第五条(労災)
水が舵によって跳ねる音。ゆっくりと進む小船を迎える穏やかな風。
壮大な自然に囲まれた山間の中、ヒースとパトリシアを乗せた船は進んでいく。
「本当に綺麗ね……」
パトリシアは改めて眺める景色に感動した。かつて住んでいた屋敷からは想像も出来ない自然の要塞。
木々に飛び交う鳥の姿。水辺では時折魚が跳ねている。見たこともない虫が飛んできては驚いたり、可憐な蝶が飛んでいる様子は見ていて癒される。
全く疲れる様子を見せずにヒースは船を漕ぎ続ける。汗一つかく様子もないままパトリシアの独り言に頷いた。
「ネピアは本当に良いところだ。自然を見ていると人間という生き物が、いかに小さい生き物なのかって思わされる」
「同感だわ。この自然に人は敵わないもの」
どれほど天才的な芸術家がこの景色を絵に描いたとしても実物の景色には劣るだろうとパトリシアは思った。
上半身を裸のままに船を漕ぐヒースが向かいに座るため、気恥ずかしくて正面を向くことが出来ないパトリシアにとって自然の景色は有り難かった。ずっと視線を逸らしながら会話を続けられるのだから。
「この辺りに船が全くないけれど漁師は訪れないのかしら?」
「漁業の場所は湖畔の中でも決められているんだ。乱獲すれば絶滅したり数が減るからな。場所を調整しながら捕ってるんだよ」
「そうなのね……」
パトリシアはこの仕事を始めることをきっかけに新しいことを沢山学んだ。日頃食用としてしか触れることのない魚貝類の生態についてもだが、何よりネピア湖で働く人々の様子を知ることが出来た。
ネピア湖には多くないが漁師もいる。他にも養殖を湖で行う人の姿もある。そういった仕事を貴族であった頃のパトリシアは知ることがなかった。自身が食べる魚をどうやって捕まえているのかすら知らなかったのだから。
「さて。大分真ん中辺りに来たかな?」
暫く漕いでいたヒースの腕が止まる。相変わらず汗一つかかない男はその場で船に仕舞われていた道具を取り出した。箱に詰められたおもりと、その箱にきつく結ばれた長い紐。
「それをどうするの?」
「水深を軽く調べる道具だよ。そこまで深すぎない場所を探して底を潜ってみる」
「大丈夫なの?」
結構な紐の長さを見てパトリシアは不安になったものの、ヒースは苦笑する。
「泳ぐのは得意なんでね。心配しなさんな。さて、問題はその潜る場所だが……」
ヒースは改めて周囲を見渡す。湖の真ん中にいるため沖まで遠く、反対方向には高くそびえた山があるだけだ。
「なあ。あんたがもしこの辺りを治めていた首領だとしたら、この湖の何処に拠点を置くと思う?」
「何です? 急に」
「仮説を立てるんだ。こんなだだっ広い湖を当てもなく潜ったって何も見つかりゃしない。だとしたら過去ここに居たとされる人間になったつもりで考える方が、まだ当たりやすいだろう?」
「それもそうね」
パトリシアも周囲を見渡した。それにしたって広いネピア湖の中でどう探せば良いのか皆目見当もつかない。
そこでふと、パトリシアは先日図書館で書き写した書類の存在を思い出した。
「これを参考にしてみましょう」
鞄から四つ折りした紙を取り出しその場で開く。それはネピア湖の縮図だった。
「ここがさっき出発した岸辺だから、今は多分この辺りよ」
「なるほど。出発前に軽く図面で見ていたが、こいつは随分細かく書かれてるな……」
ヒースは図面を眺めると黙り込んだ。
ふと、パトリシアは黙り込むヒースを見つめた。真剣な眼差しはパトリシアの視線に全く気付く様子もなく何かを考えている。
下がった目尻にかかる長い前髪。少し癖のある髪が今は剥き出しになった首筋に掛かっていて。
パトリシアは慌てて視線を逸らした。
急に心臓が煩いぐらい跳ね上がったからだ。
「ああ。そうだな……」
何か考えついたようにヒースが口を開いた。
「俺がもし首領なら此処に物を隠す」
トン、と指で図面をなぞる。その場所をパトリシアも見て考える。
そこは岩場に囲まれた山間側の岸辺だった。山間の間に少しだけ突起した場所で他の地形と比べると目立つ形ではある。
「いざという時のための保管庫というところでしょうか?」
「そうだな。ただ、この仮説は拠点が山間の場合だ。陸で生活していたとしたら何も無いだろう」
「そうでしょうか?」
パトリシアは顔を上げて指した場所の方向を見た。図面と同様に岩場で出来た場所が遠目からも見えた。
「陸地を拠点としていたのならば今でも何かしらの遺跡が陸から出ているはずです。ですがモルドレイドさんは遺跡が湖の中でしか見つかっていないと仰っていました。あくまでも推測ですが、当時の部族は陸地でではなく山間で暮らしていたと思いますわ」
「何故だ?」
「他の部族が訪れた際に奇襲をかけやすいからです」
広いコーネリウス大陸には、水を確保できるような場所が少ない。そのため水源としてネピアが重宝されているのは今も変わらない。それが千年も前であれば尚更だろう。
「ネピア湖に水を汲みに来る旅人や休息をする部族が寄ってきたとした場合、山間から見張りがいれば夜に奇襲を掛けることも出来るでしょう。ここに住んでいたとする部族が襲撃される側になったとしても、山間の中に逃げ込めば敵に見つかる事もないです」
「なるほどね……だが、山でも特に遺跡は見つかっていないと聞くぞ?」
「それに関しては仮説なのですが……」
パトリシアは小さな書籍を取り出した。ネピアに纏わる歴史書だ。小さな文献のため持ち運びしやすいため、モルドレイドに頼み借りてきたものだった。
「ネピアの歴史について調べてみたのですが、百年に一度の頻度でこの山間は大きな土砂災害を起こしています。大雨により水を多く含んだ土が山崩れを起こしているそうで、それは時として地形を変えているのだそうです。つまり、山間に暮らしていた部族が居たとして、大きな土砂災害により住まいを土で流されたとしたら……」
「なるほど。遺跡は湖からしか見つからない」
「はい。あくまでもわたくしの予想ではありますが……」
「いや、良い考えだ。流石だな」
ヒースは笑ってパトリシアの頭を撫でた。これは、時々ミシャにもやっている動作であることを知っているパトリシアとしては顔を顰めるしかない。
「子供扱いしないでください!」
「俺からすれば十分子供だよ」
確かに。
歳がひと回りも違うヒースにとってみればパトリシアは子供でしかないだろう。
けれどもパトリシアは、どうしてか子供扱いしないで欲しかった。もう十六歳になったのだ。成人という年齢を迎え独り立ちして今この場にいるのだから。
「出来れば一緒に働く仲間として見てください」
だからこそ訴えた。
子供では無いのだと。
「……そうだな。あんたは傭兵団の事務官だ。子供扱いは失礼にあたるか。悪かった」
「いえ。むきになって申し訳ございません……」
気まずい雰囲気にしてしまったことにパトリシアは謝った。そんなに怒るつもりはなかったのだ。けれど、どうしてか言葉にしたかった。
少しでも対等でありたいと。
そう、思わずにいられなかったのだ。
「そんじゃあ。ちょっくらあの辺りで潜ってみるかな」
「大丈夫ですの?」
「だーから大丈夫だって」
先ほど話をした岩場付近まで船を動かした後、ヒースはおもりをその場に落とした。
掴んでいた紐は流れるままに湖水に落ちていく。大分進んでいたが、ある所でぴたりと止まった。
「……ん。何とか行ける範囲かな」
残りの紐の長さを確認すると、ヒースがゆっくりと立ち上がった。その動きに船が僅かに揺れたためパトリシアは慌てて船に掴まった。
「お嬢さんは暫く待っててくれ。大人しくしてろよ」
「ヒースさ……!」
言うや否や早々に湖の中に入るヒースを止める間も無く。
あっという間に湖の中に消えていった。
「……………………」
先刻まで心地良かった景色がいっきに不安な空間に変わった。一人湖の真ん中に取り残される不安、戻ってくるかという心配がパトリシアを襲う。
先ほど否定した子供という単語が頭に浮かび、パトリシアは慌てて首を横に振った。今の自身がまるで迷子になった子供のように思えたからだ。
時々水面からぷくりと水泡が現れるもののヒースが戻ってくる気配は無い。
一体どのくらい経ったのだろう。そこまで息が続くとも思えなくなってきたパトリシアの心配は増していくばかりだった。
かといって救うにもパトリシアには手立てがない。何よりパトリシアは泳げなかった。
「……早く」
思わず口に出していた。パトリシアの不安が逸らせる。早く、早く浮かんできてと。
水泡がいっきに現れる。
戻ってきたのだと思わず水面に顔を覗かせた。
「ヒースさん!」
気持ちが焦っていたのだ。
だからこそパトリシアは一つ失敗をした。
勢いよく船の横に移動した勢いに、船は少しばかり傾いたところで。
突如水面から現れた逞しい腕により、傾きかけた船が掴まれたため。
「あっ」
急な自身の傾きに体は追いつくことが出来ず。
水面から現れたヒースと入れ替わるようにして、パトリシアは水面の中にバシャンと大きな音を立て。
呆気なく湖の中に落ちたのだった。
読んで頂きありがとうございます!評価など頂けたら嬉しいです!
ヒース上着脱がなくてもいいんじゃない?と思ったそこの貴方。すみません。私の趣味でもあります。




