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「アイツ、生き霊!?いや、幽霊屋敷の幽霊!?」
「魔女よ、魔女!」
「嘘つけ!どう考えても生きてるヤツじゃねえよ!」
いずれにしてもまともな人間ではないのは間違いない。全速力で道を駆け抜けて、二人は角を曲がってすぐの物陰に隠れた。
「お前あんなヤバそうなやつに何やらかしたんだよ?」
「どうでもいいでしょ、とにかく逃げなきゃ。宿ならパパたちがいるけど、マユキさんの家に戻る?」
トレイズの力量がいかほどかは知らないが、父ならレナをやっつけてくれるだろう。しかし、グレーシャは首を横に振った。
「宿は反対方向だ。それよりセオんちのほうが近い。おばさんに匿ってもら…」
グレーシャの言葉が最後まで続く前に、彼の背後に積み上がった木箱が爆発した。煙の向こうで、レナが見開いた目をこちらにまっすぐ向けて、ケタケタ笑っている。
「追いかけっこ?素敵ね、一緒に遊びましょう」
彼女の手のひらから飛び出た氷の刃が足元に突き刺さる。あとほんの少しずれればメルセナの足の甲に突き刺さる位置だ。
即座にふたりでその場を逃げ出したが、レナは楽しげに氷を撒き散らしながら追いかけてくる。彼女の言うとおり遊んでいるつもりなのか、どんなに必死で走っても距離を離すことができないが、逆にあちらから距離を詰めてくることもない。
グレーシャが叫んだ。
「なんかないのかよ!?」
「なんかって、言ってもォ!」
メルセナは右手で左手首を握って考えた。こんな街中であの凶暴そうな三つ首の獣を出すわけにはいかない。もっとほかにないのだろうか。街に被害を出さず、レナを撃退できそうな仲間が出せれば…
その時、メルセナの脳裏に、昨日父が呼んだ大鷲がよぎった。ああ、あんな感じの強そうな鳥につついてもらったら、レナも諦めてくれないかしら!
手首が熱くなったと思うと、目映い光とともに背後に赤い門が現れた。バタンと大きな音を立てて勢いよく扉が開くと、中から現れたのはあの「三つ首」とは別の獣だった。
メルセナくらいなら丸呑みできそうなほど巨大な、蛇とも鳥ともつかない生き物だ。身体は鱗ではなくびっしりと羽毛で覆われ、鮮やかな緑の翼が生えている。
「羽毛ヘビ!すげーっ、伝説の幻獣じゃん!」
「なんですって?」
「お前、幻獣図鑑読んだことないのかよ!」
あいにくとメルセナの好みは小説なので図鑑は専門外だ。羽毛ヘビとやらはキュイと高らかに鳴くと、突風のように猛然とレナに突っ込んでいく。もろに強い風を受けた彼女は後ろにひっくり返った。グレーシャが拳を握った。
「やりィ!今のうちに行こうぜ!」
グレーシャは「こっちだ!」と言いながらメルセナを先導した。路地を走ると、街もすでに起き出しているのかちらほら歩いている人を見かける。たまたま人通りがなかったから良いものの、あの羽毛ヘビを人に見られていたらメルセナのほうが魔女だと思われそうだ。
「伝説の幻獣って、アレ、そんなにすごいの?」
「知らないで、やってたのかよ!ますます、意味分かんねえな、お前」
ふたりして息を切らしながらたどり着いたのは、こぢんまりとしたレンガ造りの家だ。ネルが見たら「畑も作れないし家畜も飼えない」とでも言いそうなかわいらしい小さな家がルナセオの実家らしい。グレーシャは迷いなくノッカーを叩きつけた。
「おばさん!おばさん、いる?」
「ねえ、ちょっと、あいつ、まだ、追ってくるわ」
ゼイゼイしながら背後を振り返ると、遠くに黒い帽子が見えた。扉が開いたところでグレーシャとふたりで転がりこむと、玄関口で立ち話でもしていたのか、何人分もの足が見える。
「グレーシャ、セーナ、どうしたんだよ」
膝に手をついて肩で息をしていると、頭上からルナセオの声がした。
「はあ、はあ…起きたらこの…ちんくしゃ以外誰もいなくて…セオんちに行ったのかと…はあ…思って…」
「ちょっとぉ、ちんくしゃって言うんじゃ、ないわよお!」
本当に失礼なやつだ。肘で小突くとグレーシャのほうもやり返してきた。
「私たち、アンタたちの後を追おうと思ったんだけど、途中で、あの高等祭司に会って…」
ようやく息が整ってきて顔を上げると、ちょうど目の前に黒髪が見えて、メルセナはギャッと飛びのいた。
「なになにっ、こっちにもレナが!」
グレーシャを盾にしてのぞきこむと、黒い髪と瞳の女性は首を傾げた。レナそっくりの顔立ちだが、平民らしいシンプルなワンピース姿だし、なにより彼女からはレナから感じるようなぞっとする冷気は何ひとつ感じられなかった。
「…レナ?」
マユキとネルが怪訝そうに顔を見合わせた。そういえば、彼女の話はしていなかった。メルセナはいやいやと首を横に振った。細かい説明はあとだ。
「だから、高等祭司のレナ・シエルテミナ!私の印、あいつから奪ったの、それで今、あいつに追われてるの!」
その時だ。
こん、こんと、いやにゆっくりと玄関のノッカーが叩かれた。一同が押し黙ると、続けてこん、こん、こん。
あいつだとすぐに分かった。恐ろしい冷え冷えとした空気が、扉の隙間から漏れてくるようだ。
「セオ」
黒髪の女性が、声をひそめてルナセオを呼んだ。
「セオ、みなさんを連れて、二階に上がっていなさい」
「だけど、母さん」
「いいから」
母さん!メルセナはルナセオと黒髪の女性を交互に見た。見た目だけであれば姉弟にしか見えない。事前にグレーシャから不死族だと聞いていなければ、事態も考えずに声を上げていたところだ。
ルナセオの母はじっと扉を見据えたまま、息子をちらとも見なかった。マユキに低い声で「行きましょう」と促され、メルセナたちは音を立てないようにしながら二階へと上がった。
◆
通されたのは、青を基調にまとめられた部屋だった。きれいに整頓された棚にはボードゲームの箱が積み上がっていて、机の上には、学校の参考書か何かだろうか、何やら小難しいタイトルの本が並んでいる。どうやらルナセオの私室のようだ。
人生で初めて異性の部屋に入るのがこんな機会とは思わなかった…しばし感慨にふけっていると、ルナセオが内鍵を閉めてメルセナに向き直った。
「どういうこと?レナってさっき聞いた母さんの妹だよね?高等祭司って?」
「私だってよく知らないわよ!」
そもそも、レナがルナセオの母の妹(なんてまだるっこしい言い方だ!)というのも新事実だ。メルセナは地団駄を踏んだ。
「あいつ、シェイルの街のひとを生贄かなんかにして、怪しげな儀式をしてたの。私、そのときにあいつから印を奪っちゃって、なんだかすっごく恨まれてるの!」
「でも、レナは昔死んじゃったんだろ?母さんがさっきそう言ったよね?」
ルナセオの問いに、ネルもマユキも頷いたが、それならメルセナを追ってくるあの魔女はなんだというのだ。
するとグレーシャがメルセナの二の腕を叩きながらわめいた。
「ほら!ほらな、やっぱ俺の言ったとおりじゃん!アイツ絶対幽霊屋敷の幽霊だって!」
「うるさいわね、ペチペチ叩かないでよ!なんで?私が見たのはゾンビかなんかだってこと?」
死人が追いかけてくるなんてホラー小説の使い古された常套手段だが、さすがに死んだ人間が生き返るなんてナンセンスなことはない。
「レナ・シエルテミナが、実は生きていた?」
マユキは口元を手で覆ってつぶやいた。「まさか」
「でも、そのレナさんが死んじゃったから、セオのお父さんは9番になったんだよね」
「何それ、どういうこと?」
ネルの不安げな言葉を拾い上げると、みんなして気まずげに沈黙した。
とにかく情報のすり合わせが必要だ。メルセナは両手を挙げて思考をリセットした。
「オーケー、オーケー。とりあえず、話をまとめたほうがよさそうね。まずはお互いの状況を話すべきだと思わない?」
◆
ルナセオたちから聞いた話をまとめると、まさに荒唐無稽、といったところだ。とはいえ、巫子が実在するところからすでにありえないことには遭遇しているので、メルセナにとっては今更である。
まず、驚くべきことに、ルナセオの父はかつて9番に選ばれ、マユキも、トレイズも、ルナセオの母であるルナも、おまけに今は騎士団長のギルビスも、それを倒す巫子の仲間だったらしい。どおりでメルセナが巫子になったとき、ギルビスの判断に迷いがなかったわけだ。
ルナセオの父は、殺されてしまった初恋の女の子、レナを生き返らせたくて、世界のことわりを壊すために9番の印を得た。
「まるで悪魔みたいなやつだったわ」
マユキは当時のことをそう語った。
「私たちはチルタが…セオくんのお父様がなんで9番に選ばれたのかなんて考えたこともなかったし、純粋にあの人が悪いひとなんだとばかり思ってた。チルタの願いがそんな他愛ない夢だとは知らなかったの。ルナに聞くまでは」
「セオの父さんってあの人畜無害そうなぽやっとしたおじさんだろ?おばさんといつまでも新婚気分の。それが昔はそんなワルだったのかよ?」
グレーシャはルナセオの父を知っているらしく、不可思議そうに眉をひそめた。マユキは「そういうものなのよ」とうなだれた。
「どんなに優しい人間も、9番になれば次第に心を病んで、世界を滅ぼすことしか考えられなくなる…私も聞きかじりだけど。それで、9番を止めるために残り9人の巫子が選ばれる。今のセオ君たちのようにね」
「でも、巫子っていうのは9番を倒さない限り、印から解放されないんでしょ?パパは『9番を倒すまでは死ねない呪い』って言ってたわ」
話を聞く限り、マユキたちが巫子だったのはだいぶ昔の話のようだし、ルナセオの父が健在なのはおかしい。「9番を倒す」というのは、要するに「9番を殺す」ということではなかったのか。
ネルがうつむきながらぽつりと言った。
「セオのお父さんが、9番の資格をなくしたんだって」
「資格って、世界を滅ぼす云々ってやつ?」
「そう。セオのお父さんが、セオのお母さんに夢中になったから、9番じゃなくなったんだって」
どういうことだと息子を見ると、彼の方は両手で顔を覆って「それ、聞けば聞くほど恥ずかしいんだけど」と悶えている。マユキは同情するような目でルナセオを見ながら後を引き取った。
「チルタの世界を滅ぼすに足る根源的な願いは『初恋の女の子を生き返らせること』だった。だからルナは、チルタを落として、初恋の女の子を諦めさせたわけ」
グレーシャがヒュウと口笛を吹いた。メルセナはぱちんと両手を叩いた。
「素敵!要するにセオのパパは、セオのママとの真実の愛に気づいて世界を滅ぼすのをやめたってことね!ハッピーエンドだわ!」
「うーん、まあ、そうとも言うわね」
ますますおとぎ話のようだ。やはりヒロインの献身的な愛で世界が救われるのは大正義、物語のセオリーともいえる。その愛の結晶であるルナセオは羞恥のあまり床に額をつけて「もう許して…」と嘆いているが。黄土色の髪からのぞく右耳が、印のある左耳に負けず劣らず真っ赤だ。友人たるグレーシャが労わるように背を叩いた。
「で、問題は」マユキが話を軌道修正した。「最初に言った、『初恋の女の子』であるレナが、あなたを追いかけてる女と同一人物かってことよ」
それで「レナ・シエルテミナが生きている」という議題に戻るわけだ。合点がいって口早に言った。
「なるほど、セオのパパの本来の目的はレナを生き返らせることだったわけで、でも、レナは生きてて…あれ?」
はたと首を傾げる。「ということは、つまり…どういうこと?」
「お袋たちの苦労は完全に無駄だった可能性ありってことだな」
グレーシャが腕を組んで頷いた。「初恋の女の子が実は生きててハッピーエンド、って隠しルートがあったってわけか」
「どおりでギルビスがレナの名前を聞いて妙な反応してたわけだわ」
あの時はメルセナも余裕がなくて気がつかなかったが、いま思えば、レナの名前を聞いたときのギルビスも今のマユキのような表情をしていた。
「ううん!でもそれはハッピーエンドじゃないわ!だってアイツ、悪いやつだもの!」
メルセナは力説した。シェイルで、枯れ森に入ったまま帰らない行方不明事件が多発していたこと、メルセナがひょんなことから枯れ森に入ったとき、あのレナに遭遇したが、彼女は怪しげな儀式をしていて、あたりには行方不明になった人たちと思われる死体が転がっていたこと…
グレーシャも頷いた。
「確かにあの女、とても正気とは思えなかったな。ずっとニタニタ笑ってて、俺たち遊ばれてるみたいに魔法をバカスカ打たれてさ」
「でしょ!それで、私の印はもともとアイツが持ってたの。私、レナに巫子の力で殺されそうになったんだけど、その時なぜか、印が私に移っちゃったってわけ」
手首を見せながらそう言うと、ネルが表情を曇らせた。
「そのひと、悪いことして、それを見たセーナも襲ってきたってこと?」
「そうよ。こっちの話を聞かないでよく分かんないことばっかり言ってたわ。童話に出てくる魔女みたいに不気味な感じ。近くにいるだけでぞっとしたわ」
「それで…その人が今、この家に来てるってこと?」
ネルの言葉に、全員で真下を見下ろした。階下からは何も聞こえなかったが、まるで心臓を冷たい手でつかまれたみたいにギクリとした。