16
幼い頃は、街のお嬢さんともあまりうまくいかず、だからといって仕事の忙しい父の邪魔をすることもできず、日中はもっぱら城の図書館で過ごしていた。
本はいい。ほかの人たちの歩幅に合わせて歩けない小さなメルセナを、空想の世界へどこまでも連れて行ってくれるから。物語の中ならメルセナはなんにでもなれた。お姫様にも、勇者様にも、探偵にも、平凡な人間にも。
本棚の中には数えきれないくらいの世界があって、無数の作家の頭の中で生まれたフィクションが紙の束に収まっているのかと思うといつもワクワクする。街の人たちと仲良くなり、城のお手伝いをするようになって、現実の世の中にも物語はあふれていると知ってからも、メルセナは相変わらず読書が趣味だった。
現実の物語だってそれは胸躍るものだけれど、本にはちゃんとエンディングがある。ハッピーエンドの後に登場人物がどうなったかなんて、読者が好きに想像を膨らませればそれでいいのだ。
「あのねあなた、私、パンケーキが焼けるようになったのよ。今日はちょっと失敗しちゃってセオに助けてもらったんだけど」
「そうかい、セオの料理はいつもおいしいけど、君の手料理も食べたいなあ。僕にも作ってくれるかい?」
だから、目の前で昔の9番が奥さんとイチャイチャしてる姿なんて、そんなおとぎ話の後日談は目の前で見たいわけじゃないのよ。メルセナは内心の思いを口に出すのをぐっとこらえた。
ルナセオの両親は新婚気分とはかくあるべきかというべったり具合で、外野の視線などものともせずにニコニコラブラブしていた。父もいずれ奥さんができたらこうなってしまうのだろうか、あまり想像したくない。
気の毒な息子はわなわな震えながらテーブルを叩いた。
「そうじゃなくてぇ!」
チルタ・ルナ夫妻は目を丸くして息子を見た。
「あらあら、だめよセオ、テーブルを叩いちゃ」
「そうだよセオ、手を痛めてしまうよ」
「そういう話をしてるんじゃないんだよ…」
呑気な少年だと思っていたが、案外苦労している一面もあるのだというグレーシャの言は間違っていなかった。メルセナはかわいそうなルナセオの背を叩いた。
荒れ放題のリビングを申し訳程度に片付けて一服している間に、緊迫した空気だったはずのルナセオの両親はすっかりこの調子だ。グレーシャの落ち着き払った様子から、これが通常運転の見慣れた光景らしい。
マユキが呆れた様子で昔の敵と仲間に苦言を呈した。
「アンタたち、呑気なこと言ってないで、もう少し息子の役目に親身になったらどうなの。あの女が襲ってきたことに心当たりとかないの?」
「あるわけないよ。僕だってレナは死んでると思ってたし」
かつては彼女のために世界まで滅ぼそうとしていたとは思えないほど、チルタはケロっとしていた。ふつう、自分の留守中に奥さんの元に初恋のひとが押しかけてきたら、もう少し動揺するものではないのだろうか。
「でも、あれは普通の生者じゃないねえ。神都は彼女を高等祭司に登用してなにを考えているんだろう」
「トレイズは神都は敵だって思ってるみたいだけど」
ルナセオはそう言ったが、メルセナはそれには懐疑的だ。昨日ラトメで聞いた話の限りでは、神都だって一枚岩ではないように思われる。
チルタはティーカップのふちを指でなぞりながら言った。
「そりゃあいつはそう言うさ、ラトメ至上主義の反神都の筆頭みたいな奴だし。でも、僕の知る限り、世界王陛下がむやみに巫子を害すようなことを指示するはずないし、公平で冷静なお方だよ」
「世界王!?すげえ、おじさん、世界のトップに会ったことあんの?」
グレーシャが身を乗り出した。
「まあね、セオたちも会うことになると思うよ。世界王陛下は巫子の10番だから」
私たちみたいな一介の子供が世界王に拝謁!?メルセナもルナセオもギョッとしたが、ネルひとりだけよくわかっていないようだった。
「そのセカイオー・ヘーカさんってえらい人なの?」
いくら田舎娘だからっておおらかが過ぎる!メルセナは思わずネルの肩を揺さぶった。
「世界王を知らないとかある!?いや、私も名前とか知らないけど!要するにこの世界の王様よ!誰よりもえらいの!」
メルセナがシェイルの旧王家の一員であるラディ王子と行動を共にしたことだって本当は平民にあるまじき大事件だが、世界王はもはや次元が違う。なにせこの世界で最も権力と地位のある存在で、対してメルセナたちなんて陛下の前では吹けば飛ぶような雑草みたいなものだ。
だがしかし、その事態をよく分かっていなさそうな人物がもうひとり存在した。ルナセオの母、ルナである。
「そうねえ、陛下にお会いすれば、なにかいいお知恵をお借りできるんじゃないかしら?9番を倒すにしろ救うにしろ、きっとお考えをお持ちだと思うわ」
「あのさあ母さん、世界王だよ?近所の友達に会いに行くんじゃないんだよ。お城の正面から入っていけるの?巫子だから入れてくれって?俺たち捕まって牢屋に連れて行かれちゃうよ」
ルナセオが至極まっとうなことを言った。いくら巫子の仲間だからといって、メルセナたちのような子供は神都の宮殿の入り口にだってたどり着けなさそうだ。
大人3人が顔を見合わせてなにやら相談しはじめた。
「誰かに繋ぎをとってもらうとか?」
「ラファ君に頼めばいいじゃないか、高等祭司なんだし」
「うちの旦那は9番を連れてるのよ?さすがに他の巫子の手助けはしないわよ」
「じゃあ…ロビ殿下は?確かトレイズ・グランセルドと旧知だったはずよね」
「ああ…」
明らかにマユキとチルタの声のトーンが落ちた。そのロビ殿下とやらは何者か、子供たちの視線に観念したようにマユキが口を開いた。
「ロビ殿下は昔の巫子の仲間で、世界王陛下の一人息子なんだけど、なんて言ったらいいのかしら…癖が強い」
「なにかを頼もうものなら見返りになにを求められるかわかったものじゃない」
マユキとチルタは同時にはあ、と深いため息をついた。ずいぶんと実感のこもった言い回しだが、巫子だった頃に何事かあったのだろうか。
「でも確かに、そうね。ラトメが当てにならない以上、巫子は自力で集めなきゃならないわ。神都でなにが起こってるのか確かめるためにも、ロビ殿下に会うのがいちばん手っ取り早いのかも」
マユキが諦めたように言う以上、癖はあるけれど信頼はおける人物なのだろう。確かに、世界のどこに巫子がいるのかまったくあてもないのに、メルセナたちだけでそれを見つけろというのは到底無理な話だ。
世界王子ほどの地位があったらなんでもできそうだわ…未だ見ぬ「ロビ殿下」の姿に思いを馳せていると、ネルが何か主張したいことがあるのか、椅子の上でモゾモゾしだした。
「ネル、父さんになにか言いたいことがあるの?」ルナセオが助け舟を出した。
チルタが少し身を乗り出してほほえむと、ようやく勇気が湧いたのか、ネルが口火を切った。
「あの…チルタさんは、9番だけど、生き残ったんだよね?9番の資格を失ったから。それなら、クレッセを助けられるなら、巫子を全員集める必要なんかないんだよね?」
「確かに!」メルセナは思わず両手を打った。「ネルったら冴えてるわ。それだったら9番のほうだけ追っかけてればいいんだもの」
9番からその資格を奪う方法を試すのなら、巫子全員を集めるなんて悠長なことをしなくても、ただ9番の説得をすればそれで事足りるのだ。これは思ったより楽になりそうだとメルセナは思ったが、期待して見上げたチルタはほほえんでこそいたけれど、どこか硬い空気を感じた。
「ネル。君のような優しい子が巫子になって、今代の9番は幸福だと思うよ。
だけど、おじさんと約束してくれるかい?9番を助けようとするのは、今代の9番が誰かを傷つけるその時までだって。何かが起こったときのために、残りの巫子を探すことを諦めないって」
「…クレッセが、誰かを傷つけるなんて…」
ネルは両手でカップを握り締めたまま、震え声で反論しようとしたが、言葉尻が消え入るようだった。それはそうだ。ネルだって、幼なじみとはいえ、今の9番をよく知るわけではない。
「9番は誰かを傷つけずにはいられないし、世界を滅ぼさずにはいられないんだ。今はラファ君の魔法で抑えられているのだとしても、巫子の力をいつまでも制してはおけない。いずれそのクレッセ君は、必ず誰かを傷つけるし、そのとき、君は自分の選択を深く後悔することになるかもしれない」
チルタの口調はとても優しくて、ネルのために言葉を選んでいるのを強く感じた。けれど、言っているのは要するに「希望を持つな」とそういうことだ。
「僕は9番だった頃、多くの人々を手にかけた。彼ら自身も、僕を恨む人たちも、ひとり残らず覚えてる。それが9番の意思によるものだったとしても、報いは受けなきゃならない。こうして今の僕が幸せでいられるのは、たくさんの人たちの犠牲と、努力と、諦めの上に成っているのだと、僕は一秒たりとも忘れてはいけないんだ」
ああそうか、メルセナは先ほどマユキが言っていたことを思い出した。奇跡はそう何度も起こらないし、現実はそう簡単にめでたしめでたしじゃ終わらない。傍目から見れば、悪者が改心してハッピーエンドでも、チルタを憎むひとからすればむしろそんなバッドエンドはない。
ネルもその可能性に思い至ったのだろう。しばらくチルタと見つめあっていたが、やがておなじみのうつむき顔で、情けなく眉をハの字に曲げた。
「だけど、わたしは、クレッセを殺したくない…」
メルセナはドキリとした。グレーシャの言うとおり、役目を果たすならそれは人殺しになるということだ。ぼんやりしたネルでもそれをわかっている。否、彼女がいちばんよく理解しているのかもしれない。都合のいいハッピーエンドに至れる可能性は低いかもしれないことを。
皆が二の句も継げない中で、チルタはふと妻に尋ねた。
「ルナ、鍵はもう渡したのかい?」
「ええ。セオに持たせたわ」
鍵?ルナセオを見ると、ポケットから小さな鍵を取り出した。はがれかけた金メッキの、なんの飾り気もない簡素な鍵だ。
「ちょっと恥ずかしいけど、あの日記には当時の僕の思いをすべて込めた。あれを読めば、君たちは9番というものを正しく理解できるだろう」
「…日記って?」
ネルにこっそり聞くと、「チルタさんの9番だったときの日記を隠してあるんだって」と答えが返ってきた。9番の日記!メルセナは好奇心でドキドキしてきた。
さらに、チルタはリビングから出て行って、布にくるんだ小さな包みをメルセナに差し出した。大きさの割にずっしりと重い。
「これは君に。必要になったら使うといい」
包みを開くと、中身は黒い筒に持ち手がついたような奇妙な形状の物体だった。ルナセオだったら片手で持てるだろうが、メルセナの小さな手では両手でないと重くて手首が痛くなってしまいそうだ。
「これは魔弾銃という、“不死”をも殺すと言われる特別な武器だ。もちろんこれで9番を倒せるわけではないけれど、何かあったときの身を守るすべになるはずだよ」
「不死をも殺す…」
メルセナは思わず唾を飲み込んだ。つまりこれは、先日父を傷つけたあの武器と同じものだ。不死族を唯一殺すことができる武器。威力はメルセナもよく知っている。
最後に、彼はもう一度ネルに念押しした。
「いいね?ネル。この先、君がどんな道を選ぶとしても、巫子たちを、君の仲間を探す努力を怠ってはいけないよ。それがきっと、君の力になるはずだから」
◆
「悪かったな」
チルタとルナの見送りを受けて帰路についていると、隣を歩いていたグレーシャが出し抜けに言った。
「なにが?」
「お前らが、進んで人殺しになろうとしてるみたいなこと言って」
彼を見上げると、バツの悪そうな顔で前髪をいじっていた。意地っ張りの宿命か、かたくなに明後日の方向を見ている姿がなんだかおかしくて、メルセナはクスリとした。
「アンタだって混乱してたんでしょ、しょうがないわよ」
前を歩くネルとルナセオの背中はメルセナよりずっと大きいけれど、彼らはメルセナより年下の子供だ。彼らが傷つかなければ、別に自分がなにを言われたってへっちゃらだ。もともと、メルセナは人になにか悪口を言われようものなら面と向かって言い返すタイプだ。
「それに、私は自分の役目をあんまり重く受け止めてなかったもの。9番を倒さなきゃならないって言われても、そこまで深く考えちゃいなかったわ」
9番がどこにでもいる普通の人間で、彼にも人生があって、彼が死ねば周囲に悲しむ人がいるのだと、想像してみたこともなかった。特別な印に選ばれて、ちょっとばかり浮かれていたのだ。それがとんだ貧乏くじなのだと気づいていなかった。
「ちんくしゃ…」
「アンタ、そんな気遣うような声で人をちんくしゃ呼ばわりすんじゃないわよ」
本当に失礼なやつだ。メルセナはグレーシャを肘で小突いたが、今度はやり返してこなかった。