第六条(内部監査)
ネピア湖は女神の涙によって作られた。
そんな伝承が遥か昔から継がれている。
女神が降り立ったその地で涙を流すと、涙は大いに広がり今のネピア湖を作ったのだと言われている。
そして、年に一度女神に感謝を捧げる行事がある。それが水祭りだった。
水の恵みを感謝することにより、女神をお慰めしよう。女神がお慶びになれば涙を流さずにいられるのだからと、毎年楽しく過ごすことを主として水祭りは行われる。
日中から開かれる露店や小さな催し物。この日ばかりは皆が和気あいあいと過ごしている。
行事のメインとも言える行事が、女神に向けた祭事だった。
女神に対して司祭が祈りを捧げる行事には、必ず神職を持つ司祭と領主が湖の前に座り祭事を行っている。
ネピア領主であるウィンストン子爵はネピア地方以外にももう一つの領地を持った貴族である。
普段はもう一つの領地を中心に統括しているため、ネピアに関しては町役所や自身の秘書に仕事を一任しているため滅多に領地に訪れない。というのも、ネピアは比較的安定した土地なのだが、もう一つの領地に問題が多く、ネピアにまで手を掛ける余裕が無いのが実情だ。
それでも、水祭りとなれば出席することになる。
祭事の時間。
湖の前で司祭の祈りを聞く男性の姿を遠目からパトリシアは見ていた。
(あの人がネピアの領主……お会いしたことは無いわね)
爵位持ちなのであれば王都で開催される宴などに出席しているかもと思ったが顔を見る限りパトリシアには覚えが無かった。
暫く祭事の様子を遠くから眺めていたパトリシアだったが、それから少し離れた場所で護衛のために列席しているルドルフを見た。流石の彼も神聖な場では大人しく頭を下げて祭事に参加している。彼の付近には数人体格の良い男性が並んでいる。それが、ミシャの言っていたルドルフの知り合いによる護衛集団なのだろう。
大体の顔や状況を理解したパトリシアは祭事の場から離れ、レイド傭兵団の家屋に戻った。ルドルフが祭事に出席している今であれば何の心配もなく利用することが出来る。
「パトリシアさん!」
「ミシャ。準備は出来たの?」
「ばっちりです。必要な書類ってこれで全部ですか?」
祭事が始まるまでの間に数件の手伝いを終わらせてきたミシャは、自身の手伝いで受けた依頼の分も整理した上で、更にパトリシアがお願いしていた書類まで書き終えていた。
なんて仕事の出来る子なのだろう。パトリシアはミシャが愛しくてたまらなかった。
受け取った書類を確認してからパトリシアは微笑んだ。
「完璧。忙しいところでしょうに、ありがとう!」
「パトリシアさんのお願いだからね! それと、さっきルドルフさんが来ました。予想通りぼくに報酬を受け取って来いって」
「計画通りね」
去年の話を聞いた限り、領主は祭事を終えるとすぐにもう一つの領地に向かうらしい。出発する前に護衛の報酬金を受け取る時間が得られる。本来であればルドルフが受け取るべきであろうに、ルドルフは護衛の仕事が終わるやすぐに町に繰り出すという。この賑やかな町の誘惑に勝てないらしい。
「あと一刻もしたら祭事が終わると思うわ。支度だけして行きましょう」
「……本当にパトリシアさんも一緒に行くの?」
「もちろん。そのためにコレを用意したのですから」
ミシャにまとめ上げさせた書類を見せて、パトリシアは笑った。ミシャから見ても意地の悪い笑顔だと分かった。
「あら。そういえばヒースさんは?」
「ずっと見ていないんです。もしかしたら誰かに仕事でもお願いされてたかな」
「それは既に終わったと思うのだけれど……」
ヒースが今日受けた仕事の内容は朝方に全て終わるようなものばかりだった。朝、パトリシアが自身の家で支度をしている時に訪れたヒースに依頼書と報酬は受け取り済みだった。
その時に「またあとで」と別れを交わしていたのだが、未だ彼の姿は見られない。
「とりあえず急ぎましょうか。こちらが優先すべき事だわ」
「あっ、そうですね!」
ミシャは改まって背を伸ばし、二人揃って傭兵団を出て行った。
町は賑やかに彩られている。何処に行っても人が多い中、ミシャとパトリシアは離れないよう手を繋ぎながら目的地まで向かった。
祭事に使われる太鼓の音が響く。ミシャ曰く、祭事の終わりを告げる合図だという。
遠くから祭事を見守っていた人々がゾロゾロとその場を離れていく。どうやら終了したらしい。人の波に飲みこまれないようかいくぐりながら二人は催事場付近に建てられた天幕まで向かった。
天幕は大きく人が何十人も入るような大きさで、中から人の笑い声が聞こえてくる。天幕前にはルドルフの知り合いと思われる護衛が立っているため未だ近づけない。
中から響く笑い声だけで、相手が誰だかは分かった。ルドルフが入っている。
「今年も問題なく終わらせられたよ。ありがとう」
「いえいえ、また次もよろしくお願いします。報酬は傭兵団の子供が取りに来ます。去年も取りに来た者です」
「ああ、分かった。体に気を付けて過ごしてくれ」
「ウィンストン子爵も」
天幕から出てきたルドルフと子爵はその場で握手を交わす。
以前の横暴なルドルフしか知らないパトリシアとしてみれば、ルドルフの行動があまりにも分かりやすいと呆れてしまった。パトリシアの前世でもよくいた。確かヒラメ社員とか呼んでいたような。
天幕に領主が戻るまで見送っていたルドルフだったが姿が見えなくなると同時に天幕前で護衛していた男の肩を叩き、「飲みに行くぞ」と声を掛けた。
すると護衛していた男もヘラヘラと笑いながらその場を離れていく。
パトリシアとミシャは姿を隠しながら、二人の背中が見えなくなるまで様子を窺っていた。
「もう大丈夫そうですね」
「ええ。それじゃあ、行きましょうか」
隠れていた場所から姿を現すと、二人で身を整えながらゆっくり天幕に向かう。
「失礼致します」
「レイド傭兵団のミシャです!」
パトリシアが聞こえるように大きさを上げて声を掛ける。続いてミシャが名乗る。
暫くして中から物音がすると、天幕が開いた。領主の秘書らしき男性がパトリシアとミシャを見る。
「ルドルフさんの依頼で参りました、レイド傭兵団のミシャと言います」
「ああ、来たか」
天幕の中で帰宅の支度をしていたらしい領主が二人を見た。ふと、パトリシアを見て不思議そうな表情を浮かべる。
「こちらのお嬢さんは?」
「パトリシアと申します」
「新しい傭兵団の事務官かな。ご苦労様。早速報酬を……」
「恐れ入りますが」
報酬を部下から渡すよう指示を出していた領主をパトリシアが声で制した。
凛とした声が賑やかな天幕の中で響き、周囲が一瞬静まりかえった。
「少しのお時間で構いません。こちらの資料をご覧頂けませんでしょうか?」
パトリシアは肩に掛けていた鞄から分厚い書類の束を取り出すと領主に手渡した。
領主であるウィンストン子爵は怪訝な様子でパトリシアを一瞥しつつも、一応書類を手に取ってみた。軽く中身を開く。綺麗に整えられた資料だと思った。これほど整理されて見やすい資料は見たことが無い。
そして中に書いてある文字を読んで……硬直した。
「これ……は……! どういうことだ?」
信じられないと顔に書いてあるウィンストン子爵は慌ててパトリシアを見た。疑いたくもなる内容だった。
まさか、レイド傭兵団の不正行為に関する記述が載っている書類を、レイド傭兵団の者から受け取るなど。
パトリシアは黙り微笑んだまま、彼に続きを読むよう促した。
「そちらに書かれていることはほんの一部です。是非ともご覧頂きたい頁はこちら……そう、栞を挟んでいるところですわ」
「…………」
恐る恐る領主はパトリシアの言う通り栞が挟まっている箇所を開いた。開いて、絶句した。
そこには彼の遠縁であり信頼を寄せていたルドルフ傭兵団長に関する規律違反行為の数々や住民からの被害届、そして何よりも目を引くものが金銭の横領行為に関する陳述だった。
「こちらに記載している内容は町役所に報告されていない町民からの声が半数ですわ。特に住民の被害届につきましては直筆による被害者からの届出もお渡し出来ます。軽微な内容は次の頁に一覧で載せておりますが、特に被害が大きい物に関しては資料として載せさせて頂きました」
被害届の内容は様々だった。営業妨害、器物破損、婦女暴行まであった。あまりの内容に領主の顔色は悪くなる。
「金銭に関する被害はより詳しく確かめる必要がありますが、取り急ぎレイド傭兵団で行われた一年分の横領の資料はまとめてあります。一年前まで勤めていた事務官と共謀していたのですが、彼とトラブルがあった末辞めさせられておりますので正確な資料が必要でしたら、事務官の居場所を特定しないとなりません……」
「……誰か」
領主は声を掛けると秘書の男に耳打ちし、秘書はすぐに天幕から出て行った。
「……よく分かった。レイド傭兵団は実に危うい立ち位置にあったのだね。だが、本当にルドルフの事なのかという事実は彼に聞かなければならない。それは承知してくれるかな?」
「…………」
領主の言い回しから、彼がルドルフをまだ擁護しようとしている意向をこちらに伝えていることが分かった。たとえルドルフが加害者であり悪人であったとしても、領主にとっては血の絆で結ばれた相手なのだ。
内部の、それもただの子供と女性相手に屈するほど愚かでは無いのだということを伝えたいのかもしれない。
パトリシアは心の中で少しばかり領主に対し失望してから、最後に取っておいた切り札を取り出した。
「どうぞご自由に……ですが、私がとある方から推薦されてこの地にいるということを、どうぞお忘れないようお願い致しますね」
一枚の小さなメモ用紙を取り出し、パトリシアは見せつけるように領主の前にぶら下げた。
領主はその小さな紙切れを見て絶句した。
そこには、傭兵団の中でも名の知れたドレイク傭兵団副団長の名と血印が記されていたからだ。
「貴方は……ドレイク傭兵団から来たのか……?」
「ご想像にお任せいたします。さあ、どういたしましょう? 身内の恥を公表なさりたくないお気持ちは重々承知しております。ここは穏便に、ルドルフさんは除名頂き領主様と共にもう一つの領土に向かうことになった……ということで如何でしょう?」
「……………………」
領主は項垂れ、考え込み。
嫌な汗が額から流れ落ちたところで。
「……そうしよう……」
そう、小さな声で答えたのだった。