10
なんだって!と彼らの驚くさまが見たかったのに、少年も少女もちょっと目を見開いたくらいだったので、メルセナは拍子抜けした。どうやら少し外してしまったらしい。むしろ少年の肩越しに見えるトレイズが一番びっくりしていて、口をぱっかり開けてメルセナを凝視していた。
少年はまるでメルセナが他愛ない世間話を振ってきただけのような、呑気な調子でへえと相槌を打った。
「君も巫子なの?世間って狭いんだなあ。この分だと九人揃うのなんてあっという間なんじゃない?」
「あら、じゃあアンタも巫子だったの。奇遇ね」
残念なことに、メルセナはふたりの初遭遇の巫子にはなれなかったらしい。少年は髪の毛をかきわけて真っ赤に染まった左耳を見せてきた。メルセナもぺろりと左の袖をめくって左手首をふたりに掲げた。なんだか符丁のようでドキドキする。髪の毛に、耳に、手首。どうやら巫子によって赤い印の場所は異なるらしい。
メルセナは袖を戻しながらこれまでの旅を振り返った。
「私はね、北のシェイルディアから来たの。パパといっしょに」
父を指差すと、ちょうどひととおりの燭台に火をつけ終えたのか、父は床に描かれた文様を難しい顔で眺めていた。あれが話に聞く転移陣というものなのだろう。言われてみれば、ゼルシャでラディ王子が描いた魔法陣に似ている。
「巫子になっちゃって、追っ手から逃げてたんだけど、ギルビス…パパの上司なんだけど、その人から連絡が来て。ラトメに助けてほしい人がいるっていうからここまで来たのよ。私、ギルビスの頼みは断れないのよねー」
ほんの半月くらいのできごとなのに、思えば遠くまで来てしまったものだ。あの日、薬草探しを諦めて、ヒーラに誘われるままサーカスに付き合っていたらいったいどうなっていたのだろうか。
メルセナは少女の顔をのぞきこんだ。やわらかそうな栗色の髪は一部分だけ赤く染まって、黄色いリボンで飾られている。あどけない若草色の瞳も、眉もろくに整えていない垢抜けない顔立ちも、シェイルではあまり見かけない風貌だ。年ごろは十代半ばを超えたあたりだろうか。お化粧なんてしたこともないのだろう、やわらかそうな頬は健康的な肌色だ。
「アンタのことよ。インテレディアからラトメに連れて行かれた、ネルとデクレって子たちを助けて連れ出してくれって」
「わたし?」
少女改めネルはこてんと首を傾げた。なんだかぽやぽやした雰囲気の子だ。
ネルはちょっぴり困った様子で太めの眉尻を下げて、うかがうようにメルセナを見た。
「でも、わたし、そのギルビスさんって人、知らない」
「そのギルビスさんってシェイルの騎士団長じゃないの?」
少年のほうはギルビスのことを知っているらしい。器用に片眉を上げてネルを眺めまわして、不思議そうに言った。
「俺もシェイルに行ったときに会ったけど、なんでそんな人がネルを助けようとすんの?ネルって実は有名人?」
確かに巫子の事情があったとはいえ、シェイル騎士団の長がわざわざ一等騎士を向かわせるほどの存在なのだから、そのネルやデクレはよほどギルビスにとって重要な人物なのだろうと思われる。それなのに、当のネルはまったく思い当たる節もなさそうでふるふる首を横に振っている。顔の両脇にくっついたリボンの端がぽんぽん彼女の頬に当たった。
仮に彼女がなんの変哲もないただの女の子だとして、彼女はギルビスにとってのなんなのだろうか。謎ね、つぶやきながらも少しもやもやしたが、メルセナはいったん問題を脇に置いて続けた。
「まあ、とにかく私たちそうしてラトメに来たわけよ。そしたらいきなりあの暴動が起きたじゃない?何コレーって思ってたら、神護隊の人にボコボコにされてるあの男の人を見つけたの。それで助けて話を聞いてみたら、ネルって子は神宿塔に行ったっていうからここにたどりついたのよ」
「わたしを探しに来てくれたの?」
「ギルビスの頼みだからね」
正確には半分くらいはネル目当てというよりあの部下の男の付き添いではあったが、それは男の名誉のために黙っておくことにした。実際、ここにネルがいると聞いたから、父はあの男のことを見捨てなかったのだろうし。
そしてメルセナは黄土色の髪の少年を見た。彼のほうはネルのように野暮ったい見目ではなく、真新しい旅装束に身を包んだ小綺麗ななりだ。この暴動のせいか、少し砂汚れが目立つが、剣だこもない細い手をしている。メルセナと同じ街中の人間だ。もちろん父とは比べるべくもないが、鼻筋の通った整った顔立ちで、優しげで爽やかな表情もあいまって女の子に人気のありそうないでたちである。
「でも私、アンタのことは知らないわ」
「俺?俺はルナセオ。レクセディアの学生」
少年は愛想よく笑って、ネルに「インテレディアとはお隣だね」と声をかけた。レクセディアはインテレディアの東に位置する、教育のさかんな学園都市だ。
メルセナにならってか、ルナセオは自身の身の上を語り出した。
「俺も突然巫子になっちゃってさ。運よくトレイズに拾われて一緒に旅に出たんだ。トレイズの上司がラトメにいて、巫子を保護してるっていうから、俺を連れて行くって言われて」
「アンタさっきシェイルに行ったって言ってなかった?ラトメとは逆方向じゃない」
レクセからラトメに行くのであれば、そのまま南下していけば砂漠に出るはずだ。隣のネルは地理が苦手なのかうんうん唸っている。
ルナセオは内緒話をするように口元に手を当てて、おどけるように小声で言った。
「それがさー、トレイズのやつ、近年稀に見る方向音痴でさ。あんま突っ込まないでやって、あいつ傷ついちゃうから」
「聞こえてんだよ!」
父の隣からトレイズの怒声が飛んできた。ルナセオは自分の倍以上は生きているであろう大人にも物怖じすることがないのかけろりとしている。
「それで、俺もどうにかラトメに辿り着いたと思ったら暴動に巻き込まれたんだ。たまたま会った男の子にやっぱりネルとデクレを助けてくれって言われて、今ここ。いろんな人に大切にされてんだね、ネルは」
なんとルナセオのほうもネルとデクレの保護を依頼されていたらしい。ルナセオはカラッと笑っているが、いよいよこの少女が何者か怪しくなってきた。
ネルのほうはなにやらしゅんとした様子だ。
「クレッセ、わたしのこと、なんて言ってた?」
クレッセ?聞いたことがない名前だ。ルナセオとの共通の知り合いなのか、彼のほうは腕組みして難しい顔をしている。
「あの時はあんまりゆっくり話す時間もなかったからなー、ただ、俺が巫子だって言ったら、ネルとデクレもきっと巫子に選ばれるはずだから、守ってくれって、そのくらい?」
「そのクレッセって誰?」
話を聞く限り巫子の関係者なのだろうが、なぜ誰も彼もネルとデクレが巫子になると予想できるのだろう。どこかに赤い印とは別の目印でもあるのかとネルの姿を眺めまわしていたら、答えは意外なところからやってきた。父の作業に付き合っていたトレイズが、きりがついたのかこちらに寄ってきた。
「そう、俺も聞きたかったんだ。お前は9番の関係者なのか?」
「9番!」衝撃に駆られて思わず声を上げた。「それ、私たちが倒す相手でしょ?アンタの友達だったの!」
思ったことをすぐ口にしてしまうのはメルセナの悪い癖だ。一同は沈黙した。父がため息をついて「セーナ、デリカシー」と指摘してくる。すぐさまぱちんと口をふさいだが、それで発した言葉が戻るわけでもない。
ずいぶん落ち込ませてしまったか、ネルはどんよりと暗い面持ちでうつむいた。
「わたし、クレッセの幼なじみで…5年前にラトメのひとたちに無理矢理連れて行かれちゃったの。クレッセのお父さんが、ラトメの偉いひとの子供だったからって。わたし、ずっとクレッセがどこに行っちゃったのか知らなかった。でも、この間、村にレフィルがやってきて…クレッセが病気だって言われて、デクレと一緒にここまで来たの」
整然と話すのが苦手なのか、ネルの話はしょっちゅう「えーと」とか「うーん」とかいう言葉が挟まって聞き取りづらかったが、なんとなく状況が見えてきた。レイン隊長の話を信じるなら、つまり、そのクレッセというのが9番に選ばれる者として選ばれたのだろう。
「デクレってのも友達?」
ルナセオが尋ねた。
「デクレはクレッセの弟なの。クレッセたちがいなくなった日、デクレはたまたまうちに来てて、ラトメに連れて行かれずに済んだんだけど…」
「なるほど、じゃあレフィルが迎えに行ったっていう巫子候補がお前とそのデクレって奴だったわけか。あいつもなんで病気だとかなんだとか回りくどいこと言ったんだ?どうせラトメに来れば知らされることだろ?」
トレイズはあの神官服の子供を知っているようだが、その目的までは聞いていないようだ。やはり彼からは妙な打算も感じられず、ただ純粋に気遣うようにネルを見下ろしていた。父の元上司は善良な人間なようでメルセナは心底安堵した。
「わかんない。だけど、わたしがラトメで会ってすぐのクレッセは、ほんとに心の病気になっちゃったみたいですごく怖かった。ラファさんが…神都の高等祭司の人がクレッセを治してくれて、クレッセのこと落ち着かせてくれたの」
それが9番を連れ出した高等祭司だろう。枯れ森で出会ったレナの恐ろしさは未だ忘れられないし、その追っ手が持つ武器の威力も父の身をもって知るところではあるが、その一方で神都には例の閣下や、9番を連れ出した高等祭司のように、なにやら巫子をめぐる陰謀を阻もうとしている人もいるようだ。
どこまでが敵でどこからが味方なのか、自分たちは何から世界を守ればいいのか。情報を整理しながら考えていると、同じようにルナセオから声が上がった。
「俺は神都の奴らは巫子を襲ったりラトメに暴動けしかけたりする悪いやつで、ラトメに来れば巫子のこと保護してくれるもんだって思ってたんだけど。ネルの話を聞いてると、まるでラトメのほうが悪者じゃない?」
「神都は巫子を捕らえようと巫子狩りを放って来るんだぞ?あいつらがいい奴らな訳がないだろ。ラトメは巫子が神都に害されないように保護してるんだ」
トレイズがどういう立場の人かは知らないが、彼自身はそれを信じてルナセオをこの街まで連れてきたらしかった。神都とラトメは宗教上の解釈の違いでたびたび衝突してきた歴史があると本で読んだ。ラトメの民としては神都自体が悪者という感覚なのかもしれない。
「嘘!レフィルもレインさんもそんなこと言ってなかった」
しかし、騙されて連れてこられた身としてはネルにこそこの街に含みがあるようだ。
「ラトメは悪い人たちばっかりだよ。エルミさんはクレッセたちを連れて行くときにユールおじさんの背中を斬ったし、レフィルは…たぶんあの人は、わたしを巫子にしようとしてたし。暴動が起こって、みんな怖い顔してケンカするし。ラファさんはラトメは魔窟だって言ってた。誰も信用しちゃいけないって。… 結局、わたしたちを助けてくれたのは、レインさんだけだったもの」
そのレインさんはそもそもラトメ側の人ですらなさそうだが、それは言わぬが花か。
自身の住む都市を悪く言われてカチンときたのか、トレイズは剣呑な目になっていった。
「いや、でも…」
「トレイズさん、今のラトメが悪意と陰謀にまみれているのは事実でしょう。あなたがこの都市の第一線で活躍されていた頃とは違いますよ」
見かねた父がなだめるように口を出した。この裏表のなさそうな男が神護隊を統べていたのなら、さぞ平和な世の中だったのだろう。
ネルは明るくなった塔の中でようやくまともに父の顔を見たらしかった。ぱちぱち目を瞬きながらまじまじ父を見る。あんまり見すぎると気を失うわよ、忠告する前に彼女はぽつりと言った。
「あなたって、エルミさんそっくり」
「よく言われる、親戚みたいなものだから」
父はネルの前に膝をついた。「自己紹介が遅れたな、私はエルディ。そこのメルセナの父で、レインとは昔からの知り合いだ」
「うちのパパ、かっこいいでしょ」
鼻高々に言うと、ルナセオが呆れたようにチラリとこちらを見た。
「とにかく、ここはゆっくり話をするには向かないだろう。この塔の転移陣が使えるようだから、今は一旦別の都市に移ろう。君も少し休んだほうがいい、ずいぶん疲れているみたいだから」
こんな美貌の父に優しく声をかけられたら大概の女の子はコロッといってしまうはずなのだが、だいぶぼんやりした性格であるらしいネルはひとつ頷いただけだった。すごいわ、この子。メルセナは初対面で父の色香に当てられない女の子を初めて目の当たりにしておののいた。
トレイズは頭をかきながら転移陣のほうへ歩み寄った。
「ひとまずレクセに俺の知り合いがいるから、そこに行こう。エルディ、レクセディアに繋がる出口はあるか?」
「レクセの学生街前には行けそうです。さあ、皆、陣の上に乗りなさい」
この転移陣のどこに行き先の記述があるのか、メルセナは目を凝らして見たが、魔法なんてちょっとした火をつけたり、ものを冷やしたりするくらいしか使ったことのないメルセナにはよくわからない。
自分にはとても使いこなせなさそうな魔法だ、諦めて顔を上げると、ネルひとりがまだ入り口近くでぼんやりと立ち尽くしていた。
「ネル」
ちょうど隣にいたルナセオと声が重なった。気まずくなってちらりと視線を交わしてから、気を取り直してふたりでネルに向き直った。
「行きましょ。ここにいたって何もできないわ」
「レクセでゆっくり朗報を待とうぜ」
ネルはしばらく神宿塔の扉を見つめていたが、やがてそれを振り切るようにこちらに歩み寄ってきた。彼女の顔を正面から見て、メルセナはふとギルビスのことを思い出した。少女の温和そうな顔立ちが、少しギルビスを彷彿とさせたのかもしれない。
この街で、父の郷愁にかられる顔を見てしまったからだろうか。父が呪文を唱える声を聞きながら、なんだか無性に騎士団のみんなの顔が見たくなって、メルセナは父のマントを手繰るように握りしめた。