20
栄えあるシェイルディア騎士団の主、ギルビスと出会った日のことは今も忘れない。10年くらい昔の話、メルセナの見た目が今よりさらに小さかったとき、クレイスフィー城の図書室でで本を読みふけっていたら、突然正面の席に彼が座ったのだ。
そのときは、頭の良さそうな人ねえ、そのくらいしか思わなかった。むしろ広い図書室の中でわざわざ人の近くに座るなんて変なひと、と眉をひそめたくらいだ。
すると、彼は男らしくごつごつした指でトントン机を叩くと、顔を上げたメルセナにほほえんで、自分の頭を指差した。反射的に自分の髪に触れると、どこで引っかけてきたのだろうか、オレンジ色に染まった葉っぱが指に引っかかった。
ギルビスは低い声で、やさしくささやくようにこう言った。
「もうすっかり秋だね。今日も私たちのシェイルはとても美しい」
彼の視線につられて窓の外を見ると、庭園の木々の葉は鮮やかな暖色で彩られて、まるで夢のなかみたいだったーー
◆
「…まあそんなわけで、幼かった私は現実の世界にも美しいものがあると知り、フィクションの世界だけにとらわれる私ではなくなったってワケよ」
「ふうん?」
せっかくメルセナの運命の出会いについて語ったというのに、ネルの反応は芳しくなかった。そればかりか、彼女はなにやら便箋を鳥の形にするのに苦心していて、メルセナの話などろくに聞いちゃいなかった。
「んもうっ!聞いてよ私の人生を変えた初恋のはなし!いつも愛しのデクレくんの話を聞いてあげてるでしょ!」
「だってセーナ、その話もう3回目だし…」
「じゃあトレイズでいいわ。聞いて!」
「やめろ、ギルビスに会ったときに笑っちまうから」
片腕で耳を塞いだところで左耳が無防備になるというのに、トレイズは聞きたくない意思をはっきりアピールしてきた。メルセナは口を尖らせて分厚い幻獣図鑑をトレイズの頭に落とした。
不器用なネルはぺろりと鳥に見えなくもないくしゃくしゃの紙の塊を持ち上げた。このままゴミ箱に放り込みそうないびつな見た目だ。
「鳥を折るのってむずかしい」
「送れりゃいーんじゃない」
どうやらその紙は、いつの間にやらラトメディア神護隊長、例の「閣下」からもらったものらしかった。鳥の形に折って飛ばせば彼のもとへ直接届くとかで、ネルが隠し持っているのをメルセナが回収した。彼女は隠しごとが絶望的に下手だった。
トレイズが残りの便箋の一枚をぺろりと持ち上げた。
「それにしても、レインの奴、直通の魔法便箋なんて高級なモンをポンと渡すなんて…しかもこれ、相当上等なやつじゃねえか」
俺のときより神護隊長の年収上がってんのか?疑わしげに便箋を睨む隻腕の男に、メルセナは肩をすくめた。
「神護隊って月給低そうよね。賄賂とかもらってんじゃないの」
「いや、レインに限って…いや、あいつ意外と腹黒い所あるしな…」
腹黒いどころか、レイン隊長がおそらく人には言えない二足のわらじを履いているだろうことをかつての上司は存じていらっしゃらないらしい。知らないって幸せね、呆れた様子でメルセナは首を振った。
ネルは調子っぱずれな音程で「はやくとんでけー」と歌いながら紙の塊を放り投げた。かろうじて突き出た羽を一生懸命ぱたぱた動かしながら、あわれっぽく南の空へ飛んでいった。なんとか無事レイン隊長のもとへたどり着くことを祈るばかりだ。
「力を使うのに慣れろっていうから、はやく飛んでけって歌ったけど…効果あるのかなあ」
「ネルはいいじゃない、練習しやすい力で。私なんていっこ幻獣を召喚しただけで大騒ぎだもの」
メルセナは図鑑を持ち上げた。あまり詳しくなかったが、強そうな幻獣というのは得てしておてんばらしい。メルセナはこの道中、魔物を退治しようとして適当な幻獣を呼び出そうとしたところ、それは洞窟の中を暴れまわったあげくに天井に大穴を開けて消えていった。魔物は無事倒せたが、こちらも相応のダメージを食らった。もちろん、父からはうんざりするほど叱られた。
その父は今はルナセオの修行に明け暮れていた。「巫子の印で運動能力が上がっても、武具の使い方は一朝一夕には身につかない」というのが父の主張らしく、ルナセオは毎日父の特別メニューに悲鳴を上げていた。おそらくシェイル騎士団の訓練に基づきつつ、父としては手加減をしているつもりのようだったが、いつの間にか父は目の前の少年が日がな一日剣ではなくペンを握っていた学生だということを忘れたらしかった。
「あーッ、もうダメ、無理、降参!」
父に攻撃を当てる訓練でついぞ一回も当てられなかったルナセオは、木刀をすっ飛ばして大の字に転がった。
「シェイル騎士団ってみんなこんな体力おばけばっかなの?俺もう疲れた!」
「馬鹿を言うな、こんなものは序の口だ」
さすが、人外と規格外しか存在しないシェイル騎士団の一等騎士は容赦がなかった。
「騎士団の新人用訓練であれば、あと千回の素振りと筋トレメニュー、訓練場の走り込み30周を終えるまで休憩なしだぞ」
「それホントに訓練?拷問かなにかじゃなくて?」
ルナセオが信じられないとばかりにメルセナを見たが、残念ながら事実なので頷いた。なお、その訓練に耐えられなかった多くの者たちが騎士団から一般歩兵に転向するのが常である。ルナセオはむしろよくついていっているほうだ。
シェイルディア領には入ったものの、こうして文通やら修行やらに時間を使いながら、メルセナたちはモタモタ北上を続けていた。クレイスフィーにたどり着くまでにはあと十日あまりかかるとのことだ。
「そろそろ村が見えるはずなんだよな。今日はそこで一泊しようぜ」
遠くを見ながら珍しく気の利くトレイズの一言に、メルセナはルナセオと一緒になって歓声を上げた。
「やった!シャワーが浴びられる!」
「賛成、私もいい加減ベッドで寝たいと思ってたところ!」
野宿には慣れてきたけれど、固い地面は安眠に向かなすぎる!ルナセオとハイタッチして喜びを分かち合っていると、気まずそうな父が、トレイズの見ているほうとは逆方向を指差した。
「トレイズさん、村の方角はあっちです」
◆
その日、一行が立ち寄ったのはネイーダという名前の小さな村だった。少し霧がかった湖畔に広がる、いかにもシェイルらしくさばけたところだ。旅人には慣れているのか、宿の主人は奇妙な5人組の一団にもちょっと片眉を上げただけで、隻腕のトレイズにも、一部だけ赤髪のネルにも、人外じみた美貌の父にもなにひとつ突っ込まなかった。
しかし、インテレディアの実家では宿屋を営んでいたらしいネルはそれが気に食わなかったらしい。
「世間話のひとつくらい振るのが宿屋の礼儀じゃないのかなあ」
「ま、シェイルの気風はいい意味で無関心ってことよ。私やパパみたいなのがのほほんと暮らせる都市だしね」
ふとした時に、ほかの都市との価値観の違いを感じるのがメルセナには楽しかった。シェイルにはよその都市からも多くの人々がやってくるけれど、悲しいかなメルセナに旅人と深く付き合うような機会はなかった。なにせ、旅人からしてみれば、人里の住むエルフのメルセナは異端だったから。
ネルとともにひと部屋を割り当てられたメルセナは、ベッドに荷物を放り投げると、意気揚々とマントを脱ぎ捨てた。かばんの留め金が外れて中身がぶちまけられたが、そんなのは後回しだ。
「私、シャワー浴びたい!先に入っていい?」
「うん」
ネルは窓の外に見える湖に目を向けた。
「わたし、ちょっとお散歩してこようかな。湖を近くで見てみたいから」
「あんまり遠くに行くとトレイズがうるさいから、はやく帰ってきなさいよ」
ひらひらと手を振ってメルセナはシャワー室に入った。本来はネルひとりで出歩くなど、巫子狩りに見つかったらどうするんだ!とまたトレイズあたりが渋い顔をしそうだが、メルセナからしてみれば、突然一緒に旅することになった赤の他人の目が四六時中あっては心が疲弊するというものだ。
なにせネルは旅に出てからこっち、ずっと気落ちしているように見えた。大好きな婚約者とはぐれて、巫子なんてものになって、しかも助けようと思っていた幼馴染を殺せというのだから、それは落ち込んでしかるべきだろう。これだからデリカシーのない男は…なんだかイライラしてきて、メルセナは首を振って思考を振り払った。
ひょんなことから一緒に旅に出ることになったネルという少女のことは嫌いじゃない。難しいことは苦手らしく、なにかと鈍いところにはせっかちなメルセナと相性が悪いと思うこともあるが、彼女の穏やかで擦れたところのない気性を、メルセナは気に入っていた。サバサバした人の多いシェイルの街にはいなかったタイプだ。
宿に泊まれば男女に部屋割りされるので、いつも同室のネルとはいろいろと話をした。レフィルとかいうあの少年に連れ出されるまで、ネルは故郷の村を出たことがなかったらしく、彼女の話題はだいたい村と家族の話に終始していた。村での彼女は意外にもおてんば娘で、実家の宿の店番をサボったり、愛しのデクレくんとくだらないことで喧嘩したり、村で一番大きな樹に登って村長に怒られた話などをよく聞かされた。
そう考えると、旅に出てからのネルは昔ばなしの中の彼女よりもずっと大人しくて、わりあいハキハキものを言うメルセナとルナセオの間でじっと黙っていることが多い。うーん、まだ心を開いてもらえてないのかしら…メルセナはひとつため息をついて服を脱ぎ捨てると、気を取り直してシャワー室に入った。
ほかの都市に行ってわかったことだが、シェイルディアの文化は非常に発展していて便利だった。中でも水が潤沢に使えて、すぐにお湯が沸くのがありがたい。マユキの家で借りたシャワーは熱調整の魔法道具の使い勝手が悪くてちょっぴり不便だったのだ。
こうしてゆっくりお湯に浸かれるだけでも、シェイルに帰ってきた甲斐があったわ!ゆっくり風呂を楽しんでほくほく顔でシャワールームを出てきたが、ネルはまだ帰っていなかった。
「遅いわね…」
たぶん湖のあたりで考えごとでもしているのだろうが、もうしばらく待っても帰ってこなかったら呼びに行ったほうがいいかもしれない。ついでに自分も湖を眺めていこうか、観光気分で計画を立てながら、メルセナは腰に手を当てて荷物がぶちまけられたままの自分のベッドを見下ろした。
「その前に、こいつを片付けなきゃね」
パパにばれたら、今後彼のズボラを注意できなくなっちゃうわ、メルセナはふんすと鼻を鳴らして気合いを入れた。手始めに、鞄から転がり落ちた衝撃で巻いていた布がとれた魔弾銃を手に取ったところで、部屋の扉が申し訳程度にノックされてすぐに開かれた。
「セーナ、今日の夕食だが…」
父は、扉のノブに手を当てたまま固まった。まずいと思う間もなく、彼のうつくしい瑠璃色の瞳がメルセナの手元で止まった。
「セーナ…それをどこで手に入れた?」
「アー、うーん、えーと」
メルセナは視線をさまよわせたが、そのたびに父の眉が吊り上がっていくのを見て、これはもうダメだと白旗を上げた。




