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「えっ、売ってない?」
城を出たその足で薬問屋に向かったメルセナは、店主の言葉に目を丸くした。小太りの店主は途方に暮れた様子で頭をガシガシ掻いている。
「ほら、枯れ森の事件があるだろう?アレのせいで枯れ森に薬草の採取になかなか行けなくてねえ。城に納品できるだけの量が揃ってないんだよ」
「そんな…」
困ったことになった。しかも、不足しているのはいちばん必要な傷薬に使うための薬草で、これがなければ兵士や騎士たちだって心置きなく任務につくことができなくなってしまう。彼らの仕事はいつでも危険と隣り合わせなのだ。
それに、見た目が幼いメルセナは普通の仕事に就くことができないので、父の紹介でこうした城の雑用を手伝わせてもらっているのだ。きちんと賃金をいただいている以上、まっとうできなければ自分だけではなく、父の信用にだって傷をつけてしまうかもしれない。
ギルビスとの約束を破ってしまうが、背に腹は代えられない。メルセナは覚悟を決めた。
「おじさん、その薬草は枯れ森に生えてるのよね?」
「あ、ああ…いや、まさかセーナちゃん、行くつもりか?やめとけやめとけ!本当に危ないらしいぞ。魔女が出るってみんな噂してる」
「魔女?上等じゃない!」
メルセナはそういう物語じみた話が大好きだった。童話のような怖い魔女が出るというのならぜひ一度目にしてみたいものだ。
「私はシェイル騎士の娘よ。魔女なんか怖がったりしないわ。おじさん、ちゃんと薬草取ってこられたら安くしてよね!」
「そりゃもちろんだが…」
「じゃあよろしく!」
薬問屋の店主はなおも心配そうだったが、メルセナは言うが早いか薬問屋を飛び出した。噂はともかくもうすぐ夕方だ。日が暮れてしまうと森にも魔物が闊歩しだして危険なのは間違いない。
街を出て正面の森に飛びこむと、薬草の群生地までひた走る。さっと行って薬草が取れたらぱっと戻ればいいのだ。急げば往復で一刻もかからないはずだ。
春がきたというのに、森はまだ冷え冷えとしていて、日中なのに地面には霜が下りていた。マントを持ってくるべきだっただろうか。メルセナは上着の合わせ目を手繰り寄せた。この森はなんだかいつも薄暗くて、黒っぽい幹の木が多いので、確かに魔女がひっそり暮らして大鍋でもかき回していそうな雰囲気だ。 無事、森の開けた場所に出て薬草の群生地にたどり着けたので、メルセナはほっとして手近な草むらから必要な草を選んで摘み始めた。この分なら思ったより早く帰れるかもしれない…そう思ったところで、どこかで水の音が聞こえた気がして顔を上げた。
近くにある小川のせせらぎの音ではない。ぴちゃんぴちゃんと、何やら水滴が落ちるような音だ。最初、メルセナはどこかに残った雪が溶けて落ちる音なのだと思ったが、水音に混じってなにかすすり泣く声が聞こえた気がして、思わず立ち上がった。
薬草の袋をしまいこんで、注意深く歩いていくと、確かにそれは人の声のようだった。例の行方不明者が迷いながらもここまでやってきたのだろうか。物音を立てないように木々の隙間から覗くと、近くで一人の女性の背中が見えた。
帽子をかぶった女性だ。見かけたことのない真っ黒な髪を腰まで伸ばしていて、教会の神父さまのような黒いローブを身に纏っている。彼女はしゃくりあげて泣いていて、やはり道に迷っているようだと一歩前に出たところで、彼女の足元までが視界に入ってぞっとした。
彼女の足元には何人かの人が倒れ伏している。いつからそこにいたのだろう、皆、身体が霜で白くなっていて、どう見ても無事とは思えない。しかも彼らが転がっている地面には血のような赤黒い液体で、巨大な魔法陣が描かれていた。ところどころ掠れて記号や文字が乱れていて、それを描いた人物の狂気が垣間見える。
女性はブツブツ絶え間なく、うわごとのように呟いている。
「どうして…理論は完璧なはずなのに…私の力も足りているはず…なのにどうして…私はもう一度会いたいだけなのに…“供物”が足りないの…?どうして…」
魔女。薬問屋の店主が口にした言葉が思い出された。背筋が粟立って、メルセナは悲鳴をあげそうになったところを口を押さえてなんとかこらえた。
パパに、ギルビスたちに教えなきゃ。女から目を逸らさないようにしながら後ずさると、足元で小枝を踏み抜いてぱきんと音がした。
「どなた?」
ぐるりと、髪を振り乱して女が振り向いた。体温が通っているのか疑わしいほど青白い肌に、唇だけが異様に赤い。黒曜石みたいな瞳がまっすぐにメルセナを捉えて見開かれた。
「あなた…」
甘やかで可憐な声がねっとりとメルセナに絡みつく。彼女は振り返って、こちらに両手を伸ばしながら歩み寄ってくる。女の両手は自分のものなのかそれとも足元の人たちのものなのか、擦り傷だらけで血まみれで、左手首は異様に真っ赤な帯を作っていた。
「あなたっ、戻ってきてくれたのね!」
「……え、えっ?」
突然喜色満面に抱きつかれて、メルセナはその場に立ち尽くすしかなかった。氷のように冷たい女だ。彼女はすすり泣きながらメルセナの耳元で何事か話している。
「ずっと会いたかったの。何度も何度も呼んだのよ…どうして今まで来てくれなかったの?ああ、でもいいの。こうしてまた会えたから」
「あっあっ、アンタ、だれっ」
混乱して、メルセナは女の胸を押し返して突き飛ばした。彼女はきょとんと首を傾げてまじまじとメルセナを見た。
「……私よ?レナよ。忘れてしまったの?」
「私はっ、アンタなんて、知らないわ!」
後ずさりながら叫ぶと、女は不安そうに瞳を揺らした。
「私のこと、覚えてないの?」
「覚えてるもなにも…」
メルセナには魔女の知り合いなんていないし、ましてや彼女に呼ばれてやってきたわけでもない。そう言ってやろうとして、何やら不穏な気配に口を閉ざした。女はうなだれるようにうつむいている。
「そう、あなた、きっとニセモノなのね…本当のあなたなら、私のことがわからないわけがない」
女は左手を挙げた。手首の赤い帯が一瞬光ったかと思うと、彼女の背後に巨大な真紅の門が現れた。
「ニセモノなんていらないわ、私がほしいのは本物の、私を愛してくれたあの人だけ」
どう考えても正気とは思えない。意味不明なことを呟いているレナとかいう女も、背後の門も、メルセナのエルフとしての本能が危険だと告げていた。門扉が周りの空気を吸い込みながらじりじりと開き始めるのを見て、メルセナは弾かれたように駆け出した。少しでも、ほんの少しでも彼女から離れなければと全速力で走りながら背後を返り見ると、赤い門からは三つ首の巨大な大犬が、よだれを垂らしてメルセナを狙っているのが見えた。
「ひ…ッ」
「ニセモノは、消えておしまいなさい」
魔女の赤い唇がにいと弧を描いた瞬間、大犬が門から飛び出した。三つの首がぐわりと大きく口を開けて、その奥の喉彦が眼前に迫る。食べられる!反射的にメ目をつぶって、死を覚悟したとき…
◆
──みな、すまない。私の心の弱さを許してくれ。
そこは物置の中のようだった。メルセナは、木箱の陰に隠れて震えている人物の中に入り込んでいるようだ。開け放した扉から差し込んでいるのだろう光から逃れるように、その人は縮こまっていた。
──みなを守って戦わねばならないのに、私には怖くてできそうもない。みなの流す血を思い出すと、私は動けなくなってしまうのだ…
「じゃあ、そんなもの、見なければいいじゃない」
明るい声に、その人は過剰なほど飛び上がった。差し込む光の中に人型の影が伸びる。こちらに一歩一歩近づく人物は、かくれんぼを楽しんでいるようだった。
「あなたひとりが逃げてしまったら、きっとみんな怒ってしまうわ。ちゃんと謝りに行きましょう?大丈夫、わたしも一緒についていてあげる」
一本、二本、三本四本。木箱に少女の細い指がかけられる。ぬうと現れた彼女は、もう片方の手に不穏なナイフを握りしめている。
「ああ…みんなの血を見たくないなら、いい方法があるわ」
彼女は笑顔のまま、こちらに向けてナイフを振り上げた。
「あなたは自分の血を見ていればいいのよ、6番」
◆
左手首が焼けるように熱くなって、メルセナは目を開いた。すると、目の前で大口を開けていた三つ首の獣は、たちまち光の飛沫になって視界を覆った。
「な、なに?」
光の向こうで、レナの戸惑ったような声が聞こえる。尻餅をついたメルセナは、自分の手首を見下ろして絶句した。
そこには、レナの手首にあったものと同じ、赤い帯のような印が刻まれていた。チリチリと熱を発するそれは、まるでメルセナの命令を待っているかのように淡く光っている。
レナも、メルセナと同じ場所を呆然と見ていた。赤い帯のなくなった自身の手首と見比べて、やがて事態を察した彼女は、怒っているのか、青白い顔からさらに血の気を引かせて震えだした。
「返してよ…」
地を這うような声だ。
「それがなきゃ、あの人を生き返らせてあげられないじゃない!返してよ!!」
「セーナ!」
髪を振り乱して襲いかかってくる黒髪の女を遮るように、黒いコートがメルセナの前に踊り出た。ひとつにくくった銀髪が舞い上がり、手にした剣がきらめいた。
「うちの娘に触れるな、魔女め!」
続けて近くの木の上から、冷徹な声が落ちてきた。
「エルディ、殺すなよ。そいつは神都の高等祭司のようだ。捕らえて神都への交渉材料にする」
「そうは言いますけど、この女、正気とは、思えませんよ!」
レナは目の前のエルディなど見えていないかのように、ただメルセナに鬼のような形相で向かおうとしてくる。彼女の振りかぶった爪が父の頬に赤い線を走らせるのを見て、とっさにメルセナは叫んでいた。
「やめて、パパを傷つけないでよ!」
手首がかっと熱を持って、メルセナの背後に、あの赤い門が現れた。ギルビスが目をみはって、鋭い声で言った。
「エルディ、伏せろ!」
「はやくいなくなってよ!」
メルセナの叫びに呼応するように、三つ首の獣は門から飛び出すなり、父の頭上を飛び越えてまっすぐにレナの胴体に噛みついた。ギャッと女の悲鳴がする。メルセナは両手で顔をおおってうつむいた。
ひらりと樹上から舞い降りたギルビスが、メルセナの手に自身の手を重ねて、優しくささやいた。先ほどの非情な口調ではない、いつもの穏やかなギルビスの声だ。
「セーナ、ゆっくり深呼吸するんだ。もう大丈夫、落ち着いて、吸って…吐いて…」
ギルビスに頭を抱えこまれて、彼のコートに焚きしめられた森の香りを胸いっぱい吸い込んで、ようやくメルセナはゆっくり息を吐いた。遠くで父の「待て!」という声が聞こえる。
「エルディ、深追いしなくていい。今はセーナについていなさい」
ギルビスの手が外れて、視界が開けた。恐る恐る顔をあげると、あの女も、獣も、赤い門もどこにもなく、ただ血痕だけが残されていた。
父がこちらに駆け寄ってきた。端正な顔に今は厳しい表情をのせて、父はメルセナの頬を打った。生まれて初めて父に手を上げられたメルセナは、のろのろとちっとも痛くない頰に触れた。
「私の言いたいことがわかるか」
震え声で問うてくる父に、メルセナはうなずいた。即座に父はメルセナを強く抱きしめる。
「無事でよかった」
「…ごめんなさい、パパ」
ギルビスは剣を収めると、メルセナの傍らに膝をついた。
「薬問屋の主人に感謝することだ。君を心配してわざわざ城まで来ていたよ」
「うん…」
「手首を見せてもらってもいいかい?」
父もギルビスも、差し出した手首の赤い帯がなにを示すのか知っている様子で、苦い顔になった。
「これは、どうしたんだい?」
「よくわからないの。最初はね、レナが…あの人の手首が赤かったの。あの人があの三つ首の化け物を呼び出して、もう食べられちゃうって思ったら、突然『これ』が私に移ったの」
「レナ…」
ギルビスはその名を復唱して顔をしかめた。
「レナ・シエルテミナか。よりにもよって」
「ギルビス様、あの様子ではまたセーナを狙ってきます。どこかに身を隠さなければ」
父の言葉に、ギルビスはしばらく考え込んでいたが、やがてひとつうなずいた。
「そうだな。すぐに巫子狩りが来る。エルディ、ゼルシャの村へ向かえ。運が良ければラディ殿下と合流できるはずだ」
この赤い帯をレナから意図せず奪ったことで、そんなに危険なことがあるのだろうか。黙ってなりゆきを見守っていると、ギルビスが印を隠すようにメルセナの袖を伸ばした。騎士団長の証である白いマントを脱ぐと、メルセナの肩にかける。小柄なメルセナでは丈が余ってしまい、地面に伸びた裾を見て彼は苦笑した。
「セーナ、ただのおつかいがとんだ災難になってしまったね」
「この印、いけないものなの?」
「悪いが今はゆっくり説明していられない。あとで君のパパが教えてくれるよ。だから今は、エルディの言うことをよく聞いて、少しの間辛抱してくれるかい?」
メルセナが頷くと、ギルビスはいつものように優しくほほえんで、メルセナの頭をぽんとひとつ叩いた。
「勇敢と無謀を履き違えるのはもうなしだ。私も久々に肝が冷えたよ」
「ごめんなさい」
「ギルビス様、ありがとうございます」
父が一礼するのにひらひら手を振って、ギルビスはお茶目に口角を上げてみせた。
「有休を消化するいい機会ができたじゃないか。さて、私は城に戻ろう。応援を呼んでこなければ」
「ギルビス!」
颯爽と立ち去ろうとする背中を呼び止めながら、メルセナは鞄を探った。薬草の入った袋と、金の入った袋をそれぞれ取り出して、メルセナはギルビスに押しつけた。
「これ、薬問屋に持っていくはずだった薬草と、救護室から預かってたお金なの。ギルビス、お手伝いできなくてごめんなさいって、伝えてもらえる?」
本来は騎士団長に頼むことではないが、男二人の話ぶりでは、このまま家に帰ることは許されないのだろう。さすがに持ち去ることはできないと思ってお願いしたが、ギルビスは首を横に振って袋を押し返してきた。
「持っていくといい、金なら私が立て替えておこう」
「でも…」
「なに、この街の者は皆、かわいい長耳のお嬢さんが大好きなんだ。君の役に立つのなら、少しくらい損をしたって誰も気にしやしないよ」
そう言っていたずらっぽく片目をつぶるので、メルセナは行き場をなくした袋をしぶしぶ引っ込めた。ギルビスは今度こそ身を翻した。
「では、セーナ。また元気に帰っておいで。君の行く先に幸があらんことを」
ギルビスは振り返らずに走り去っていった。体を包む彼の白いマントが静かに香りを失って行く気がして、メルセナはその裾をぎゅっと握りこんだ。