附則
「お断りします」
モンドの求婚に対し、リンダがそう答えたのは今からもう何十年前になるか。
当時若くしてドレイク傭兵団のいち組織の団長候補として名を挙げることが出来、有頂天だったモンドを地の底まで堕とした言葉は今も尚モンドの心に住み着いている。
若かった当時。
モンドは一人の女性に想いを寄せていた。
彼女は働き者でいつも団員達に好かれていた。そんな彼女を射止めたくてモンドは必死だった。
彼女に相応しい人間になるには出世しかないと死に物狂いで働いた。他の団員達との競争に勝ち抜くためにボロボロになるまで働いた。
その結果、ついに次期団長候補として若い団員がなれる団長補佐にまでなれたのだ。
今しかないとリンダに告白をした。
けれどその答えは、モンドが求める答えと全く違っていた。
それでも諦めきれずに、何度か告白をしたがやはり断られてた。
そうしている間に団長補佐となり、しばらくして副団長となり。
団長に昇格する前に妻を娶れと上司に言われた。それこそが、団長となるために必要なものなのだと。
愛する者がいれば働き方も采配も変わる。いち傭兵団の団長ではあるが、その位は末端の貴族とも互角の地位であることは誰もが知っていた。だからこそ、団長に代わり家を守るべき妻を娶れという。
最後の悪あがきにモンドはリンダへと告げた。
「この機会を逃せば俺は別の女を妻にする。だからどうか、結婚してくれないか」
モンドは今、上司である団長から女性を紹介されている。その女性との結婚話が進む前にリンダへと最後の告白をした。
初めての告白からもう、十年は経っていた。リンダは独身を貫き、既に適齢期と呼ばれる年齢も過ぎていた。それでもモンドは構わなかった。好きになった彼女と共に在りたいと思ったのだ。
けれど答えは同じだった。
「ごめんなさい」
その告白から半年後に、モンドは結婚した。
だが、愛のない結婚生活が続く筈もなく。
子にも恵まれない冷めきった夫婦の関係は二年で終わりを告げた。モンドは妻となった女に多額のお金を渡し縁を切った。既に団長となった今、妻が無くとも問題がなくなっていた。
だが、リンダにはもう想いを告げることを止めていた。それでも好きでいることは変わらない。
我ながら何故ここまでしてリンダが好きなのかモンドには分からなかった。
ただ、初めて会った時の記憶が今も彼の中で鮮明に思い出せたのだ。
「新米傭兵さん。元気出して」
あれは、まだモンドが入団したての頃。先輩である団員達と揉めて殴られ、一人傷を冷やしていたところに彼女は現れた。
差し出される傷薬を黙って受け取ったが、手が痛んでうまく塗り薬を傷につけることもできない。
「貸してちょうだい。つけてあげるから」
手際のよい動きでリンダがモンドの傷口に塗り薬を充てる。数か所に渡る傷を見て、リンダは顔をしかめた。
「ここでは新米の傭兵に対していつもこうしているの。洗礼だって言うけれどやりすぎだわ」
「……力が全ての世界だ。仕方ない」
そう告げると、リンダは困った様子で微笑んだ。
「力だけが全てじゃないわ」
手当を終えた女性が立ち上がる。
見上げたモンドは、日差しに照らされながら微笑む若きリンダに対し、その時恋に落ちた。
モンドにとって最も欲するべき女性となったリンダは、若いながらに長く傭兵団に所属していた。どうやら彼女の父が傭兵団員だったらしく、ほとんど我が家のように過ごしてきたらしい。
愛する女性に想いを返してもらえないままに、モンドは団長として日々過ごしていた。
一人の少年がドレイク傭兵団にやってきた。
金色の髪に碧色の瞳。綺麗な顔立ちの少年だが、体中が汚れ至るところに傷があった。
少年と共に訪れてきた男は、この少年が暮らしていた屋敷の使用人らしい。
このままでは殺されてしまうから、どうか少年を匿ってほしい。そう言われたのだ。
だが、使用人から渡される報酬はあまりにも少なくモンドは顔を顰めていた。断るべきか悩んでいる時、リンダがその場で俯いていた少年の前で膝を突いた。
「坊や、元気出して。傷を治してあげるから一緒においで?」
元気出して。
そう、告げた彼女の言葉にモンドは過去を思い出した。
まだ新米で弱かった自分に投げかけたリンダの言葉。それが今聞けたことに喜びを抱き。
少年を預かることに、気付けばモンドは頷いていた。
少年の名はアルドノアと言うらしいが、長い上に身分が露見してはならないということで、アルトと名を改めた。
彼と共に訪れた使用人は暫くして訪れなくなった。既に受け取れる報酬が無くなった今、アルトをどうするかと考えていれば。
「傭兵になる。何でもいいから働かせてほしい」
既にリンダの手伝いや掃除などを手伝うようになっていたアルトの言葉にモンドは頷いた。
それからモンドは、今まで感じたことのない喜びを得ていた。幼子が自身の背中を見て成長していく様子を楽しんだ。それも、リンダと共に見守ることに、幻想の果てに見た光景を描いていた。
息子のように思ったアルトは、あっという間に成長し実力によって副団長に就任していた。元から教育を受けていたらしい彼は知識も豊富で、それでいて小さい頃から団員達に鍛えられたため剣の技術も高かった。
モンドは誇らしかった。
それと同時に、心配なことが一つあった。
アルトは同世代の女性を、特に華を持つ女性を疎んでいた。
リンダに見せる表情は優しいため女性が嫌いというわけではない。
このままではアルトは妻を娶ることが出来ず、団長になれない。
そんな不安を抱いていた時だった。
パトリシアという女性がドレイク傭兵団にやってきた。
以前からネピアで顔見知りでもあった聡明な女性は、どうやら既にアルトとも顔見知りだったらしい。
何より驚いたのは、アルトが彼女に対し嫌悪する様子が見られなかったことだ。
アルトのパトリシアに対する接し方は他と違う。特別な何かを感じている。それはきっと、本人もまだ自覚していない感情なんだと分かった時。
そう、この時。
モンドは大きな間違いを犯したのだ。
アルトに幸せになってほしいと思った。
自身のように不幸な恋で終わらせてほしくなかった。
団長になってほしかった。
けれどそれは考えてみれば。
ただの、モンドの願望でしかなかったのだ。
全ての事情を話し終えた時、モンドはアルトに殴られた。頬を思いきり殴られたのは、それこそ新米だった傭兵の頃以来だ。
「あんたのことは親父と思っている。けれど、こればかりは許せねえよ」
「わかっとる……」
己が始めた傲慢さが、パトリシアを傷つけた。
既に恋を自覚したらしいアルトは、既に背を超えてモンドを見下ろしていた。
「俺は親父じゃない。団長になりたいとも思っていない。無理に結婚するつもりだってない。パトリシアは……リンダじゃないんだよ」
「…………」
黙って扉から出て行ったアルトをモンドは黙って見送っていた。
痛む頬をそのままに団長室の椅子に座る。座りながら目を閉じた。
色々と間違えてきた。
自身のやってきたことに、何一つ過ちがあるなどと思ったことが無かった。
けれどそれが違うのだとパトリシアに言われた時。モンドは、パトリシアの背後に若い頃のリンダを見た。
『お断りします』
そう、求婚に対し断りを入れた時の表情とよく似ていた。
あの時からきっとモンドは間違えていたのだ。
「元気出して。団長さん」
目を閉じていた団長の頬に冷えた手拭いが置かれたことで、モンドは目を開けた。
視線の先にはリンダがいた。共に歳を取り、皺も増えたリンダだったが今でもモンドの感情を苦しめる女性の姿が。
「アルトに殴られたのね」
「…………」
背もたれから起き上がり、冷えた手拭いを受け取ってそのまま冷やした。リンダは傷薬の入った箱から炎症を抑える塗り薬を取り出していた。
傍に立ったリンダがモンドの頬に薬を塗っていくのを、モンドは黙って受け入れていた。こうして傷を手当てしてもらったのも何年前になるだろう。
「……お前が、儂の求婚を受けなかったのは……今回の事にも関係があるのか?」
「…………」
リンダは答えない。つまり、それが答えなのだ。
「そうか…………」
モンドには分からなかった。本当に分からなかったのだ。
上司に言われた通りに妻を娶れば団長になれると思った。
力で制する傭兵団の社会には、力で圧倒するしか方法が無いのだと思っていた。
自身のように結婚する機会を失いかねない団員達には、希望する女性を手配すればそれで幸せなのだとさえ思っていた。
無意識下にあった女性への軽視する態度を。
リンダは昔から知っていたのだ。
「……貴方が団長となれば良い方向に変えてくださると思っていました。団員達にとっては素晴らしい方でしたでしょう。けれど……」
リンダは黙る。
モンドが入る前から、男性社会である傭兵団の中で女性の扱いは酷かった。時には殴られたり無理強いをされかけることもあった。
けれどリンダには、その環境が家であった。家の中で抑え込まれた想いがあった。
出会ったモンドに期待を抱いてしまった。
けれど現実はそうではなかった。彼もまた、他の団員と同じなのだと。
「儂は知らぬところでお前を傷つけていたんだな。そりゃあ……振られて当然だ」
乾いた笑いを見せるモンドの表情は穏やかだった。
リンダは言葉にしないが、モンドの言う通りだった。
長く過ごしている間に、無意識にモンドはリンダを傷つけることがあった。
いくら愛を乞われても、告白を受けても。
傷ついていくことが見えているのであれば。
リンダは首を縦に振ることがずっと……できなかった。
「私にもパトリシアさんのような強さがあれば、きっと違っていたのかもしれませんね」
長年抱いていた想いを、先日のパトリシアは一瞬で解してしまったことにきっと彼女は気付いていない。誰よりも伝えたかった思いを長年抱いていたにも拘わらず動くことが出来なかったリンダは。
パトリシアの言葉に人知れず涙を流していた。
「私も愚かだったのです。貴方に気付いてもらいたくて、ずっと断り続けてきました。何故、どうしてと聞いてくれる日を待っていたんですよ」
「そうか…………儂は一度もアンタに振る理由を聞いてなかったな……」
そんなことにすら意識がいかなかったのか。
彼女にも理由がある、原因があるという考えにすら及ばず。
自分をもっと強くすればよい、地位を高めれば受け入れると思っていたのだ。
「随分と遠回りしたもんだ」
痛む頬を無視してモンドは笑った。
「なあ、リンダ……アンタの考えを、意見を聞かせてくれ。アンタの希望を出来る限り叶えたい。それが全部叶えられたなら……結婚してくれるか?」
数十年ぶりに伝えた告白に。
リンダは笑い皺を刻みながら。
「考えておきます」
とだけ、答えた。




