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ギルビスが、このラディ王子に合流するよう指示したということは、彼には事情を話すに足る信頼があるということだろう。メルセナはそう解釈して、ここまでのできごとを彼に話した。メルセナが巫子になったくだりでは、さすがにラディ王子も目を丸くしてみせた。
「なるほど、巫子の力を継承して、身を隠すためにゼルシャに向かっていたのですね。確かにあなたであればゼルシャに受け入れられるかもしれません」
「ゼルシャの村ってどういうところなの?」
あたりはすっかり暗くなって、今日はこれ以上進めそうもない。父のポケットに突っ込まれていた魔物避けの香草を焚き火に投げ入れると、つんとした刺激臭が漂った。ラディは木の枝を拾うと、地面になにやら魔法陣のようなものを書きながら言った。
「枯れ森の中にあるエルフの隠れ里です。僕はその村に用があって、ここ数日このあたりをうろついていたのですが、あいにくエルフは自種族以外を嫌いますから。人避けの結界が張られているのか、村を見つけられずに困っていたんです。あなたがいれば村に行けるかもしれませんね」
「王子様がひとりで?お付きの人はいないの?」
ラディ王子の身なりは、数日森をうろついただけの人とは思えない。野営の準備もえらく手際がいいし、明らかに旅慣れているのを見ると、ここに来る前にもどこかを旅してきたのかもしれない。
魔法陣を描き終えたのか、ラディ王子は手にした木の枝を焚き火に放り入れた。
「旅にまで召使を連れて行くなというのが父の教えなんです。まあ、今の世では僕もシェイルを出てしまえば一般人と変わりありませんから」
「旧王家の王子様は一般人じゃないと思うけど…」
世界全体がひとつの大きな国になったことで、この世界で「陛下」の呼称を使ってよいのは、神都の世界王陛下ただひとりになった。かつてシェイルディアがひとつの国だったときの王族は旧王家と呼ばれて、シェイルディアを治めるいち領主に収まっているのだけれど、それでもシェイルの民にとって王様といえばシェイル旧王家の王殿下のことだ。メルセナだって、世界王陛下のことは名前も知らない。
本来なら靴紐ひとつ自分で結ぶ必要のない存在が、ひとりでフラフラ森をさまよっていいはずがないのだが、当の本人はさっさと鞄を枕にして地べたに横になるなどしている。
「保温の魔法をかけましたからそこまで冷えこまないと思います。早く休んで、夜が明けたらゼルシャに向かいましょう。エルディもちゃんと治癒しなければ」
メルセナも一部が破れたギルビスのマントにくるまって寝転がった。草もろくに生えていない土の上は固くてざらざらしていた。しかも慣れない魔物避けの香草の匂いが充満していて、手についた父の血が乾いてカピカピになっている。身体はひどく疲れていたが、心地よい眠りにはつけなさそうだ。
目を閉じて、今日のできごとを反芻してみる。父の弁当を持って騎士団の詰め所に行くところまでは、なんてことはない普通の日常だった。森に薬草を取りに入って、レナとかいう恐ろしい女と出会い、巫子の印を手に入れて、追っ手に追われて父が怪我をして、ラディ王子が助けてくれて。やはり世界は物語であふれている。いや、物語だとしたら詰め込みすぎね、メルセナは冷静に批評した。一日にこれだけたくさんのことが起きてしまったら、のちのちの展開が盛り上がりに欠けちゃうもの。
夢落ちは好みではないけれど、目が覚めたら自室のベッドの上で、いつも通りの朝を迎えられたらハッピーエンドだわ。淡い期待を寄せながら、メルセナはうとうと微睡みに身を委ねた。
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ばさりと布を振る音がして、メルセナはぱちりと目を開いた。火の消えた焚き火のあとの向こうに、ラディ王子の使い古したブーツが見えて、ああやっぱり夢じゃなかったんだとメルセナはがっかりした。
身体じゅうがミシミシ痛くて思い切り伸びをすると、節々がコキリと音を立てた。疲れていたのか、夢も見ずに深く眠っていたようだ。まだ白み始めたばかりの空を見上げて、メルセナはポツリとつぶやいた。
「…顔を洗いたいわ」
「先ほどあたりを見回ってみたら小川がありましたよ。水浴びとはいきませんが、手くらいは洗ってきたらどうですか?」
ラディ王子はいったいいつから起きていたのか、すでにしゃんと目覚めて、洗ってきたらしい濡れた布を振って乾かしている。父の手当てに使った布か、働かない頭でぼんやりと見ていて、はっとして父に這い寄った。
父はまだ眠ったままのようだ。しかし、彼の頬に赤みが戻ってきているのがわかる。耳をすませば小さな寝息が聞こえてきて、メルセナはほっとした。
ラディ王子は薄手の乾いた布をメルセナに差し出した。
「エルディのことは僕が見ておきますよ」
「…ありがとう、ラディ王子」
素直に布を受けとって、教えられた道順どおりに歩いていくと、確かに小川があった。冷え冷えとした綺麗な水でようやくドロドロに汚れた手と顔を洗って一息つくと、あたりの景色を眺める余裕が出てきた。
枯れ森にもこんな美しい沢があったのかとメルセナは驚いた。黒い幹で刺々しい葉っぱの木々ばかりが立ち並ぶ不気味な森だと思っていたが、岩からこぼれ落ちた水がきらきら朝日を反射して、青苔を照らしている。遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
くう、と腹が鳴った。どんな状況だってお腹はすくんだなあ、さすりながら感慨にふけっていると背後からがさりと草をかき分ける音がして、メルセナは飛び上がった。まさかまた追っ手かと振り返ると、相手も驚いた様子でこちらを見ている。
矢筒を背負って、肩に弓を引っかけたエルフの男だ。見た目は人間でいうところの20歳前後だろうか。メルセナと同じ淡い金髪に薄い緑の瞳をしているが、鼻は高くてあごもとがっている。頭に長い耳には大きな輪っかの飾りが、額には細かい銀細工のサークレットがかかっている。本で見たとおりのエルフの特徴だ。
彼はうろんげにメルセナを頭の先から足の先までぶしつけに眺めてきた。いかにも胡散臭そうな顔を隠さない男に、メルセナは彼とは仲良くなれなさそうだと直感した。
「何者だ?旅の者…ではなさそうだな」
町娘の服に、上等だが破れた丈の合わないマントをまとっている見慣れない女だから怪しんでいるのだろう。メルセナは自分に言い聞かせて不機嫌を押し隠した。
「アンタ、ゼルシャの村の人?」
「いかにも」
エルフの男は尊大に頷いた。一挙一動が鼻につく男だ。
「私、ゼルシャの村を探していたの。パパが怪我をしていて…おねがい、村に連れていってくれない?」
「なに、ご尊父が?」
エルフは同じ種族は大切にするが、他種族には排他的だと聞く。メルセナは、自分の父は不死族だということを都合よく黙っておくことにした。
案の定、エルフの男は即座に頷いてくれた。
「同族の窮地を救えなくてはエルフの名折れ。よかろう、そのご尊父は今どこに?」
「すぐそこにいるわ!」
単純なやつで助かったわ!メルセナは内心でほくそ笑んで、男をラディ王子の元へ連れて行った。
「ラディ王子!ゼルシャの村のひとを連れてきたわ。村に案内してくれるって!」
「おや、本当ですか?」
ちょうど父の包帯を替えていたラディが顔を上げた。エルフの男は苦虫を噛み潰したような顔をして怒鳴った。
「娘、私をたばかったな!」
「なんにも嘘は言ってないわよ、私」
メルセナは父にシャツを着せるのを手伝いながら鼻を鳴らした。
「ゼルシャの村に行きたかったのも本当だし、パパが怪我をしてるのも本当よ」
「だが、そいつは人間ではないか!」
「人間じゃなくて不死族よ!」
「駄目だ駄目だ!我が村に他種族を入れるわけにはいかない。森が穢れる、即座に立ち去れ!」
あまりに失礼な言い方に、メルセナの我慢していた堪忍袋の尾が音を立ててぶち切れた。
「は?他種族だからって怪我人をほっとくなんて、エルフってやつはずいぶん狭量なのね。不死族でもエルフでも受け入れてくれる人間のほうがよっぽど人格ができてるわ」
「なんだと!」
「このひとは捨てられてた赤ん坊の私を縁もゆかりもないのに拾ってここまで育ててくれた人格者よ!どういうわけか知らないけど子どもを寒空の下に捨てていくエルフなんかにこき下ろされていいひとじゃないの。わかったら私たちをはやくゼルシャの村に案内しなさい!」
早口でまくし立ててどんと地面を踏み鳴らすと、勢いに気圧されたのか男はたじろいだ。あと二言三言は言わせてもらいたい、さらに口を開いたところで、ラディ王子にストップをかけられた。
「メルセナ、それ以上は良いでしょう。僕たちはいさかいを起こしにきたわけではないのですから」
エルフの男は前に進み出たラディ王子を睨んだが、まったく意に介した様子もなくラディ王子は優雅に一礼した。お辞儀ひとつでここまで洗練されているのだから、やはり王族は受けてきた教育が違うのだろうとメルセナは感心した。
「ゼルシャの村の長に連なる方とお見受けします。僕はラディ。シェイル旧王リズセムからゼルシャの長レイセリア様に親書をお持ちし参上いたしました」
どうやらラディ王子はゼルシャの村長に用があるらしい。王子の丁寧な物腰に、調子を取り戻してしまったエルフの男は鼻を鳴らした。
「いかにも私がゼルシャの長レイセリアが息子、エリーニャだ。だが、シェイルの王が我が森に何用だ。エルフの森とは不可侵条約を結んでいるはず」
「ここ十数年の間、この森で起きた一連の出来事についてお伺いしたき儀があり、こうして訪問した次第です。あなたにもお心当たりはあるのでは?」
メルセナにはなんの話かさっぱりだったが、エリーニャのほうは思い当たることがあるのか、顔をしかめて視線を逸らした。なにも答えないエルフに、ラディ王子はメルセナの肩に手を置いて続けた。
「もし僕の立ち入りが難しいとしても、せめてこの二人はお助けいただけませんか?このメルセナは見ての通りのエルフで、不死族に拾われ人間の街で生きてきましたが、同族として彼女と、彼女を守って傷ついた父のエルディの力になるのはエルフの誓いに則る行為なのでは?」
エリーシャはしばらく考えこんでいたが、やがてこちらに背を向けると、渋々と言わんばかりの口調で答えた。
「……ついてこい」
ラディ王子がメルセナに向けてほらねとほほえんだ。何食わぬ様子でもう一度頭を下げると、「お心に感謝いたします」と礼など言っている。
眠ったままの父はラディ王子が負ぶって、エリーニャについて歩きながら、メルセナはこっそりラディ王子に尋ねた。
「ねえ、なんであのひとが村長の息子だってわかったの?えらそうだから?」
「えらそう」のくだりで前をいくエリーニャの耳がぴくりと動いた気がするが、特になにも言われなかった。ラディ王子はくすりと笑った。
「エルフたちはアクセサリーの質で階級を表すんですよ。上等な額飾りをつけていますが、村長だとしたら金の飾りをつけるでしょうから、村長のご家族が妥当かと思いまして」
「へーっ、いいなあ、私もアクセサリーくらいつけてみたいわ。パパったら化粧だってまだ早いっていうのよ」
「娘が綺麗になって、いらない虫がついてしまわないか心配なのですよ」
虫といったって、見た目に釣り合う相手は幼すぎるし、逆に実年齢で釣り合いをとろうとしても、メルセナのようなちんちくりんは相手にされないだろう。そりゃあギルビスには憧れているが、彼がメルセナのことをよくて妹、下手をすると娘のようにしか思っていないのはさすがに理解している。
まあ、いつか私が大人の魅力を身につけたら本気を出してやるけどね!ぐっと拳を握りしめて決意を固めていると、前方のエリーニャがそっけなく言った。
「着いたぞ」
エリーニャの向こうには、丸太を組んで作られた門が森に溶け込むように鎮座していた。近くでよく見ると、ゆうべラディ王子が野営するのに描いていたような細かい文様のようなものが丸太に彫り込まれている。どうやらこれが人避けの魔法陣というものらしい。
門を警備していたエルフが、警戒するように弓矢に手をかけたが、エリーニャが片手をあげて制した。
「シェイル王家からの客人だ。同族を救った怪我人がいるため迎え入れるべきと判断した。宿の用意を」
彼が村長の息子というのは確からしく、警備のエルフはエリーニャにヘコヘコしながら村の中へ走っていった。権力に屈するなんてエルフも案外俗っぽいのね、本で読んだ同族のイメージがガラガラ崩れていく。
エリーニャはくるりとこちらを振り返った。
「村に来た者はまず村長に目通りするならわしだ。その間にそこな男を休ませる場所を用意する。いいな、不審な真似をすれば容赦はしない」
「なによ…」
「ええ、もちろんです」
反射的に食ってかかろうとしたメルセナの言葉をさえぎるように、にこやかにラディ王子が返した。ここは黙っておくのが利口かもしれない。いつでも感謝と親切を、メルセナは父の口癖を呪文のように唱えて心を落ち着かせた。
ゼルシャの村の中には何本もの大樹が生え、驚くべきことに樹の上にも家がある。自然を愛するエルフらしくすべて木造だ。ガラス窓という概念もないのか、ところどころに木でできた窓扉を開け放っているが、他種族が来たと見るやいなやバタバタと閉まっていく。
連れて行かれたのは、村のいちばん奥にあるひときわ大きな屋敷だった。何本もの木々をそのまま柱の代わりにしているらしく、中に入ると土の床にそのまま樹の根っこが生えており、それを囲うように螺旋階段が続いていた。蔦を編んだ絨毯が引かれ、天井や壁にはホオズキでできたランプや、木の実の殻を皿にした燭台がかかっている。まるで童話のような世界だ。
エリーニャはある一室の扉を叩いた。
「村長、シェイルからの客人を連れて参った。通してもよろしいか」
少しの沈黙のあと、中から涼やかな「お通しなさい」という返事が返ってくる。エリーニャはもう一度メルセナたちを睨んで「いいな、決して粗相をするなよ」と念押しして、村長の部屋の扉を開いた。