第四章(悪質行為)
仕事を始めて一週間が過ぎた。
朝からパトリシアは仕事場に着いて早々溜息を吐いた。
(今日も相変わらずね……)
パトリシアの机の下は見えないように汚されていた。これで3日連続の更新を記録した。相手もよく飽きないものだと思いながら、黙ってパトリシアはしゃがんで片付ける。
片付いたところで椅子に座れば、座った時に妙に変な感じがしたため立ち上がる。
よく見えていなかったが、どうやら濡れていたらしい。スカートが濡れてお尻が冷たい。
(趣向を変えてきている。進化したわ……)
妙に感動を覚えつつ、パトリシアはいつ汚れても良いように持ち歩きしていた厚手の手拭いを椅子に敷いて座り直した。
そうして何事も無いように仕事を始めた。
いわゆる嫌がらせを受け始めたのは、アルトに呼び出された日から始まった。
物を隠される、パトリシアの周囲が汚されるといったことが始まったため、パトリシアは物を常に持ち歩くようにし、汚れても良いように着替えや汚れ落とし、手拭いを常備することにした。お陰で手荷物が沢山だ。
それでもパトリシアは気にせず業務を行った。こういったことは感情的になればなるほど相手をエスカレートさせるのだと分かっていたからだ。
彼女達もあまりに酷いことは仕事に影響があるだろうからやらないだろうと思っている。小さな嫌がらせぐらいはどうとでもなるため、特にリンダや他の事務官にも報告はしなかった。
或いは、既に他の者も気付いているものの、見て見ぬふりをしているのかもしれない。
そうパトリシアが感じたのは、男性の事務官と目が合った時申し訳なさそうに視線を外したからだ。
(きっと今回が初めてではないのでしょう)
女性社会で時々発生するこうした嫌がらせの類は、少ないながら前世でも記憶がある。仕事場ではなく学業を学んでいた時に起きていた気がする。
今と同じように、不特定の人から悪質な行為をされた思い出があった。思い出したくもない記憶なのか、具体的な記憶は思い出していない。ただ、そういう事があったのだという事実だけは覚えている。
その教訓から前世のパトリシアは、悪意ある行動をする人間はその非道さを無自覚に行うのだと理解していた。うろつく虫が不快だから潰すというように、こちらがどれだけ傷ついているかなど考えもしない。それどころか相手が嫌がれば嫌がるほど喜ぶという加虐思考を持っていたりする。
うんざりする。が、相手にしない。
それが相手にとって一番の防衛手段なのだから。
そして、ここには誰一人としてパトリシアを助けてくれるような相手も、きっといないのだ。
休憩時間。
なるべく人目を避けて昼食を摂るためにパトリシアは沢山の荷物が入った鞄と共に外に出た。建物の外に出れば人目を避けられるため、パトリシアにとって都合が良かった。
「今日はここで良いかしら」
発見した場所は中庭と呼べる場所だった。恐らく庭園でも作る予定があったのだろうか。だが、生えているのは木々だけで花は一切無い。管理する人間がいないのかもしれない。パトリシアは深緑に包まれた空間の中で手拭いを下に敷いて座った。
朝の嫌がらせで濡れた尻はやっと冷たさが落ち着いた。出歩くには目立つため一日中座っていたせいか腰が痛い。
人目も無いことだしと、ブーツを脱ぎ敷物の上で伸ばす。
解放感があってリラックス出来た。
「体が鈍ってしまうわ……いつもならミシャと一緒に出歩いているものね」
時々仕事の手伝いでネピアの町をミシャと歩いていたことを思い出す。
「ヒースさんと湖に行くことも多かったし……」
思い出すヒースの顔。身長が高く見上げる形でいつも隣を歩いていた。
遺跡の事で毎日のように会っていた頃が懐かしい。時々町で昼食をご馳走してくれたり、気付かないぐらいさり気なくパトリシアをエスコートするヒースの事を思い出す。
先ほどまであった解放感が萎み寂しさが湧いてくる。
「…………」
パトリシアは黙って手に持っていたパンを食べ始めた。
ドレイク傭兵団に暫く行って欲しいとヒースに言われた時、パトリシアは初めて感情的に訴えた。
「いやです!」
何も考えず、ただ感情のままに叫んだ。
けれどヒースの表情は変わらなかった。
「ここに居れば間違いなく新領主に会うことになる。町の大きな収入源の一つになりかねない遺跡の公開や宝飾品の輸出が始まるんだ。必ず領主は確認しに来る。その時レイド傭兵団も必ず呼び出されるぞ」
「それ……は……」
パトリシアは言い返せなかった。
ヒースの言い分は正しい。更に言えば、前領主との確執があったレイド傭兵団について改めて調査が入る可能性もあった。
「顔を合わせたらバレるんだろう?」
「…………恐らくは……」
新領主となったレオ・ガーテベルテ。彼とパトリシアの面識は数度に渡る。時には舞踏会で共に踊ったことさえあった。
記憶を取り戻す前のパトリシアから見たレオの印象は、気難しい男性だと思った。頭の回転も良く、あまり感情を表に出さない人物。感情的だったパトリシアを侮蔑する印象もあって、以前のパトリシアは彼が好きでは無かった。きっと相手も同じだろう。
俯いていたパトリシアの手をヒースがそっと握る。
驚いて顔を上げたパトリシアをヒースは真っ直ぐに見つめていた。
「俺はアンタがうちから居なくなるのは嫌だ」
そんな風に言われ。
一瞬何を言われたか分からなかったパトリシアが理解をした時、いっきに顔が赤く染まった。
「一時凌ぎかもしれないが、時間稼ぎが出来る」
「…………はい」
パトリシアとて理解している。
今、逃げたままでは何も解決しない。
早いことパトリシア・セインレイムとしての区切りを付けなければ、今のように過去に翻弄され続けるのだと。
パトリシアとしては見切りをつけたセインレイムとしての生き方。けれども周囲は納得できるわけでもない。
「本当は分かっています。飛び出してきた時は、早く家から出たいと思い計画しましたが……確実に家と離れられたわけではありませんでした」
「…………」
握りしめられたままの手を離さないでほしくて、パトリシアも握りしめた。
「今回の件で自覚しましたわ。わたくしの生きてきた過去を終わらせるには、家を出るだけでは済まされないと」
修道院に入ったと噂を流し、社交の場に出さえしなければ何とかなると思っていた。恐らくそれで解決出来る可能性もあった。
けれど今は違う。パトリシアが傭兵団で働き出し、仕事の中で過去の知人と対面する機会が生まれてしまっただけ。
ドレイク傭兵団に匿って貰ったといって、次も同じような機会が出てこないとも限らない。
しかも相手はパトリシアが住む地の領主となった。滅多に遭遇する機会が無かったとしても可能性がゼロでは無いのなら、パトリシアのやる事は一つ。
「待っていてください」
触れている手を強く握りしめる。
「ちゃんと過去を全て終わらせて、必ずレイド傭兵団に戻ってきます」
パトリシアにとって今いる場所こそが。
自分の帰るところだ。
「…………ああ。待ってる」
パトリシアが握りしめていたヒースの手とは別の手がパトリシアの頬に触れる。
彼の指が、垂れていた髪を耳元に掛け直す。
「アンタは間違いなく、この傭兵団の大事な事務官だ……俺も早く帰ってこれるよう全力を尽くす」
「……ありがとうございます」
髪に触れていた指が、優しく頬を撫でる。
その触れる指が嫌だとさえ思わない。
それどころか。
(どうしてかしら)
ヒースが触れる度にいつも思う。
もっと触れていてもらいたいと。
触れられる箇所が暖かくて。
そんな風に思わずにいられない感情を何と呼ぶのか。
今のパトリシアには分からなかったけれど。
確かにそれは、存在した。
記憶を思い出しながら食事をし終えたところで、ぼんやりと足を伸ばしながら景色を眺めていた。
少し眠くなってきたな、というところで人の足音が聞こえ一気に覚醒する。
リラックスしていた体勢を慌てて戻したものの、まだブーツは脱いだままだった。
人前で素足を晒すのは恥ずかしいことだから、急いで履かなければと思ったが時既に遅く。
通りがかりだったらしいアルトが現れ、パトリシアと目が合い。
アルトの視線がパトリシアの足元に辿り着いた瞬間。
澄ました顔ばかりしていたアルトの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「悪いっ!」
パトリシアが何か言うよりも前に慌てたように逃げ出した。
「……………」
嵐のような出来事にパトリシアは何も発することが出来ないまま、その場に座り込んでいた。
美形だけど女性慣れしていないというシチュエーションが好きです