは貴方、これから苦労するわよ」
「知るか。死人に機微だのこれからだのを求めるな」
「二言目にはそれね、もう……!」
「え……と、えっ? あのう?」
今しがたのクロードの侮辱には一切反応せず、ミスティへの態度を叱るドクター・マッスル。それがどうにも解せず、少女は目を白黒させた。
はあ、とため息一つ。苦笑して白衣の美女は、少女へと語り掛けた。
「ふふ、気にしてくれてありがとう。でも本当のことだから良いのよ……かれこれ3000年近く生きてきた身の上だもの。お婆ちゃんどころか骸骨でも利かないわよ、人間からすれば」
「さ、3000年!? や、やっぱり亜人なの、貴女!」
「ええ。まあ、ひどくマイナーな種族よ。今やそう……数える程しかいないくらいの、絶滅寸前のね」
自嘲するように語る彼女を、ミスティは途方もない霊峰を眺めるような目で見つめる他ない。3000年……自分に比べて実に300倍もの時間、この女性は生きてきたのだ。あまりの悠久に理解が追い付かない。
息を呑むばかりの少女に優しく、遥かなる年長者は問う。
「無駄に長生きしただけよ、私なんて。それよりも貴女、さっきクロードと知り合ったばかりって本当なの?」
「え。あ、ええ。そうね、さっき助けられたの。格好よかったわ、すぱーって、ずばばーって」
「そうなの、ふふ……ところでどうしてそんな、亜人に襲われるようなところに一人でいたのかしらね。犬ぞりなんて乗って、尋常じゃないわよ?」
「え──」
不意の質問に、ミスティは硬直した。聞かれるとは思っていたが、今のこのタイミングとは思っていなかった。
おもわず身構えた少女を安心させるように、ドクター・マッスルは微笑んだ。ゆっくりと諭すように、言葉を紡ぐ。
「何かわけがあるのでしょう? そんな若い身空で亜人の跋扈する町の外に一人、飛び出したような事情が」
「……それは」
「聞かせてちょうだい? 力になれるかもしれないし、きっとね、それが私たちにとっても大切なことに繋がる気がするのよ」
優しく語りかける美女。抗いがたいその声音に、少女はぽつりぽつりと身の上について口を開いていくのであった。