35
※残酷な表現あり
痛みすらも遠く、ただまどろむような世界の中、かすかな呼吸だけを残しながら、ゼルシャの村長レイセリアは降りかかる雨に身を打たれていた。もう指の一本ですら動かず、もともと悪くなっていた視力は薄らぼんやりとしたかすかな影しか映さない。死が、ゆっくりと手招いているのを感じていた。
こんな時でも、浮かぶのはただ後悔ばかりだ。
どうしてもっと、考えが至らなかったのだろう。皆の声に耳を傾けなかったのだろう。見ないふりをしてしまったのだろう。声を上げなかったのだろう。
自分の臆病さが、甘えが、この村の不幸を招いたのだ。いいや、本当はなんとなく分かっていた。不幸は招かれたのではなく、起きるべくして起きたのだと。
それでもいちばんの後悔は、あんなに可愛かった小さな拾い子の手を離してしまったこと、そればかり。
こんな弱音ばかり吐いていれば魂もさまよってしまうだろうに、レイセリアはとめどなく自身への呪詛を吐き続けた。神の御許に還れなくとも、それは当然の罰だとすら思った。
そんな時だ。見えない視界の中で、ふと見覚えのある金色がきらめいた。この数十年、焦がれてやまなかったその色は、あの可愛らしい娘を形作って、不思議なほど鮮明に目の前に現れた。
彼女は何も言わず、そっとレイセリアのそばにしゃがみこんで、それからちょっと困ったみたいな顔をして笑った。
──ラゼ。ああ、わたくしが愛してあげられなかった、可愛い子!
口が動けば今こそ詫びることができたのに、もう呼吸さえままならない。そこにいるのに、やっと逢えたのに、おかえりの一言すら言えない。
光に包まれたラゼは、原型もとどめていないだろうレイセリアを労わるように、そっと抱きしめた。
これが幻想でも、死に際の妄想でも構わなかった。
レイセリアはただただ幸福に抱かれて、もう醒めることはない夢の中へと落ちていった。
◆
リズセム王の魔法によって火事を消し止め、シェイル騎士たちが巫子狩りたちを捕縛し、村人たちの保護をするあいだ、メルセナは焼け残った壁の残骸に腰かけて何をするでもなく騎士たちの活躍を眺めていた。
「やあ、エルフ嬢」
「…王様」
彼は勝手にメルセナの隣に腰を下ろすと、いつも通りの口調でペラペラと喋った。
「僕も手伝うと言ったんだが、騎士たちときたら融通が利かなくてね。追い出されてしまったよ。ラディの奴は参加しているのに不公平なものだね」
「王様たちは、なんでここに?」
尋ねたところで、空から大鷲が飛んできてリズセム王の腕にとまった。旅の中で何度か見た、騎士たちの連絡用に使われている魔法の鳥だ。
「ラディから救援要請が来たのさ。だが、人力でここまで来ようと思うと半日はかかってしまうから、ナシャに転移魔法を使ってもらった。人除けの魔法は無効化されていたとはいえ、この大人数を運ぶのは並大抵の労力ではなかったはずだからね、帰ったら十二分にねぎらわなくては」
リズセム王とギルビスをはじめ、やってきた騎士たちは一個小隊くらいの人数がいる。メルセナは魔法には詳しくないが、ナシャ王妃がとんでもない魔法の使い手だということはなんとなく分かった。
どうやら父やダラーは来ていないようだ。あたりを見回していると、リズセム王はさまよう視線に気づいたのか「ガキンチョは城で留守番だ。アイツときたらまるで冷静じゃなかったからね」と肩をすくめた。
「君もここの住民たちとともに避難したらどうだい?村が復興するまで、城に招き入れるつもりだ。エルフの子供たちが君のことを心配していたよ」
「…いいえ、私、ここにいる」
メルセナは首を横に振ると、リズセム王は大鷲を撫でながらため息をついた。
「君、ひょっとして責任を感じているのかい?ならそれはお門違いというものだよ。巫子狩りやあのレナとかいう魔女が村を襲ったことは、君が予期したことではないだろう?」
「…」
違う、そうじゃないと言いたかったが、ではどういうことか説明できる自信がなくて、メルセナは口をつぐんだ。いつもは考えるより先に声が出てくるのに、なんだか頭の中で言葉の奔流がすっかりせきとめられてしまったかのようだ。
すると、広場のほうから悲痛な叫びが聞こえてきて、メルセナは立ち上がった。リズセム王の制止も聞こえずに走り寄ると、布がかかったひとりの遺体に、エリーニャが縋りついて泣いていた。
「母上!目を開けてください、母上!!」
メルセナはその場に立ち尽くした。彼らとのあいだにはまだいくらか距離があったが、足がずんと重くなって、これ以上近寄れなかった。
布の隙間から、蔦をかたどったレイセリア村長の頭飾りが見えた途端、目の前がふさがれて真っ黒になった。
「セーナ」
いつの間に隣にいたのか、ヒーラがメルセナの頰に触れて、レイセリア村長から顔を背けさせた。彼はメルセナの両手を握ると、目の前にひざまずいた。
「セーナ、見なくていいよ。君のパパが城で待ってる。帰ってゆっくり休もう」
「…」
「ひょっとして、あの村長の息子に言われたことを気にしてる?」
ぴくりと指が動いたのをどう思ったのか、ヒーラはお砂糖菓子みたいな蜂蜜色の瞳をゆらめかせてなおも言った。
「セーナは気に病むことないよ。ぼくたちがたどり着いたときにはもう手遅れだった。セーナが中に入ったら、余計に危険な目に遭ってたよ」
反応を返さないメルセナに、ヒーラは握った両手に力を込めた。
「それでも納得がいかないなら、ぼくのせいにすればいい。村長を助けに行こうとしたセーナを止めたのはぼくなんだから」
メルセナはそれこそ納得がいかなくて首を横に振った。違う、違う。自分を責めたいわけでも、ヒーラのせいにして楽になりたいわけでもない。
だけどきっと、たとえばそう、家の中に取り残されていたのが父やヒーラ、あるいはネルやルナセオだったら、きっとメルセナは迷わなかっただろう。誰が制止したとしても、どんなに手遅れだったとしても、後先考えずに火の中に飛び込んでいったはずだ。
それができなかったのは、レイセリア村長は、自分にとってそれほどの「大事な人」ではなかったから…そこまで考えてしまって、メルセナは自分の考えにひどく打ちのめされた。だとしたら、それはやはり、メルセナが村長を見殺しにしてしまったということではないだろうか。
◆
それから、メルセナはずっと頭がふわふわしていた。
行きと同じように、ヒーラと同じ馬に揺られてクレイスフィーに帰って、城の前で待っていた父に抱きしめられたことは、うっすらと記憶に残っていた。何をするにも億劫で、あてがわれた部屋の中でベッドに腰掛けながら、日がな一日ぼんやりする日々が続いた。
入れ替わり立ち替わり、誰かが覗きにきた、気がする。ふと気がつくと父が手を握っていたり、トレイズやラディ王子、ギルビスをはじめとする騎士団の面々が声をかけてくれた。時には受付やメイドのお嬢さんたちに、城に滞在しているのであろうゼルシャのエルフたちがやってきたし、エリーニャにもなにやら謝罪されたかもしれない。ダラーまで現れて肩を軽くゆすられ、父と喧嘩になっていたように思う。遠くから、何度かリズセム王も声をかけないままに顔を覗かせていた。
だが、どれもこれも分厚いカーテンを隔てたみたいにあいまいで、なにひとつ心に響くこともなかった。ただ過ぎゆくだけの時間にたゆたって、まどろむような日々を送っていた。
そんなある日、ふと誰かが部屋にやってきた。今日も父はすぐそばにいたが、その人物はしばらく父と押し問答したあとで、父を部屋から追い出すと、ベッドに腰かけたままのメルセナの隣に腰を下ろした。
「セーナ、お隣を失礼しますね」
彼女はやさしくささやいて、メルセナとそう大きさの変わらない手で、メルセナの手を握った。ハンドケアなんてしたこともないメルセナと違って、彼女の手は指先まですべすべだった。
「しばらく伏せっていたので、遅くなってしまって申し訳ありません。こうしてまた、無事にお会いできてよかったです」
彼女は朗らかにそう言って、はたともう片手に持っていたいい香りのする小さな花束をメルセナの手に握らせた。
「こちらは温室から摘んできました。セーナと一緒にお茶会をした、あの温室です。あそこは年中お花が咲いているので、ぜひまた遊びにいらしてくださいね」
彼女はリズムを取るように、メルセナの背中をやわらかく叩いた。メルセナのかすかな鼓動を探るかのような優しい手つきで、不思議と彼女の声はメルセナの中によく響いた。
「本当はお菓子でもお持ちしようかと思ったのですが、あまり食事も取れていないと聞きました。あたたかいココアを厨房に頼んでおいたので、あとで一緒に飲みましょう」
その口調には一切の同情も気後れもなく、ただひたすらに普段通りの気遣いだけが感じられた。だからメルセナも、素直にうなずくことができた。
彼女は咲き誇る花のように顔をほころばせて、ようやく本題に入った。
「聞きましたよ、本当に大変なことが起きてしまったと」
ゆっくりと顔を上げると、彼女の宝石のようにうつくしい瑠璃色の瞳が、きらりとひとつまたたいた。
「わたくしはその場におりませんでしたから、知ったような口を聞くことはできませんが。あなたの顔を見るに、とてもつらい旅だったのですね。楽しい冒険になるよう祈っていたのですが、ままならないものですね」
そう言う彼女は、今日は修道女のような黒いワンピースを着ていた。いつも手の込んだドレスに身を包んでいるから、飾り気のない姿の彼女はいつもよりもひとまわり小柄に見えた。
「巫子の旅路が、おとぎ話のように優しければよかったのですが。何度も何度も選択を迫られて、そのたびに身も引き裂かれそうな思いをして。ずっと空気のない水の中を泳ぎ続けるような冒険が、きっとこれからも続いていくのでしょうね」
ひどく残酷なことを言われているのに、彼女の口調も、背中を叩きつづけるその手つきも、たまらないほどに優しかった。
「でもね、セーナ。決して忘れてはいけませんよ。あなたの選んだその先になにが待っていたとしても、それはあなたの、あなた方のせいではないのだと」
かわるがわる、誰かがメルセナに、君のせいじゃないと言ってきたが、彼女の言葉は彼らとはまったく違って、メルセナを慮るためではなく、ただ事実を伝えるかのように淡々としていた。
「あなたをなぐさめたくて、こんなことを言うのではありませんよ。あなたではなく襲ってきた巫子狩りたちが悪いのだと、そう言うつもりもありません」
彼女は桜色の形のよいくちびるで弧を描いた。
「起きた出来事を咀嚼するために、理由と責任を探してしまうのは、なんらおかしなことはない当たり前の心のはたらきです。ですがセーナ、人にはそれぞれの正義と倫理があって、その数だけ違った正解が存在します。
あなたのせいだと言う人も、ほかの誰かのせいだと言う人も、誰かにとっての正解を言い当てていながら、ほかの誰かにとっては間違いなのです。そういうものですから、『誰のせい』なんて、決めなくたって構わないとは思いませんか?」
彼女は…ナシャ王妃は難解な話をしていたが、それはじんわりとメルセナの胸に沁み渡っていった。なんにでも理屈をつけたがってしまうメルセナにとって、それは新しい価値観だった。
ゆっくりと世界が色づいていって、手にした花の香りがつんと鼻を刺激した。ナシャ王妃は穏やかに続けた。
「誰のせいにしなくてもよいのなら、あなたは自分のことも、ほかの誰のことも、恨む必要はありません。だからあなたが今回、なにを思ってどんな選択をしたのだとしても、その結果起こったことはただのめぐり合わせであって、そこに責任の所在を探さなくてもよいのですよ」
せっかく鮮やかになった視界は、すぐにぼやけてしまった。言葉にならなかった声は嗚咽となって、気づけばメルセナはナシャ王妃にすがりついて、生まれ出たばかりの赤ん坊のように泣き叫んでいた。
ナシャ王妃はメルセナの背を撫でさすりながら、底抜けにあたたかい声で言った。
「それでも苦しくなったときは、わたくしのところにいらっしゃい。どんなことがあっても、わたくしはいつでも、セーナの味方ですからね」
◆
メルセナが泣き疲れて眠るまで、ナシャはずっと孫娘の隣にいた。彼女の嗚咽がやがてしゃくりあげる声となり、小さな寝息に変わったところで、ナシャはメルセナにあたたかい布団をかけてやって、音を立てないように部屋をあとにした。
扉の前で待ち構えていた男たちのうち、下の息子が駆け寄ってきた。
「王妃殿下…」
「ようやく眠ったところですから、しばらく寝かせてあげましょう。セーナとココアを飲む約束をしたので、起きたら一緒に淹れてさしあげましょうね」
この息子はすっかり憔悴してしまって、まるでしなびた大根のようだ。ナシャは見上げるほど背の高くなった息子のしわくちゃになったシャツを引っ張ってやった。
「エルディ、あなたも少しはお休みなさい。いつも言っているでしょう。もっと周りを頼ってよいのですよ。この母がいつでも助けになりますからね」
「そんな、王妃殿下のお手を煩わせるわけには…」
彼は責任感ばかりが強くていけない。ごちゃごちゃ言っている息子の言葉は無視して、今度は部屋の扉の前でずっと膝を抱えて座り込んだままの金髪の騎士の肩を叩いた。
「ヒーラ、あなたもですよ。セーナをお守りするのだと張り切っていたでしょう?セーナが元気になったあとであなたが倒れてしまっては、満足に任を果たせませんよ」
「ですけど王妃殿下」
ヒーラは甘い蜂蜜色の瞳をうるませた。
「ぼくのせいでセーナが落ち込んでしまって…ぼくが余計なこと言ったから…」
「あなたが本当にセーナに許してほしいと思うなら、ちゃんと元気な姿をお見せなさい。そんな隈を飼ったお顔で謝られては、セーナも気を遣って許すしかなくなってしまいますからね」
さあさあと男たちを追い立てて、ようやく廊下の前も静かになった、最後に残ったのは、言わずもがなナシャの夫だ。
「悪かったね、病み上がりのところを頼ってしまって」
「まあ、リズ。どうか謝らないでくださいな。わたくし、あの子の祖母として当然のことをしたまでです」
確かに一個小隊をエルフの集落へ送り込むのは堪えたが、だからといってメルセナの一大事に黙って寝込んでいるわけにはいかない。彼女は自身の孫娘であるだけではなく、この城にとって愛すべき長耳のお嬢さんなのだから。
「それに、あなたが王である限り、わたくしはこの都市に住まうすべての者の母です。皆が安心して過ごせるように、わたくしはいつでも力を尽くす準備ができています」
「さすが僕の妃は頼もしい」
肩をすくめるリズセムに、ナシャは腕を絡めてほほえんだ。この都市を理想郷をうたう飄々とした王が、どれだけ孤独で、何かが起こるたびに身を切られるような痛みを抱えていることを、自分だけは知っている。
「ええ。わたくしは、シェイルディアの繁栄を築いた偉大な王の妻ですもの」




