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「それにしても、ネル、なかなか帰ってこないわね」


 メルセナがシャワーを浴びて、父から説教を受けているあいだにずいぶんと時間が経ったが、隣の部屋の扉が開閉する音も聞こえてこない。彼女はふらりとひとりで出歩いて物思いにふけっているが、いつもならもうとっくに帰ってきている頃だ。


 そこでようやくメルセナたちの部屋にネルの姿がなかったことを思い出したのか、父がしかめ面になった。

「ネルはどこまで行ったんだ?」

「湖を見てくるって。でも部屋についてすぐに出て行ったから、もう一刻半は経つんじゃないかしら」

あ、まずい。父の顔色をうかがって、メルセナはまたしても後悔した。またしても父の怒りのボルテージが上がりはじめてしまったようだ。


「何事もなければいいが…」

「ま、まあ、もしかしたら村の中を散策でもしてるのかもしれないし。私、湖まで見てくるわ」

 これ以上お説教が続いてはたまらないのでそそくさと立ち上がると、部屋の扉が控えめにノックされた。扉を開くと、ちょうど探しに行こうとしていた当人が目を丸くしてこちらを見た。

「あっ、ネル!」

見たところ何事もなく無事な様子だったのでメルセナは心底ほっとした。

「どこ行ってたの?湖に行ったきりなかなか帰ってこないんだもの。心配したわ」

「あっ、セーナ、ごめんね」


 ネルは部屋の中をのぞき見て、おやと眉を上げた。その視線の先に、テーブルの上に置かれたままの魔弾銃とチルタの日記があるのに気づいて、メルセナはパチンと両手を合わせた。

「いや、こっちこそ、ごめん!あのね、パパにバレちゃったの。レクセでセオのパパとママに会ったこと!」

「そうなの?」

慌てたメルセナとは裏腹に、ネルのほうはのんきに小首など傾げている。それがどうしたと言わんばかりの様子に、父は再三お説教モードに切り替わってしまったらしい。魔弾銃片手にイライラと言った。

「トレイズさんに隠しておきたい気持ちはわかる。でも、こんな危険なものを鞄に入れっぱなしにして、なにかあったらどうする?それに9番の日記を読みたいからといって子供たちだけで夜に抜け出すなんて。巫子の力も使いこなせないのに早計だとは思わなかったのか?」

「ご、ごめんなさい…」

ネルはかわいそうなくらいに意気消沈して縮こまってしまった。対する父は気持ちを落ち着かせるためか、お茶のカップを持ち上げながらやれやれと首を振った。

「気づかなかった私にも責任があるが…なんならレクセにもう少し滞在したってよかった。私も一緒についていく方法なんていくらでも…」

そこまで言ってカップを口元で傾けたところで、ひょいとネルの背後から見慣れない少年が顔を出した。


「へー、9番の日記?そいつは興味深い。僕も読んでいいかい?」


 ブッと音を立てて父が紅茶を吹き出した。仰天したメルセナは反射的に日記と魔弾銃を回収してはたいた。よかった、どうやら紅茶はかからなかったらしい。しかし床にまで飛沫が飛んで悲惨なありさまだ。


 その少年はツカツカと部屋に乗り込んできた。なんとも奇抜な服装だ。黒いトップハットにあつらえたような厚手のケープに、三揃いの仕立ての良いベストにジャケットにニッカポッカ。細い脚には靴下留めを噛ませたハイソックスに使い込まれたブーツ。街中だったらちょっとお洒落なレストランにも出向きそうないでたちだが、こんな辺鄙な村では見事に浮いていた。

 彼もまた父の知り合いなのか、父はすっかり青ざめて少年を凝視している。

「で、で、で…」

「あーコレコレ。この子のこういう反応が見たかったんだよね。いやあ、これだけでここに来る価値があったというものだ。ねえ?」

対する少年のほうは、父の様子をケタケタ指差して笑っている。同意を求められたネルは困ったような顔をしてあいまいに首を傾げるばかりだ。


 父は震える指を少年に向けて、幽霊でも見たような形相で尋ねた。

「な、なぜここに」

「うーん、なんとも捻りのない質問、零点だ。なぜって、ピアからもギルビスからも、巫子がシェイルに来るから城に帰れとうるさいくらいに手紙を寄越すもんでね。まあ待ちぼうけを食らわすのも一興だが、我が最愛の君が帰りを待っていてくれると言うじゃないか。たまには付き合ってやるかと思ったら、君の匂いがしたから是非遊んで行こうと思ってここに参上したというわけさ!嬉しいだろう?」

「そうですか…叶うならば今すぐに逃げ出したいほど光栄です…」


 頭を抱えた父に飽きたのか、少年はぽかんとするメルセナの前までやってくると、止める間もなくその手から魔弾銃を取り上げた。彼はくるりと手の中で銃身を回すと、勢いよく手首を振って銃の金具を外した。どうやら弾を込める場所らしき金具の中をのぞいて、少年はひとつ頷いた。

「うん、弾は抜いてあるね。どっちにしろ君に打ち明けない限り使えない状態だったというわけだ。そうカリカリするもんじゃないよ。余裕のない男はモテないといつも言っているだろう?」

 そう言うと、少年はもう一度魔弾銃を振って金具を元に戻した。あたかもこの銃を使い慣れているような、スマートな動きだ。


 メルセナは彼の猫のように飄々とした黒い目を見ながら思わずいつもの調子で尋ねた。

「アンタ、誰?」

「セーナ!」

父が咎めるように名前を呼んできたが、少年のほうはなったく気にした様子もなく朗らかに笑って、魔弾銃をこちらに返して優雅に一礼した。まるで舞台俳優のような大仰な動きだ。

「これは失礼。僕はリズセム。そこにいる見た目だけ一級品のポンコツ…おっと、君の父だったか。彼の後見人であり上司にあたる。お会いできて光栄だ、お嬢さん」

パパの後見人?ピンとこなくて眉を寄せると、ネルが捕捉した。

「セーナ、このひと、シェイルの王様みたい」


 途端に、目の前のこの少年と、旅の道中で出会ったラディ王子の姿がガッチリ紐付けされた。そういえば、王子と同じ茶髪に黒い瞳だ。よく見れば面立ちもどこか似ている!

「王殿下!」

メルセナは思わず手にした荷物を取り落としたまま、自分もべしゃりと平伏した。王子殿下に引き続いて王殿下にもえらい無礼を働いてしまっていた。

「たっ、大変申し訳ありません!王殿下とは知らず無礼な口を!」

「ハハッ、いいねえ無礼!どんどん無礼な口を聞いてくれたまえ。そのたびに慌てふためくガキンチョを見たいものだ」


 シェイル旧王家の面々というのは、身分差をまったく気にしない者の集まりなのだろうか。リズセム王は手を振ってメルセナを許すと、そのまま流れるような動きで父の座っていた椅子を奪って腰かけた。

「君たち僕に会いにシェイルに来たんだろう?せっかくなら一緒にクレイスフィーまで行こうじゃないか」

「殿下…我々は徒歩で首都まで行く予定でした。御身のためにもご一緒いただくわけには…」

父がやんわりと断りを入れようと試みるが、リズセム王はひとつ肩をすくめただけだった。

「僕がここまで護衛を引き連れて旅してきたように見えるかい?自分の身くらい自分で守れるさ」


 ラディ王子に続いて、父親のほうもなかなかに臣下泣かせの性格らしい。やはり彼も不死族なのか、見た目は10代中ごろか…少なくとも、ラディ王子よりも年下に見える。腰に剣も差していないし、丸腰としか思えないが、この年端もいかない少年の姿でどうやって身を守るのだろう。


 そんなことより、むしろメルセナはリズセム王自身の姿より、それに対する父の反応のほうが意外だった。ラディ王子には恐縮するそぶりこそ見せつつも、旅への同行に難色を示したりはしなかったのに、今の父は出来る限りこの王様と共にありたくないという気持ちが透けて見えていた。リズセム王本人もそれを分かってからかっているようだ。

「パパがあんなに嫌そうな顔するなんて珍しいわ」

「エルディさん、いつもクールだもんね」

 そう言って、ネルはにこりと笑った。初めて見るような気がする、彼女のなんのてらいもない笑顔にメルセナは目をしばたいた。

「なんで王様と一緒だったの?」

「あのね、湖で声をかけられたの。わたしたちのこと、いろんな人から聞いてたみたい。それで、そんな暗い顔するもんじゃないって言われて、村の中を一緒にお散歩してたの」

「う、うーん、なんでそこでお散歩することになったのか分かんないわね。でも気晴らしにはなったのかしら」

ずっと気落ちしていたネルに、リズセム王との散歩を経てなにか前向きになるようなことがあったのなら、よい傾向だと思う。メルセナは彼女の、少し輝きを取り戻した若草色の瞳をのぞきこんでほほえんだ。

「ネル、ちょっと明るい顔になってるもの」

「そう、かな」

本人に自覚はないようで、ネルは自分の頬を撫でながら目を細めた。

「うん…でも、そうかも。楽しかったから」


 まさかふさぎ込んでいたこの子から「楽しい」なんて言葉が出るとは!メルセナは感動した。ネルの腰にぎゅっと抱きついて叫ぶ。

「クレイスフィーに着けば、もっと楽しいわよ!私が街を案内してあげる。デクレが羨ましがるくらいお土産話を作るといいわ!」

「う、うん…あれ、セーナ、なんで泣いてるの?」

オロオロしたネルがおっかなびっくりメルセナの背中を撫でるものだから、メルセナはさらにこの善良な少女に涙が止まらなくなってきた。昔から、平凡な女の子が努力する話には弱いのだ。


 少し離れたところで、父とリズセム王が顔を見合わせた。

「…今回だけですよ」

「うんうん、お嬢さんひとり笑わせてやれない自分の不甲斐なさをぜひとも後悔するがいいよ」

自分の要求を押し通したリズセム王は鼻歌まじりにチルタの日記を手に取った。父は遠い目で窓の外を見ながら暗い声でぼやいた。

「…トレイズさんが卒倒しなければいいが」



 そのトレイズはどこかで酒でも入れてきたのか、ルナセオを伴って赤ら顔で帰ってきたが、平然と部屋でくつろいでいるリズセム王を視界に入れるなりその顔色は赤黒くなり、飛び上がって全力で後ずさった。

「シェイル王殿下!?」

対するリズセム王は、メルセナの貸した幻獣図鑑から顔を上げもしないで片手を挙げて応じた。

「やあ紅雨の、久しぶり!今いいところだから礼を失しているのは勘弁しておくれ」

「な、なぜここに」

「匂いがしたらしいわよ」

父とまったく同じ反応をするトレイズにメルセナが解説した。この王様はなぜここまで大人たちに恐れられているのだろうか。


「王様?シェイルの王様が来てるの?」

 ルナセオがひょっこり顔を出して、リズセム王の姿を見ると目を丸くした。気持ちはわかる。メルセナは深くうなずいた。

 そのリズセム王は、幻獣図鑑をぱたりと閉じると、余韻に浸るようにキラキラ目を輝かせて虚空を見上げた。その姿たるや、新しいおもちゃで楽しんだ少年さながらで、彼が一都市をすべる王だとはだれも思わないだろう。

「いやはや、素晴らしい図鑑だった。幻獣の類は伝承が多岐にわたっていて、編纂の難しい題材だと思っていたが、なかなかどうして世の中には才ある編者がいたものだ」

どうやらグレーシャの図鑑は質のよいものだったらしい。図鑑を絶賛したリズセム王は、メルセナに手渡しながらうなずいた。

「6番の印で召喚できる幻獣には限りがあるだろうが、まあ片っ端から試してみるといい。確か昔の6番が召喚した幻獣のメモが城に残っていたはずだから帰ったら貸してあげよう」

「ホント!?」

メルセナは諸手を挙げて喜んだ。ようやく私も巫子の修行ができるわ!王の背後に立ち尽くす父は苦い顔をしているが。


 ルナセオはまだ信じられないような表情で、リズセム王をちらちら見ながらネルにささやいていた。

「本当にシェイルの王様?芸人とかじゃなくて?」

「そうだねえ、僕も王様なんかより芸人になりたかったなあ。あいにく妻子を食わせるほどの才能がなくってねえ」

「お前…お前!」

この姿で「妻子」なんて言っても違和感しかないわね、息子の姿を思い浮かべながらお茶を飲んでいると、ようやく我に返ったらしいトレイズがルナセオの肩をつかんだ。顔は今や青のような紫のような濁った色になっている。

「マジでその方にだけは失礼な口を聞くな、ケツの毛まで尊厳のすべてをむしり取られるぞ!」

「そういうトレイズがいちばん失礼なんじゃないの?」

「やだなあ、君なんかのケツに興味ないよ」

リズセム王はからりと笑って話を本題に戻した。


「で、なんだっけ?ロビ坊やに会いたいんだっけ?」

 メルセナたちはシェイルに向かっている目的も何も明かしていないのだが、なぜかこの王様は最初からすべてを知っているようだ。彼がカップをひとつ持ち上げると、執事よろしく父がお茶のおかわりを淹れた。その澄んだ色を見下ろしながら、リズセム王はずっと浮かべていた愛想のいいほほえみを引っ込めた。空気がカチリと切り替わる。笑みがかき消えると、彼の冷徹な王の顔が姿を現した。

「ここのところ、まことしやかに世界王陛下の不調説が囁かれている。当然、陛下は赤の巫子であられるから、ご病気であるはずがないのだが…怪しい高等祭司が台頭していること然り、陛下のご威光が薄れているのはまず間違いない。周到な準備の上で向かったほうがいいだろうね」

 リズセム王は紅茶をひと口飲んでにやりとした。メルセナは、いつだったか父が言っていた「不死族は長く生きている者ほど老獪」という話を思い出した。

「幸か不幸か、今年の夏は四年に一度の世界大会議の年だ。各都市のめぼしい首長が額を突き合わせてくだらない利権を言い争う、なんの実にもならないままごとだが、合法的にうちの騎士を調査に駆り出せる機会だ。よろしければ君たちも神都行きの船に同乗させて差し上げよう」

「殿下…あまり彼らを国の陰謀に巻き込むのは…」

父がリズセム王に苦言を呈したが、リズセム王はにべもなく返した。

「我がシェイルの保護を求める以上、タダ飯喰らいに用はないよ、エルディ。せいぜい僕が君たちを守る価値を見出せるよう努力することだ」


 この王が言葉を発するたび、背筋が伸びるような心地だった。たぶんメルセナたちなど、リズセム王の指先一つで操ることができるだろう。気さくな少年の姿の奥に隠れていた王の威厳に、メルセナの胸はどこか高揚するようにどきどきした。

 これが、シェイルを繁栄に導いた偉大な王様か。

 リズセム王は黒い瞳を猫のように細めて、紅茶を持っていないほうの腕を広げて居丈高に言った。

「僕の理想郷へようこそ、巫子諸君。ぜひとも誉れある働きに期待しているよ」

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