17
トレイズという男は、元9番のチルタとは因縁の仲らしい。
「なんかお互いに仇らしいよ」
ルナセオは軽い調子でそう言ったが、その仇の息子を連れ歩いていた事実はもちろんトレイズ本人は知らない。あのいかにも融通の利かなそうな男が真実を知ったら激昂するのではないだろうか。
そんなわけで、チルタ・ルナ夫妻に会ったことはトレイズには黙っておくようにとマユキから子供たちに厳命が下され、ついでにグレーシャは学校に叩き出されていった。グレーシャが肩を落として登校していく背中を見送りながら、メルセナはルナセオに尋ねた。
「あのトレイズってやつ、パパの昔の上司って聞いたけど、なんだってあんな浮浪者みたいな見た目なわけ?」
「へー、セーナのパパって神護隊にいたんだ。だからトレイズと知り合いだったんだな」
「そこじゃないわよ、あれじゃ不潔を通り越して不衛生だって言ってんの」
思えばあのトレイズも謎だ。ラトメで出会った人々は、レインといいエルミといいレフィルといい、できうる限りお近づきにはなりたくない曲者ばかりだった。一方、トレイズは頭が固そうではあるが正義感の強い根っからの善人に見えた。ルナセオのことは巫子を保護する仕事で連れ歩いていたようだが、彼自身、面倒見のいい性格なのは少し話しただけで分かる。
ルナセオは天井を仰いだ。
「ホントにね。トレイズのやつ、まずはあのマントを買い換えるべきだよな、いつから洗ってないんだろ」
「あの…腕が片っぽしかないから、しょうがないんじゃない?」
おずおずとネルが口を挟んだ。メルセナは目を剥いた。
「えっ、あの人、片腕だったの?」
「そりゃそうか、片腕じゃ髪洗うのも髭剃るのもひと苦労だよな」
ルナセオは納得顔でうんうん頷いている。ずっとマントを羽織っていたから気づかなかった。なるほど、確かに隻腕ではひとりで生活していくには不便だろう。それでもあの薄汚れた身なりはいただけないが。
そんな噂をされているとは知らず、父とともにマユキの家を訪れたトレイズは、「世界王と謁見するために、まずはロビ殿下に会いに行きたい」と主張する子供たちにまず顔をしかめた。
「確かに今のところ居所が分かってる巫子なんて10番くらいだけどな、ロビの奴が素直に繋ぎを取ってくれるもんかな…あいつ、人の願いは叩き折るのが趣味みたいな男だぜ?」
「世界王のご子息がそんな性格だなんて、この世界の行く末が心配だわ」
メルセナはガラガラと崩れていく王子様像に肩を落とした。すると、黙って話を聞いていた父が口を挟んだ。
「それなら、シェイルの王殿下にご助力を願うのはどうだろう。いくらロビ殿下といえど、王殿下の頼みであればむげにはできないはずだ」
「世界王の繋ぎを取ってもらう人のさらに繋ぎを取ってもらうのか。なんか回り道だなあ」
とはいえ、ほかにあてがあるわけでもなし、次の目的地はシェイルディア首都クレイスフィーということになった。やっとシェイルに帰れるわ!メルセナはわくわくしたが、興を削ぐようにトレイズが厳しい顔で続けた。
「だが、9番を助けるっていうのには反対だ。そんな悠長なことを言ってて、いざ被害が起きたらどうするんだ?」
「でも、クレッセは何もしていないんだよ?それなのに倒すなんておかしいよ」
ネルが果敢に言い返した。しかし、この内気そうな子が渾身の勇気を出しただろう台詞を、トレイズは一蹴した。
「なにかがあってからじゃ遅いんだよ。酷なことを言うようだが、ことが起きたときに、お前たちは犠牲になった人に顔向けができるのか?」
「それは…でも、トレイズたちだって、とう…9番を倒さなかったんだろ?じゃあ、わざわざ9番の命を奪わなくたってさ」
「43人だ」
トレイズの出した数字がなんのことか分からなくてみんなで首を傾げた。
「なにが?」
「チルタ…俺たちの代の9番が殺した人数だ」
思わず父を見ると、父もゆっくりと頷いた。あの優しげなルナセオの父が、過去にそれだけの人数を手にかけたというのがピンとこなかった。
「あいつが殺したのが、全部善良に生きてきた無辜の民ってわけじゃない。それでも、結局あいつは、9番であることを放棄したばかりに、その罪を裁かれないまま今までのうのうと生きている」
トレイズの金の瞳は憎しみでギラギラしていた。「お互いに仇」というからには、その43人の中にはトレイズの縁者も含まれているのだろう。彼はきっと、チルタが救われたことによってバッドエンドを迎えた側の人間なのだ。
だが、トレイズの言葉を聞いていて、メルセナはだんだんイライラしてきた。娘がいつ爆発するか、父がハラハラしながらこちらをチラチラ見てくるが、知ったこっちゃない。
「さっきから聞いてれば、あれやこれや勝手なことばっかり!」
「おい、セーナ…」
案の定とばかりにため息をついて手を伸ばしてきた父の手を振り払って、メルセナはトレイズを強く睨んだ。
「『被害が起きたら』『ことが起きたときに』、ぜんぶ、ぜーんぶ、想像の域じゃない!これまでそうだったからって、9番が確実に人殺しになる証拠でもあるわけ?それにアンタ、仮にそうだったとして、大切な人が世界を滅ぼします、だからその人を殺してくださいって言われて、ハイそうですかって頷けると思うの?」
「だけど、そいつが9番の印を持っている以上…」
「アンタの思いやりがないって言ってんのよ!こちとら動物の屠殺すらやったことないのよ。アンタも大人なら、自分都合の事情ばっかり押し付けないで人の顔色くらい伺ってみたらどう?」
「なんだと…」
トレイズの表情も剣呑になってきた。メルセナは椅子の上で仁王立ちしてフンと鼻を鳴らした。
本音を言えば、トレイズの言い分が理解できないわけではない。今は温和なチルタは、過去にはマユキに「悪魔みたい」と言わしめるような男で、何十人もの人間を手にかけた。9番は本当に、どんな優しい人間でも「そう」なってしまう存在なのかもしれない。そのうちクレッセもたくさんの人を殺めて、皆を絶望に叩き落とすのかも。それが決まっているのなら、誰も被害を出さないようにあらかじめ9番を倒しておけという心理は分かる。木を育てるのに不要な枝を間引くのとおなじようなものだ。
けれど、それを今、よりにもよって9番のおばの家で、9番の幼なじみに正面から突きつける、トレイズの人間性がひどく癪に触った。
「前の9番が43人殺した?だからなんだっていうのよ。私は9番を救うって決めたら、そいつが誰かを殺すのを止めに行くし、何かが起こって世界中から責められることも覚悟の上よ。どっちにしろ人殺しになるっていうんなら、私はいくらだって足掻いてやるわ!」
「セーナ…」
ネルの若草色の目からぽろりと一粒の涙がこぼれた。メルセナは腕を組んで、高い視点からネルとルナセオを見下ろした。
「いい?ネルにセオ。私たちが9番を助けるのは、そいつが誰かを傷つけるその時まで。そして誰かが傷つくとしたら、それは私たちみんなの罪よ。その時は私たち、9番を倒すのをためらっちゃいけないわ」
線引きは必要だ。9番が本当にトレイズの言う通りの「悪」なら、メルセナたちは覚悟を決めなくてはならない。けれど、それを見極められるまでは、ハッピーエンドを夢見たって許されるはずだ。
すると、台所のほうから押し殺すような笑い声がした。見るとマユキがトレーに人数分の茶器を持って現れた。
「頼もしい巫子様じゃない。いいでしょうトレイズ。この子たちの好きにさせてやりなさいよ」
「だけどこいつらの言い分は、少なくとも一人は犠牲を出す前提だ!」
「そもそもあなたの言い分も、クレッセが犠牲を出す前提の話でしょ。何のためにうちの旦那が9番を保護したと思ってるのよ。あのままラトメに置いておいたらあの子、巫子が揃う前にまずラトメを滅ぼしていたわよ」
マユキのきっぱりとした反論にトレイズはたじろいだ。彼女はお茶を各々のカップに注ぎながら、メルセナに優しくほほえんだ。
「ありがとう、うちの甥っ子を救おうとしてくれて。あの子はすごく優しくて、いつもデクレとネルを引っ張ってあげてて…」
話の途中で、マユキはくるりとメルセナたちに背を向けると、押し殺すような声で「ごめんなさい」とつぶやいた。
そこでようやく、トレイズも自分の思慮のなさに気づいたらしい。ばつが悪そうに「悪かったよ…」と顔を逸らした。女性の涙には弱いらしい。
間をとりなすようにルナセオが明るく尋ねた。
「それより、トレイズは大丈夫なの?本当はラトメに巫子たちを連れて行くのが仕事なんだろ」
「こんなところでお前たちを放っておくわけないだろ。レフィルには、暴動が起こって危険だから、しばらくラトメには戻らないと手紙を飛ばしておいた。あいつの目的もよくわからないしな」
そういう付き合いのいいところを見るに悪いやつではないのだろうが、メルセナはすっかりトレイズのことが嫌いになってしまった。当面は彼と一緒に旅しなければならないのかと思うと気が重い。
メルセナは唇を尖らせて憎まれ口を叩いた。
「こっちは別にアンタなんていなくていいんだけど」
「いーや、お前らだけじゃどんな無茶するか分かったもんじゃねえからな。俺も当分は付き合わせてもらうぜ」
ジリジリとふたりの間で火花が散っているのに、父が諦めた様子でため息をついた。
「シェイル王殿下に拝謁が叶うよう、ギルビス様には連絡しておく。シェイルまでは徒歩になるから、みんな体を休めておきなさい」
◆
「ラディ王子から返事は来たの?」
帰り際にこっそり父に尋ねると、父は懐から手紙を取り出した。
「すでにシェイルへお戻りのようだ。残念ながら、あの少年は保護できなかったらしい」
「そう…」
手紙を覗き見ると、美しいレタリングで、こちらの身を案じる文面からはじまり、舞宿街まで追いかけていったが少年は見つからなかったこと、暴動の余波が舞宿街まで広がり、危険を避けるためにラトメを離れざるをえなかった旨が書かれていた。
「これはネルには言えないわね」
ただでさえ落ちこんでいる様子のネルに、さらにこのニュースを聞かせるのは酷だろう。父は手紙を折りながらじっと娘の顔を見つめた。
「何かあったのか?」
「な、なんで?」
まさか朝のできごとがバレたのだろうか。どぎまぎしながら父を見返すと、彼はその美しいかんばせを柔らかく緩めて、メルセナの頭を撫でた。
「セーナが隠しごとをしているとすぐに分かる。父親だからな」
「う、うそっ」
ムニムニと頬を触っていると、父はくすりと笑った。メルセナの焦りはよそに、父のほうは深く追及するつもりはないようで、ぽんぽんメルセナの頭を叩くと離れていった。
「あまりトレイズさんに突っかかるなよ、セーナ。あの人もなにもお前たちを傷つけたくてああ言ってるわけじゃない」
「それは分かってるけど」
たぶんトレイズとは相性が悪いのだ。くちびるを尖らせてごにょごにょ言葉をこねくり回していると、父はちらりと時間を気にするように空を見上げた。
「明日は旅立ちだ。今日はゆっくり休みなさい。くれぐれも、夜更かしはしないように」
「う、うん」
まさか父は分かっているのだろうか、今夜メルセナたちがチルタが残したという日記を読みに抜け出すつもりだということに。