19
その夜、マユキの家に帰ってからも、ネルは一心不乱にチルタの日記を読みふけっていた。メルセナはうとうとする目をこすりながら、枕元で日記を広げるネルの袖を引いた。
「明日はもう旅に出るんだから、早く寝なさいよお」
「うん…でも、もうちょっとだけ」
若草色の瞳は、日記の文言をひと文字たりとも逃すまいとらんらんと光っていた。メルセナはそんなネルの横顔を見ながら、ふと気になったことを尋ねてみた。
「ねえ、クレッセってどんなやつ?」
「え?」
ネルは日記から顔を上げてこちらを見た。
「そんなに必死になって助けようとするんだから、よっぽどいいやつだったのよね。アンタ、そいつを助けたくて、わざわざインテレディアからラトメくんだりまで旅したんでしょ」
メルセナはネルのその情熱がちょっと羨ましかった。5年も前にいなくなった幼なじみを助けるために旅に出るなんて、それだけで物語みたいな美談だ。メルセナにはそんな相手はいるだろうか…ヒーラあたりがいなくなったら考えるかもしれないが、彼自身があの人外揃いの騎士団の一員だから、ちょっとイメージがつかない。
ネルは日記を閉じると、布団に潜りこんで語った。
「あのね、お兄ちゃんみたいなものだったの。デクレとわたしは喧嘩してばっかりだったから、間に入ってくれるのはいつもクレッセだった。うちのお姉ちゃんはそういうの、いつも知らんぷりだったし」
ネルとデクレとクレッセ。うつくしい幼なじみの世界がそこにはあった。彼女は過去に思いを馳せるようにそっと目を閉じた。
「デクレたちの家は小さい頃にお母さんが病気で死んじゃって、うちもお父さんがお仕事でずっといなかったから、わたしたち、家族みたいなものだった」
「ネルのパパ、何してるひとなの?」
「うーん、知らない。他の都市で働いてて、すっごく忙しくて帰ってこられないんだって。わたしが小さい時からだから、あんまり覚えてないんだ。ユールおじさん…デクレたちのお父さんがわたしのお父さんみたいなものだったかも」
それは離婚なのか死別なのか、ネルの父親が帰ってこないことの言い訳なんじゃないかとメルセナは思ったが、賢明にも口をつぐむことを選んだ。まあ、そこは本題ではない。
「デクレとは恋人なんでしょ?」
「こいびと?」
ネルがあんまりにもキョトンとしてこちらを見るので、メルセナも目を瞬いた。
「違うの?大切なひとっていうからてっきり」
「よく分かんない。でもね、クレッセとユールおじさんがラトメに連れて行かれちゃって、デクレはうちの家族になったの。デクレはうちの宿屋を継ぐつもりだったし、クレッセを助けて村に帰ったら結婚しようねって約束してた」
なるほど、恋人の段階をすっ飛ばして、すでに家族の枠に収まっていたわけだ。シェイルではもっぱら年頃の女の子は恋の話に花咲かせ、いろんなカップルが付き合っては別れていたものだけれど、インテレディアの小さな村の中では恋愛する相手はそのまま結婚に直結するのかもしれない。
「でも、もう無理なのかなあ」
「なんで?」
反射的に尋ねて、メルセナはすぐにしまったと唇を噛んだ。そういえばデクレは行方不明だ。結婚どころか生死すら分からない。
青ざめるメルセナに、ネルは慌てたように言った。
「あ、あのね、違うの。デクレはちゃんと舞宿塔の偉いひとに保護されて無事だって、レインさんから連絡がきたの。だから心配しなくても…いいん、だけど…」
なんとラディ王子が見つけられなかったデクレのありかは、あの神護隊長が突き止めてくれたらしい。メルセナは彼女に悪いニュースを告げることにならないでほっとしたが、婚約者の無事が分かったにしてはネルの表情は暗かった。
「なによ」
「舞宿塔って…きれいな女のひととか、いるかなあ」
「はあ?」
ネルはもぞもぞとうつ伏せになると、枕に顔をうずめた。
「デクレは、本当は神都の学校にだって行けるくらい頭がいいし、働き者だし…わたしなんかと結婚しなくても、他にもいっぱい素敵な人がいたら、そのひとを選んじゃうよね」
まさかとは思うが、クレッセを助ける旅に出ている間に、よその女に婚約者を取られる心配をしているのか。メルセナは口をあんぐり開けてネルを見た。
「アンタ、心配するのはそこなの」
「も、もちろんクレッセを助けたいのは本当だよ!巫子のことだってまだ全然わかんないし、たくさんやらなきゃいけないことはあるし」
だけど、とつぶやいて、ネルはへにゃりと情けない顔になった。
「わたし、きれいじゃないし、頭もよくないし、宿の手伝いだってへたくそだし。次にラトメに行ったときに、デクレが別のひとと結婚してたらどうしよう」
昼間まではクレッセを救うか否かで揉めたばかりだというのに、ネルの心配ごとはまだまだ尽きないらしい。メルセナはなんだかおかしくて、ネルには悪いが声を上げて笑ってしまった。
「笑いごとじゃないよお」
「ごめんごめん、確かに世界を救ったところで、婚約者と結婚できなきゃ報われないわ。ま、そのときはもっといい男を探したら?うちのパパとかお買い得よ」
「やだ!デクレじゃなくちゃ」
メルセナとネルは、いつの間にか眠ってしまうまで、とりとめのないことを話した。妹がいたらこんな感じなのだろうか、うとうとと心地よい夢の世界に落ちながら、メルセナは充足感に包まれていた。
◆
「起きて、セーナ!起きてー!」
翌朝、寝不足のメルセナはネルのけたたましい呼び声で目が覚めた。耳元で大声を聞かされて、ぐわんぐわんと揺れる頭を押さえながらメルセナはまだ半分以上目を閉じたままぼやいた。
「まだ寝かせてよ…」
「だめだよ、今日は旅立ちなんだからちゃんと起きないと。みんな待ってるよ」
ネルだって一緒に夜更かししたのになぜそんなに元気なのか。もそもそ億劫に服を着替え、ネルに引きずられるようにして連れ出されたメルセナはぼんやり思ったが、食卓に着く頃にはふたたび意識を失っていた。
それでも朝食を済ませて、いざ旅立ちという段になればある程度目が覚めてきた。マユキの家の玄関から出て伸びをすると、父が呆れたように娘を見下ろしてきた。
「夜更かしするなって言っただろう」
さすが、20年もメルセナを見てきた父には、娘の寝不足などお見通しだ。メルセナはぺろりと舌を出した。
「仲間との関係を深めていたのよ」
「途中でバテても知らないからな」
言いつけを守らない娘の愛嬌は通じないらしかった。メルセナはごまかすように咳払いして顔をそむけた。これはお説教が始まりそうな流れだ、どう回避したものかと考えあぐねていると、頭上から叫び声が落ちてきた。
「セオー!!!」
見上げると、グレーシャが寝巻き姿でボサボサ頭のまま、窓を開け放ってこちらを見下ろしていた。見送りのために戸口にいたマユキが、顔をしかめて息子の部屋を見上げた。
「ちょっと、朝っぱらから大声出さないで!」
「あのさあセオ、お前がこれからどんな旅に出るかわかんねえけど!」
グレーシャは母親の苦言を無視して拳を突き上げた。
「お前が何やったって、俺はずっと友達だからな!だからちゃんと帰ってこいよ!」
ルナセオはぱっと顔を上げて、それから気恥ずかしそうに自分も腕を上げた。今まででいちばん、平凡な学生らしいルナセオの表情を眺めていると、メルセナはなんだかもやもやした。
「…私、なんだか自信がなくなってきちゃったわ」
「なにがだ?」
「街のみんなとうまくやってると思ってたけど、あんな感動的な台詞を言ってくれる友達なんていたかしら。私の交友関係ってすっごく浅い気がしてきたわ」
「ああ…まあ、女の子と男の子じゃ、また違うだろうが」
気まずそうに父が言った。
不死族やエルフを街の一員として受け入れるくらいの度量といえば聞こえはいいが、シェイルのお嬢さんたちは軒並みサバサバしていて、物語に出てくるような固く誓い合う友人関係などは皆無だ。おそらくシェイルに帰っても、「あらセーナ、しばらくいなかったけどどこに行っていたの?」などとサラリと言ってくることだろう。
別にだからといって皆が冷たいということではないが、それでも人生で一度くらいはグレーシャくらい熱い友情の言葉を言われてみたいものだ…父が頭上でため息をついた。
「いるだろう、いかにもセーナを心配した挙句旅にくっついてきそうな暑苦しい友人が」
「誰?」
聞き返すと、父に呆れた様子でこちらを見下ろされた。天の使いと見紛う美青年からこうも冷たいまなざしで見下ろされるとなかなかに胸が痛くなる。
しばらく父の顔を見つめてからようやく合点がいった。
「ああ、ヒーラのこと?ダメダメ、ヒーラに巫子になったなんてとても言えないわ!私がパパより強い人が好きって言ったら本当に一等騎士になっちゃうくらいの直情型なのよ?私が巫子になったと知ったらなにをしでかすか分かったもんじゃないもの」
ヒーラのことだから、旅の同行どころか自力で9番を捕まえてくるくらいのことはやりそうだ。なまじ最年少で一等騎士にのぼりつめただけあって、彼の実力は並の騎士では追いつかないほど高い。
「そうじゃなくて、もっとこう…ふとしたときに私のことを思い出して、セーナ、頑張ってねって空に向けて祈ってくれるくらいでいいのよ」
「報われないな、あいつも」
「おい、ちんくしゃ!」
その時、グレーシャが窓から落としたものが、メルセナの頭に激突した。
「痛った!なにすんのよ!」
見下ろすと、どうやら図鑑のようだ。そこそこの厚さがある。不老不死だったからよかったものの、打ちどころが悪ければ危ないところだったのではなかろうか。
「それ、持ってけよ。幻獣図鑑」
グレーシャはメルセナの文句など意に介した様子もなく言った。ぱらぱらめくると、昨日召喚した羽毛ヘビも、例の三つ首も載っていた。
「なんかの参考くらいにはなんだろ」
「ねえ、こんな重たい荷物を持って行けっていうの?」
ありがたいが、メルセナの鞄にはすでにチルタから預かった魔弾銃も入ってパンパンの状態だ。シェイルまで図鑑一冊抱えて歩けとでも言うのだろうか。
父がひょいと図鑑を取り上げた。
「私の荷物に入れよう。それにしても、なぜ彼が、セーナの印に宿った能力が召喚術だと知っているんだ?」
メルセナも、隣にいたネルもルナセオも一斉にぎくりとして視線をあさっての方向に向けた。こんなことなら、あらかじめ3人でごまかし方を考えておくんだったわ。後悔先に立たず、メルセナは重苦しく言った。
「…な、内緒」
◆
ところ変わって、シェイルディア首都クレイスフィー。
旧王家王城の騎士団詰め所で、しばらく帰っていない長期休暇中の部下からの手紙に目を通したギルビスが声を上げた。
「おや、セーナたちがシェイルに帰ってくるようだよ」
「えええッ!?」
紅茶にありったけの砂糖をぶちまけていたヒーラの手元が狂って、砂糖の器がティーカップに真っ逆さまに突っ込んだ。
「ほ、ほ、ほ、本当ですか、ギルビス様!」
「本当だけど、ヒーラ。その紅茶は残らず飲み干すこと」
「やったー!」
上司の視線は哀れなティーカップに注がれていたが、最年少の優秀な一等騎士は聞いちゃいなかった。両手を高く挙げて踊り狂っている。
「やっとセーナに会えるんですね!」
「こちらもエルディ宛の書類の置き場に困っていたところだ。徒歩でレクセから帰るらしいから、もう半月はかかるだろうけれど」
娘に付き添ったまま帰らない部下の机は、うず高く書類が積み上がっていた。急ぎのものは他の騎士たちで分担して引き継いでいるとはいえ、帰ってきたら是非とも馬車馬のようにキリキリ働いてほしいものだ。
それにしても…ギルビスは手元のブリオッシュをちぎりながら、ちらりと手紙を見た。
「レクセから徒歩で帰りとなると…道中で王殿下に遭わなければいいんだが」
ギルビスのつぶやきは、あいにく狂喜乱舞しているヒーラの耳には届いていなかった。