第六条(個人面談)
『どうして? どうしてクロード様はいらしていないの?』
『それが……急な用事が出来たとのことで』
『嘘よ!』
ふわふわとした世界の中でパトリシアは過去を見ていた。
その記憶は誕生会の日だった。
『パトリシア様? 婚約者のライグ様はいらっしゃらないですの?』
『急な御用ですって? あらそれは仕方ないですねぇ』
クスクス。クスクス。
招待した令嬢が扇子で口を隠しながらパトリシアを嘲笑う。
強く握った拳には爪が食い込んでいた。悔しくて虚しくて恥ずかしくて、とにかくパトリシアは誕生会を中断し、令嬢達には丁重に帰って頂いた。それが精一杯の矜恃だった。
『申し訳ございませんが……今日のところはおしまいで……皆様ご機嫌よう』
そう、震える声色で伝えるのが精一杯の、小さな矜恃だけがパトリシアを支えていた。
(そうだわ)
パトリシアは過去を思い出す。
その後、客がいなくなった会場でパトリシアは我慢が出来ずに叫んだ。癇癪のかぎりを尽くした。
『どうしてっ……! どうして!』
どうして誰も私を愛してくれないの!?
どうして誰も傍に居てくれないの!?
寂しい。
悲しい。
(違う……それは違うのよ)
パトリシアは夢のような記憶の中でかつてのパトリシアを否定した。
(誰かからの愛を乞うよりも前に、自分から愛したの?)
たとえ幼い頃から愛し方が分からなかったとしても。
傍に居た侍女や家庭教師、婚約者に対して自ら慕うように振る舞っていたのなら。
きっとこんな未来がなかったのかもしれない、なんて。
(それは、今のわたくしが……満たされているからこそ出てくる言葉)
貴族として、セインレイム家の息女として暮らしてきたパトリシアには分からなかった事が、今のパトリシアには分かる。
(わたくしは相手に求めているばかりで、相手を想う気持ちが無かったのかもしれない)
たとえあったとしても、表現があまりにも稚拙過ぎた。
だからこそそんな想いが爆発して振り乱した結果。
情けないことに池の中に落ちたのだ。
今のように。
「ア……パトリシア!」
随分と切羽詰まった声色で名を呼ばれていることにパトリシアはぼんやりと覚醒した頭で認識した。
体が重くて目蓋を開く事すら億劫だったが、何度も呼ばれるその名前に応えたくてどうにか瞳を開いた。
そこには見知った顔が迫る勢いで近くにあった。ヒースの顔。いつも飄々とした様子の彼からは想像もつかないほど真剣な眼差し。
この顔を、確かパトリシアは最近見た気がする。
(そうだ……ルドルフに襲われた時だわ)
あの時の鬼気迫るヒースを思い出した。パトリシアやミシャが危険に晒されている時に見せた顔。
「ヒースさ……ん?」
名を呼んだつもりの声は想像以上に喉が咽せた。緊張していた様子を見せていたヒースは安堵した後、パトリシアの体を支え上半身だけを抱え上げた。どうやら横たわっていたらしい。
「良かった……っ」
本当に心配していたらしい切なる声。よく見れば彼の身体は全身濡れて青ざめていた。
「わたくし……」
濡れているヒースを見て思い出す。そうだ、パトリシアはバランスを崩し湖の中に落ちてしまったのだった。
周囲を見てみれば、どうやら目指していた岩場の近くに横たわっていた。身体が重く感じたのは全身が濡れていることと、恐らく溺れていたためだろう。
「助けてくださったのですね」
「俺のせいだよ。とにかく目が覚めて良かった」
はあ、とヒースは溜め息を吐いた。彼にしては珍しく落ち込んでいた。
「少しばかり待っててくれ。船を浮かせたままだから取ってくる」
「はい……」
身体を最大限労りながら岩場にパトリシアを寄りかかるようにした後、ヒースは湖の中に戻って行った。急に傍に人が居なくなることに心細さはあったが、パトリシアは黙ってヒースの行動を見守っていた。
どうやらパトリシアが溺れた後、すぐにヒースが救い上げてくれたようだ。船に体を戻すにはバランスが悪いだろうことから、パトリシアを岩場まで泳ぎ運んでくれたに違いない。
少し流された場所に放置された船の紐を手に取りパトリシアの待つ岩場まで泳ぎだす。景色は先ほどよりも日が暮れてきている。どうやら気絶している時間は思ったより長かったらしい。
濡れた体が風にさらされると肌寒さで震える。両腕で体を抱きしめるようにして温める。
寒がっているパトリシアの様子に気付いたヒースは沖合いにあった岩に紐を硬く縛った後、船の中にあった布を取り出した。
「これで体を拭いててくれ」
「貴方は?」
パトリシア以上にヒースは水の中に長く居たのだ。見れば血が通っているのかと思うぐらい肌は青白く変色している。
「火を起こすから問題ない。少し待ってろ」
パトリシアに告げるとヒースは岩場から少し離れた場所に生える木に向かい歩き出し、腰元に付けていた短刀を抜いて枝葉を切り落とす。
手際よく焚火の準備をすると、船に置いていたらしい火付け石を取り出して直ぐに火をつける。はだざむく震えていたパトリシアは火の温もりに心から安堵した。が、傍にヒースが居ないことに気付き慌てて立ち上がった。
「貴方もはやく火の前に来て下さい」
今も尚上半身を脱いだままで濡れているヒースこそ暖まるべきだというのに、彼は動き回りパトリシアの世話をするばかりで自身を全く気にもしない。せめてこれだけでもと、パトリシアに渡していた布をヒースの肩から掛けた。
「ありがとうな。でも、あんたが使ってくれ。俺は大丈夫だから」
「いいえ、暖まらないというのならこちらを持っていて下さい。お願いします」
頑ななヒースに対し必死になって頼み込む。
「分かったよ、ありがとうな……あったまったら船で戻ろう。真っ暗になると町が何処か分からなくなるからな」
言われて向かい岸を見る。薄暗く夕暮れ時になっていた町には点々と灯りがつき始めていた。
「ミシャが心配するわね」
「大丈夫だよ。あいつも傭兵の端くれ。何かあったと分かればそれ相応の対応をするさ」
「そうならいいのだけれど」
「それより暖まるか。ほら」
岩場で足元が悪いため当たり前のようにヒースが手を差し出した。パトリシアは驚いたものの、素直にその手を掴んだ。冷たい手。ヒースを温めたいという気持ちで強くその手を握りしめる。
「本当に、ありがとうございました。それと申し訳ございません。足手纏いになってしまいました」
「いや、誘った俺にも責任がある。怖い思いをさせたな……ごめん」
「そんなことは……」
互いに謝っていても仕方がない。
それにパトリシアに至っては水の中に落ちるのは二度目だったりする。どちらにしても自身の不始末が招いている。改めて気をつけないといけない。
「実は二度目ですの。溺れるのは」
「なんだそりゃ」
荷物から煙草を取り出して口に咥えていたヒースが笑う。煙がパトリシアに届かないように座る場所をずらしていたヒースはパトリシアの方を向いた。焚火のお陰で先ほどよりも随分と顔色が良くなっている。
「十六歳の誕生日に家の池に落ちて溺れたことがあったわ」
「散々な誕生日だな……」
「そうね。でも、今となっては良かったと思っているの」
あの事件があったからこそ思い出した前世。
その記憶があるからこそ今のパトリシアがいる。
「…………ねえ、ヒースさん」
「んー?」
焚火の火を器用に使って煙草に火をつけている男にパトリシアは尋ねた。
「ヒースさんはレイド傭兵団にいらっしゃる前は何をしていらしたの?」
「何だよいきなり」
「だって、あまりにも手際が良すぎるのですもの」
焚火の用意や船の漕ぎ方から始まり、泳ぐことも潜ることも何一つ困難な様子を見せず、パトリシアが溺れようとも冷静な対応で救助するヒース。
更に言えばルドルフの時もそうだった。パトリシア以上に先を見越して行動し、素手で帯剣していた男達を軽々と倒してしまった彼の行動。
あまりにも軽々とやってのけるから、まるでそれが当たり前のように思えるけれどそうではない。
ヒースがあまりにも出来すぎるのだ。
「ヒースさん。折角ですしお話しましょう。わたくしの拙い話でよろしければお話し致します。その代わり、貴方のお話を聞かせて頂けて?」
パトリシアは知っていた。
ヒースがパトリシアの素性に関して訝しんでいることを。
ヒースとて、突如現れた貴族出の女性であるパトリシアの事が気になっていた。ただ依頼人となり、更にはミシャに対する信頼度合いや行動から決して害を為す人間では無いと理解しているから何一つ言わない。
けれど興味は湧く。
それもまた、パトリシアと同じように。
「……いいねぇ。服が乾くまでのおしゃべりとしようか」
ヒースは意地悪い顔をして笑った。
その笑顔に対しパトリシアもまた優雅に微笑んだ。
パチパチと二人を照らす炎だけが、二人の世界に音を奏ていた。
文章で誤った表現をしていた箇所があったので、随時修正させて頂きます…ご指摘ありがとうございます(涙)
そして感想、評価、ブクマも頂きありがとうございます!




