7
もう夕暮れも近いというのに、ラトメに着いたとたん、メルセナは照りつける日差しと熱気に目をつぶった。
「わっ、なにこれ!」
しかも砂が口の中にも靴の中にも入りこむ。ぺっぺと吐き出してフードを深くかぶると、ようやく周りの景色が見えてきた。
なるほど、本で見たときはいまいちピンときていなかったが、砂漠というのは確かに一面砂の海だ。なだらかな丘を作るように、見渡す限り金色の砂が日の光を浴びてじわじわと熱を発している。根っからのシェイル育ちであるメルセナには耐え切れない暑さだが、マントを取ったが最後、日差しに焼かれて炭になってしまいそうだ。
「こんなとこで人が生きていけるの…」
人間とはかくも力強い生き物だとうつむいたままつぶやくと、ストールを頭に巻いたラディがつんつんメルセナの肩をつついた。
「ラトメの民は神への信仰を芸術で表す信心深い人々ですよ。後ろを見てください。美しい塔でしょう?」
振り返ると、街の外壁の向こうに、突き抜けるように高い尖塔の先っぽが見えた。確かに細かい意匠が凝らされているようだが、この角度からでは砂塵でほとんど見えやしない。
「よく見えないわ」
「ラトメは確かに芸術に秀でた街だが、一方で非常に治安が悪い。セーナ、一人歩きはするな」
父は白い外壁を辿って入口の門の前に立つと、麗しい顔を曇らせた。
「門番がいない…」
確かに門は開け放たれたまま、誰も見張り番が立っていないようだ。門の柱は細かい彫りが入って見事だったが、隙間に砂が入りこんで薄汚れていたし、街中には路面にテントを張ったり絨毯を引いたりして外で生活している者も多いようだ。どんなに芸術に秀でていても、美しさを維持できるほど豊かな暮らしではなさそうだ。
「あんまり暑いから門番が逃げ出しちゃったのかしら?」
「まさか。…とは思うが、実際に門番がいない以上、どうしようもないな。そのまま入ってしまうか」
真面目な父には抵抗があるようだったが、メルセナたちは見張りのいない門をくぐった。中に入ると、外壁で日の光がさえぎられて、少しは暑さがましになった。日陰を作ろうという試みなのか、あちこちに坂や屋根を作って、入り組んだ小道が続いているようだ。
「あれはなに?」
あちこちの建物から、棒のようなものが突き出た奇怪な塔のようなものが生えている。
「採風塔だ。風を取り込んで換気するためのものだな」
父は迷いなく小道を進んでいく。道があちこちに枝分かれしていて、振り返ってももう門がどこにあったかわからない。門をくぐる前に見た外壁はどこまでも続いていたが、この大きな街からたったふたりの子供を見つけ出すのに、何かあてでもあるのだろうか。
「どうやってそのネルとデクレとかいう子供たちを探すつもり?あの手紙、人相書きもなかったけど」
そればかりか、身体的特徴はおろか、年ごろや性別すら書かれていなかった。まさか子供をつかまえてひとりずつ聞いて回るわけにもいくまい。あのギルビスらしくない情報の少なさだ。
「インテレディアから子供たちを連れ出したのが誰であれ、この街で起こる荒事はおおむねひとつの組織で管理されている。とりあえずその本部に行って情報がないか聞いてみるつもりだ」
「ああ、ラトメ神護隊ですね」
ラディ王子は合点がいったようで後を引き取った。
「何年ぶりですか?あなたが隊を脱退して以来、来ていないのでは?」
「脱退?」
メルセナはびっくりして父を見上げた。旅に出てからこっち、父の知らない側面がボロボロと現れている気がする。
「じゃあ、パパ、この街に住んでたの?」
「昔の話だ。セーナを迎えるより前、シェイルに招かれるまでは私もこの街に住んでいた」
とすると、かれこれ20年は経つということだ。この白皙の美青年が、こんな熱砂の街に暮らしていたとは意外だ。
「まだラトメが平和で、美しい街だった頃の話だ。当時神護隊に在籍していた者もほとんどは散り散りになって、暴動で命を落とした者も、足跡の分からない者も多い。滅びに向かっていくラトメに骨を埋める気にはどうしてもなれなかったんだ。この街には思い出が多すぎる」
この都市は、その昔、為政者が罪を犯して玉座を降りてから、柄の悪い連中が現れ、たびたび暴動の起こる危険な街になっていったらしい。父がこの街で過ごしたのはそれよりも以前の話なのだろう。きっとその頃は家を失くした人々が地べたで暮らしているということもなかったのだろう。今のラトメを眺める父の目は、どこか寂しげに見えた。
父はこの街に来たくはなかったのではないかと思ったが、言っても栓がないとメルセナは口をつぐんだ。代わりになんでもない風を装って明るく言った。
「じゃあ、これから行くのはパパの昔の職場ってことね!」
「そうだな。場所が変わっていなければいいんだが」
坂道をくだりながら、メルセナは隣を駆け抜けていった男を見送った。なにやら物々しい雰囲気だ。剣を佩いた麻のコートの男たちが、何かを探している様子であちこち走り回っている。
「なんでしょう?」
ラディ王子も気づいて声を上げた。三人で首を傾げあっていると、慌ただしい麻コートたちの奥から、上役らしい金髪の男が現れた。
「どうしたんだい?本部がずいぶん手薄になっていたけど」
ギルビス騎士団長やレイセリア村長とはまた別種の、呑気そうな雰囲気の中年の男だ。鮮やかな金髪に、優しげなみかん色の瞳が印象的だ。ひげの生えたあごをさすりながらやってくると、他の麻コートたちが一斉に背筋を伸ばした。
「レインさん!大変です!神都の高等祭司が…9番を連れて逃亡しました!」
メルセナは思わず声を上げようとしたが、すかさず父によって口をふさがれた。三人は手近な家の陰に隠れて麻コートたちの様子を伺った。
「レインさん」と呼ばれた金髪の男は、大して動じた様子もなくのほほんと言った。
「へえ。なんだって高等祭司がこんなとこに?」
「そ、それが…エルミ副隊長が引き入れたとかいう噂があって…」
「ふうん、あの9番を連れ出すなんて根性据わった祭司だねえ」
金髪の男は思案するようにしばらく宙を仰いでいた。向かい合う部下たちははやく逃亡者たちを探しに行きたいらしくそわそわしている。
やがて方針が固まったらしい男がさらりと言った。
「ザディシア、貴宿塔長へ連絡を。トーマは舞宿塔長へ。9番と高等祭司はラトメを出るのであれば追わなくていい。門番が高等祭司を引き入れた経緯を洗い出して報告するように。エルミには私から話を聞いておくよ」
「し、しかし、レインさん!高等祭司を逃がしたとなれば我ら神護隊の立場が…」
それ以上、その男が言葉を続けることはできなかった。金髪の男が背負っていた槍を片手で振って、部下の喉元に突きつけたからだ。
「我ら神護隊の役目とはなんだい?」
行動とは裏腹に爽やかで明るい口調だ。
「ザディシア。言ってごらんよ」
「…“神の子”を守り、“神の子”の信徒たるラトメの人民を守ること…です」
「その通り」
金髪の男は部下から槍の切っ先を外すと、元どおり背に戻した。命の危険から解放された部下は、腰が抜けたのかその場に尻餅をつく。
「このラトメが9番の脅威に晒されずに済むのなら願ったりじゃないか。要らぬプライドを守るくらいなら、今も家を失くしてひもじい生活をしている民をひとりでも救うために知恵をひねることだね」
追い払うように手を振られて、部下たちはバタバタとその場から立ち去っていった。去り際、ザディシアと呼ばれていた槍を突きつけられた部下が、「くそっ…平民贔屓の腰抜けめ…」と呟くのが聞こえてきた。なるほど、要らぬプライドは槍を向けられたくらいでは砕けないらしい。
金髪の男はひとつため息をつくと、まっすぐにこちらを向いた。
「盗み聞きなんて、趣味が悪いんじゃない?」
ヒィ、とか細い悲鳴が漏れた。よもやメルセナたちは槍でブッスリやられてしまうのではないかと震え上がったが、父はそんな娘の肩をぽんぽん叩くと、物陰から出て行って金髪の男に片手を挙げた。
「お前たちがいきなり不穏な話を始めるからだろ」
「いやあ、だってアイツら、プライドばっか高くてホント仕事できないからさあ」
「ぱ…パパ、友達?」
気安い様子で会話をはじめるので、メルセナは恐る恐る首だけ出して尋ねた。父は顔をしかめながら金髪の男の胸を軽く叩いた。
「ラトメ神護隊長のレインだ。裏表の激しいやつだが…まあ、悪党ではない」
だいぶ思うところを濁したような言い回しだ。レイン隊長はヘラヘラ笑って父の肩を叩いている。神護隊長ということは、父がこの街にいたときの知り合いなのだろう。
「へー、君がエルディの娘さんか。噂には聞いてたけどホントにエルディが父親やってるとはなあ」
部下に槍を向けるような恐ろしい姿はどこへやら、レイン隊長は気さくな様子でメルセナに手を取るとブンブン握手した。父が苦い顔で「うちの娘に気安く触れるな」と文句を言っているが、完全に聞かないフリをしている。
「それでなんだってラトメまで?こんな治安の悪いとこ、家族旅行には向かないだろうに」
「実は、極秘の任で人を探している。お前なら情報を持っているかと思って」
父が神護隊本部に向かっていたのは彼が目的だったらしい。父は声を落としてレイン隊長に問うた。
「インテレディアのネルとデクレという子供たちが、ラトメディアに連れて行かれたというんだが、何か心当たりはないか?巫子の候補だというから、その筋で動いている者がいるんじゃないかと思うんだが」
その名前を聞いた瞬間、レイン隊長はそれまでの浅薄な態度を引っ込めて、父を見た。急にガラリと雰囲気が変わったので、いきなり別人と入れ替わったのかとメルセナは驚いた。
レイン隊長は低い声で確認した。
「確かか?」
口調まで硬質で、明るさなどかけらもない、むしろ素っ気ないくらいだ。しかし、様変わりしたレイン隊長の態度にちっとも動じることなく、父はうなずいた。
レイン隊長は何かに気づいた様子で、メルセナの姿を上から下まで眺めた。温かみがあると思っていたみかん色の瞳は理知的な光をたたえて、メルセナはびくびくした。
そして、彼はなにやら合点がいったとばかりにニヤリと口端を上げて父に言った。
「そういうことか。お前の娘、赤い印を継承したんだろう?それで巫子候補の情報を頼りにここまで来たと」
「まあ仔細は異なるが、そんなところだ」
「じゃあ、さっさとここを去ったほうがいい。あの子供たちがここに来ているとは聞いていないが、仮にそうだとすれば、連れてきた奴には心当たりがある。エルミの奴が一枚噛んでてな、俺でもそうそう手が出せない」
「エルミが肩入れするってことは、不死族か?」
「だろうな。昔からチラチラ視界に入っていた奴だが、いつも変わらない、子供のなりをした神官服姿だ。アイツはどうも意図的に巫子を出現させようとしている節があって、9番が現れたのも奴のしわざじゃないかと思う」
巫子を意図的に?そんなことが可能なのだろうか。世界を滅ぼす9番を出現させた存在がいるのだとすれば、そいつが黒幕ということか。聞いてみたくなったが、この冷徹な雰囲気のレイン隊長に尋ねる勇気はなかった。
レイン隊長はチラリと夕日の照らす空を見上げた。
「もう礼拝の時間だ、ちゃんと説明する暇がないな…とりあえず、その子供たちのことは俺のほうで調べておく。夜にまた話そう。神宿塔の鍵を開けておく」
「ああ、悪いな」
「…やだなあ、私と君の仲じゃないか!じゃ、また後でね」
レイン隊長は元の軽薄な調子に戻って、ひらひら手を振ると立ち去っていった。メルセナはその背を見送りながら、うすら寒い気持ちで両腕をさすった。
「…な、なんなの、あのひと。すっごい怖かったんだけど」
「言っただろう、裏表が激しいと」
裏表が激しいというレベルではない、あれでは完全に二重人格だ。おそらくニコニコと温和な調子で喋っているのは、レイン隊長の演技なのだろう。
メルセナはくるりと振り返って、家の陰に引っ込んだままのラディ王子を恨めしげに睨んだ。
「それで、なんでラディ王子は出てこなかったの?」
「あの方は怖いひとですから、できれば見つかりたくないなと思ったもので」
悪びれもせずに言うので、メルセナは頭を抱えた。それを知っていたのなら、是非メルセナも共に隠れていたかったものだ!