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ギルビスは机のなかから手のひら大の木製の板を取り出すとネルに差し出した。青い紐がくくりつけられたそれがどうやら神都に入るための旅券というやつらしい。ネルの誕生日やら出身地やらが簡素に掘られている。
「ファナティライストに入るにはこれが必要になる。なくさないように気をつけるんだよ」
「へえ。ギルビス、私のぶんは?」
「セーナが神都に向かうときに渡すよ」
旅券の発行にはひと月もふた月もかかると聞いたことがあるが、騎士団長の権力があればすぐに発行できるものなのだろうか。
ネルが旅支度をしに詰め所を出て行ったところで、メルセナは勢いこんでギルビスに身を乗り出した。背後の父が「セーナ、机に乗るのはやめなさいと苦言を呈してくるが、それどころではない。
「ねえ、つまりどういうこと?セオが神都に行ったのは王様の策略ってこと?」
「さあ。殿下のお心を推しはかるのは難しいからね」
ギルビスはさらりとかわした。
「ただ、ルナセオがこの城を出て行くのに、あの方が気がつかないわけがない。まして城門には見張りがいたはずだ。巫子の件は伏せられているとはいえ、王が迎えた客人を、彼らが黙って通すとは思えない。殿下の息がかかっていると考えて良いだろう」
「それって、セオは王様のはからいで神都に不法侵入しに行っちゃったってことよね?セオだって旅券は持ってないでしょ?」
「不敬だぞ、メルセナ」
ダラーが顔をしかめた。
「殿下は無意味に策を弄することなどない。仮に王殿下の采配であったとして、それはあの少年になにがしかの問題があったということだ」
出た、王族賛美!メルセナはダラーをにらみつけた。
「そりゃ、セオはちょっと危なっかしいところがあるけど!昨日の午後に巫子狩りたちと出くわしたときは冷静だったし。絶対になにかきっかけがあったはずよ」
「世界大会議の前に、神都に誰かを遣わす理由があったってことじゃない?」
皆が一斉にヒーラを見た。彼はポリポリとクッキーをかじりながら、自前の砂糖を紅茶にぶちまけている。彼は砂糖の消費量が多いから、給湯室に常備されているものは使用を禁じられているのだ。
「どうせあとちょっとで、殿下自身も神都に出向かれるわけで…あれ、ぼく、おかしなこと言いました?」
「ヒーラ」
父が低い声で唸った。
「そうだとしても、口に出すな。騎士たるもの、あるじの行動の裏を探るのは忌むべきことだ」
「はい、そこまで」
ヒーラが反論しようとしたところで、ギルビスがぱちんと手を叩いた。
「察せよ、されど疑うな。ヒーラも一等騎士になったことだし、もう一度シェイル騎士の心得を読み直すといい。第一章からエルディが暗唱をはじめる前にね。
セーナ、そんなわけで、殿下にどんな意図があったとしても、この城でそれを議論するわけにはいかないんだ。だから、その気持ちは心の中に留めておくといい」
王宮勤めというのは不自由なものだ。メルセナは嘆息した。ギルビスたちの立場を悪くしたいわけじゃない。こう言われてしまえば、メルセナだって口をつぐむしかない。
すると、ギルビスが声を落としてメルセナに耳打ちした。
「…どうしても気が晴れないのであれば、城を出てからラディ殿下に直接尋ねればいい。あの方はこの城で唯一、王殿下に物申せる方だからね」
反射的にぴょんと飛び上がり、ギルビスのささやきかけた耳をふさいで顔を上げると、彼はパチリとお茶目に片目をつぶった。
なんて罪深い騎士団長なんだろう!メルセナはあぐあぐと何度か口を開け閉めして、ぐるりと踵を返してトレイズの空っぽの袖を引っ張った。
「…ネルの様子を見に行きましょ!あの子をちゃんと送り出してあげなきゃ!」
◆
ネルは侍女さんに世話されて、可愛らしく変身していた。
シェイル騎士団員は男性しか見たことがなかったので、こんな女性用の制服があったことをメルセナははじめて知った。おなじみの黒いコートにプリーツの入った白いスカートを合わせたかっちりとした服を身にまとったネルは、普段よりも三割り増しで凛々しく見えた。髪の赤く染まった部分は綺麗に編み上げられ、いつもネルがつけているリボンで留められて、制服と揃いの黒いベレー帽の中にうまく隠れている。
「いいじゃない!」
メルセナが褒めると、ネルは恥ずかしそうにもじもじはにかんだ。振り返ると、トレイズはまだ廊下にいる。気の利かない男ね!メルセナは声を張り上げた。
「ちょっと、いつまでいじけてんのよ。ネルに挨拶しなさいよ」
いったいなにをそんなに落ち込んでいるのか、表情の暗いトレイズが入ってくると、ネルが心配そうに眉尻を下げた。
「トレイズさん、元気ないね」
「アー…悪い、ゼルシャに行くのは、少し、気が重くてな」
あの穏やかな村のなにを恐れる必要があるのかメルセナにはわからなかったが、トレイズはそう言って頭をガシガシ掻いた。
「いや、俺の話はいいんだ。悪いな、俺たちが一緒に行ってやれなくて」
「リズセム様のお願いだもん、しょうがないよ」
ネルは両手を握って努めて明るく言った。
「セオはわたしがちゃんと助けるからね」
そうは言っても、彼女はたぶん不安なのだろう、若草色の瞳が揺れていた。トレイズは苦い顔をしてネルから目をそらした。
「ルナセオな。アイツ、大概いつも明るいだろ。きっと巫子になるまで、辛いとか苦しいとか、あんまり思わなかったんだろうな」
出し抜けにそんな話をはじめるものだから、メルセナはネルと顔を見合わせた。
「旅に出てすぐの頃、俺、アイツに『大丈夫か』って聞いたんだ。アイツ、なんのことかわかってないような顔してさ。たぶんこれまで、そんなしんどい思いをしたことなかったんだろう…だからさ」
トレイズは一晩で中途半端に生えた無精ひげをさすった。
「あの巫子狩りへの憎しみも、ラゼを死なせた苦しさも、ぜんぶ吐き出しちまって楽になったっていいんだって、アイツに言ってやってくれ」
「アンタ、ちょっとは気を遣えるようになったじゃない」
あのデリカシーのないトレイズに、誰かを慮った発言ができるなんて驚きだ。目を丸くしてトレイズを見上げると、彼は気まずそうに金の瞳を細めて視線を泳がせた。
「うん」
ネルはしっかりと頷いた。
「トレイズさんが心配してたよって、セオに伝えておくね」
「いや待て、そういうのは言わないんでいいんだ。恥ずかしいだろ」
「めいっぱい脚色して言ってやりなさい、ネル!トレイズのやつ、セオがいなくて寂しくてじめじめしてたって!」
「やめろ!」
キノコでも生えそうだったトレイズが、ようやくいつもの調子で叫ぶので、ぎゃいのぎゃいのとやりあっていると、不意にネルが「ふふ」と吹き出した。今度の笑みは空元気ではなかったようで、メルセナはほっとした。
◆
「グレーシャのヤツが言ってたんだけど」
お城のバルコニーから、ネルとローシスが街のほうへと出て行くのを見下ろしながら、メルセナは口を開いた。
「セオは心のイヤなこと感じるところがぶっ壊れてるって」
「人の心をぶっ壊すんじゃねえよ」
「それはもう私が言った」
トレイズは薄っすらと頬を緩めた。
「ルナセオは、別に性根がひん曲がってるわけでも、どっかおかしいわけでもねえだろ」
そう言うトレイズは、心根の曲がった人物を知っているのだろうか。彼の金の瞳は遠いどこかに思いを馳せていた。
「ただ…あいつは幸福だっただけだ。誰かの死を目の当たりにしたことも、誰かに悪意を向けられたこともないような運のいいヤツだ。きっとあいつの親御さんが、ルナセオを大事に育てたんだろうさ」
「……」
その親御さん、アンタの仇らしいわよ、とは、さすがのメルセナも言えなかった。
かつての9番の日記を読んでも、メルセナには遠い世界のおとぎ話のようにしか感じることができなかったけれど、ネルやルナセオにとっては、あの狂気に満ちた記述はショッキングだったようだ。ネルは何度も何度もあの日記を読み返して、どこかにクレッセを救う鍵はないかと目を皿にして探していた。あの日記への執着はいっそ病的なほどだった。
ネルもルナセオも、巫子の物語を壇上で綴っているのに、メルセナひとりが観客席でそれを眺めるばかりのようだ。メルセナには父がずっと隣にいてくれて、まだ誰かを喪った経験がないからだろうか。
この疎外感には覚えがある。まだこの街になじめていなくて、お城の図書室で読みふける小説の登場人物だけが友達だった頃、窓の外で仲良く遊んでいる同世代の子どもたちを見ていたときのような。
「あーあ」
メルセナがため息をつくと、隣のトレイズが気味の悪いものを見たかのような顔をした。失礼なヤツだ。
「全然、まったくうらやましいわけじゃないけど。ネルやセオみたいに、私にもちゃんと『戦う理由』みたいなヤツがほしいわ」
「ハァ?」
案の定、トレイズは怪訝な声を上げた。「なに言ってんだお前」
「だからー、小説とかなら、主人公はこれだ!っていう芯があるじゃない。ネルはクレッセを救いたいって気持ちがあるし、セオは…まあ、復讐譚は私あんまり好きじゃないけど、ラゼとかいう子の仇を討ちたいわけでしょ?私だけ、なんだか蚊帳の外なんだもの。ちょっと寂しくない?」
「お前なあ」
トレイズは呆れたように目をすがめた。もとより彼の同意が得られるとは思っていない。メルセナはくちびるを尖らせた。
「なによお、わかってるわよ。ネルとセオはつらい思いをしたんだから、それをうらやましがるモノじゃないってことくらい」
「そうじゃなくてだな…ああもう」
トレイズは煩わしそうに赤錆色の混ざった髪をかき回して、バルコニーの柵に寄りかかった。
「理由なんてのは後からついてくるモンだろ。巫子なんて突然選ばれちまうんだ。どいつもこいつも最初からはっきりした事情があるわけじゃねえよ」
それに、とトレイズは続けた。
「足掻いてやるって啖呵切っただろ。お前には、ちゃんと理由があると思うぜ」
不器用にぽんぽんと頭を叩かれたメルセナは、しばしポカンとして目の前の男を見上げた。父よりも大きな手のひらはゴツゴツとしていて、動きも雑だし、メルセナの髪がちょっと乱れてしまったけれど。
メルセナはむうと頬をふくらませて、手櫛で髪を整えながらトレイズから顔を背けた。ギルビスも、トレイズも、メルセナからすると手の届かない「大人」だと実感するのが悔しかった。
「…ヒゲもちゃんと剃らない人に諭されても嬉しくないわ」
「お前はホント…一言多いヤツだよ」
メルセナはツインテールに括った髪を口元に寄せて、ゆるんだ顔をこの男にだけは見せまいとした。もっとも、この鈍感な男に気づかれているとは思えないけれど。
バルコニーに気まずい沈黙が落ちたところで、ひょっこりと誰かが顔を出した。
「ああ、こちらにいらっしゃいましたか」
「あ、ラディ王子」
ふたり揃ってぱっと姿勢を正すと、ラディ王子はにこやかに歩み寄ってきた。
「ゼルシャへの出発なのですが、少しお時間をいただきたくて。父がまた仕事を増やしたものですから、処理にしばし手間取りそうなのです」
「ええ、そりゃ、もう!」
途端にトレイズの顔が明るくなった。本当に、なにをそんなに恐れているのだろうか。
ラディ王子はメルセナにほほえみかけた。
「巫子狩りは街から撤退したようですし、メルセナも街に出ていただいて構いませんよ。自宅に置いてきたものなどあるでしょう?」
「あ!そうだったわ、家の掃除がしたかったの!」
やっと家に帰れる!メルセナが飛び跳ねると、ラディ王子がそこで少し言いよどんだ。
「それで…明日にでも時間の都合がつけばでよいのですが」
彼は懐から一通の封筒を取り出した。お上品に花やリボンで飾られて、黒い封蝋にはシェイル王家の紋章が入っている。
「母があなたをお茶の時間に招きたいと。お誘いしてもよろしいでしょうか?」




