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章ごとに書き溜めて連載していきます。1章全10話、毎日0時更新です。
シェイルディア首都クレイスフィーのさらに中心街に住むメルセナにとって、世の中はいつだって物語にあふれていて、めまぐるしく移り変わるものだった。
自分が人間よりもずっと長生きなエルフだからかもしれない。人々はいつだってせかせか働いて、燃えるような恋をして、喧嘩してもすぐに仲直りして、数少ない寿命をめいっぱい散らすように輝いて見える。赤ん坊の頃、ゆりかごに入ってクレイスフィーの門前に捨てられていたメルセナにはエルフという種族の生きざまはわからないが、人間ほど喧騒を愛する種族はそうはいないだろうと思われた。
「セーナ、今日は遅くなるから」
「うん。じゃあお弁当持っていくわ」
「ありがとう」
そして、セーナの人生…エルフ生と言うべきか…最初にして最大の幸運は、この青年を父に持てたことだった。
どんな高名な詩人にだって、父の美しさを的確に表現することはできないだろう。絹のような銀髪、夜空を閉じ込めたような瑠璃色の瞳、白磁の肌。すっと尖った顎に、薄い唇まで、すべてのパーツが完璧に配置された顔で流し目を送られるだけで、大概の女子は腰砕けになる。しかも首から下はこの街の花形であるシェイル騎士団の優美な黒い制服をまとっているので、父がひとつコートを翻せば、麗しすぎて男女問わず気絶するというのがこの街の住民たちの共通認識だ。この街の親たちは、子供がひとりで外に出る年頃になると「東通り3番地のエルディ一等騎士を直視するな」と口を酸っぱくして教えこむ。
父エルディの困ったところは、本人は自分の美貌に一切頓着していないということだ。髪の毛なんか無造作にひとつ縛りにしているし、制服が少し着崩れていたって気にも留めない。よれたシャツからあらわになった首筋を目の当たりにした三軒先のおばあさんが、鼻血を吹いて病院に運ばれた事実を、父はもう少し重く受け止めるべきだと思う。
メルセナはそんな美しすぎて、ちょっとズボラな父が大好きだった。なにより、彼はいつだって優しくて、メルセナのことを大切に育ててくれたから。
「あらセーナ、買い物?」
「ええ。今日はパパが遅くなるからお弁当作ろうと思って」
「はー、アンタたちの親子愛は見てるだけでおなかいっぱいになるわ」
八百屋のお嬢さんはメルセナの買い物袋に野菜を突っ込みながら辟易したようすで嘆いた。おどけた様子にメルセナは口を尖らせる。
「なによう、私だってパパに奥さんができたらこういうお役目は全部譲るわよ。あ、なんならうちにお嫁に来る?」
「エルディ様のところに?まっさかー、無理無理!あんな美形の隣になんて立てるわけないじゃない!」
お嬢さんはあっけらかんと笑い飛ばした。
「それに、アンタのパパは当分結婚する気ないでしょ。少なくともアンタが死ぬまでは」
「…まあ、そうかも?」
この間20歳になったとはいえ、成長がゆるやかなエルフなので見た目は人間でいう10歳くらいだ。自分がよぼよぼのおばあさんになるのは何十年、ひょっとして何百年先か…指折り数えていると、八百屋のお嬢さんはそれに、と付け加えた。
「『不死族』のお嫁さんなんてただの人間には荷が重いわ」
人間が畏れるほど美しいメルセナの父は、もちろん人間ではない。「不死族」と呼ばれる神様の子孫だ。
遠い遠い昔、神様はこの世界を作り上げる役目を終えて眠りについた。ほろほろくずれた神様の身体はよっつの光になって、それぞれが神様の子孫としてこっそりこの世界に生きている。
不死族とはいうけれど、それはあくまで人間たちが自分の尺度で名付けたもので、決して死なないわけではない。けれど彼らはこの世界の何よりも自由だから、老いるときも、死ぬときも自分で選ぶことができる。メルセナの父はもともと人間として生きていくつもりだったけれど、メルセナを拾ってから老いるのをやめた。だから彼はいつまでも若々しいまま、今日もシェイルディアの人々の眼球に無駄なダメージを与え続けている。
この街は人間の土地でありながら、人ならざるものが隣人でも快く受け入れる大らかなところだ。時間の流れかたの違うメルセナたち父娘がなに不自由なく生きているのはこの街のおかげ。だからいつでも感謝と親切を忘れないようにしなさいというのが、父の口癖だった。
◆
さて、父は王城で働くこの街の騎士なのでたいへん忙しい。さしあたって父が遅くなる日は弁当を作って差し入れに行くのが、メルセナの役目のひとつだ。鏡とにらめっこしながら、洋服にしわがないか確認し、帽子の完璧な角度を探し、左右に結んだ髪の毛の高さを調節する。本当は父にお化粧は止められているけれど、ご近所のお嬢さんからもらった色つきのリップを塗れば完成だ。一分の隙もなくなったメルセナは、弁当袋を取り上げて家を飛び出した。
このシェイルディアは北にある大都市で、春になってもまだ上着が手放せない。それでも、最近雪解けを迎えた街には行商人や旅一座がやってきて、メインストリートは賑やかさが戻ってきた。
露店を冷やかしながら王城にたどり着くと、甲冑を着込んだ門番の兵士たちが「やあセーナ」と手にした槍を挙げて挨拶してくれた。
「お父さんに差し入れかい?」
「ええ。今日のハンバーグは自信作よ」
「いいなあ、俺にも料理上手な娘が弁当作って差し入れに来てくれないかなあ」
「その前にお前は嫁さん探せよ」
「ははは、違いない!」
もっと小さい頃から父に会いに王城に通っていたので、兵士たちにとってはメルセナはおなじみの顔だ。すっかり顔パスで城に入って、まっすぐ受付に向かう。
受付の女性も慣れたものだった。
「あらセーナ。あなたのパパなら今ちょうど会議中よ」
「えーっ、パパ、いないの?」
「ほら、最近枯れ森の方で行方不明事件が多発してるっていうじゃない?その対応に追われてるみたいよ。あと半刻もすれば終わると思うけど」
「そうなの?…ね、ねえ、ギルビスも会議中?」
声を落として尋ねると、心得たように受付はニヤリと笑った。
「ホントにわかりやすいんだから、セーナったら。…エルディ様の留守中にセーナが来たら通していいって言われているわ」
「やった!」メルセナは飛び跳ねて喜んだ。「行ってくる!」
はやる気持ちを抑えきれずに駆け出したところで、背後から「ちょっと!城内は走るの禁止!」という声が追いかけてきた。慌ててスピードを落とす。優雅よ、メルセナ。優雅に歩くの。つんと顎を高くしてすまし顔で歩き出すと、そばで見ていたらしい見張りがくすくす笑った。
父の勤めるシェイルディア騎士団の詰め所までの道順を、メルセナは上機嫌で進んだ。ぴかぴかに磨かれた大理石の床も、細かい柱の彫刻も見慣れたものだ。
とあるひとつの扉の前で立ち止まって、メルセナは鞄から手鏡を取り出して最後の身だしなみ確認を行った。よし、と気合を入れて扉をノックすると、すぐに中から扉が開かれる。
「よお、セーナ嬢。おつかいか?」
「ローシス!ええ、パパのお弁当を届けにきたの」
現れたのは大柄な短髪の男だ。今は五人しかいない一等騎士のひとりだ。見た目は熊のようで、小さな子供をよく泣かせているが、彼がとても紳士的で、家族を愛する心優しい父親であることは皆のよく知るところだ。
ローシスに迎えられて詰め所に入ると、中は閑散としていてあとひとりしかいなかった。一番奥の机で書類仕事をしている男を見て、メルセナはドキッとして佇まいを直した。
頬杖をつきながら万年筆を手の中で回して書類を見下ろす男の頬に、濃紺の髪がかかっていた。騎士団の黒い制服がよく似合う彼は、煩わしいのか首元のアスコットタイを緩めている。誉れ高きシェイルディア騎士団を統べる、ギルビス騎士団長だ。
ローシスは難しい顔で書類と睨めっこしている男に声をかけた。
「ギルビス様、我らが騎士団の姫のおなりですよ」
「ん?」
男は顔を上げてメルセナに気づくと、さわやかにほほえんだ。彼の理知的な顔が柔和になるのを直視してメルセナはドキドキした。
「やあセーナ。悪いね、君のパパはもうすぐ会議から戻ってくるからゆっくりしていってくれ」
そう言って立ち上がると、自らお茶を入れようと給湯室のほうへ歩き出すのでメルセナは慌てた。
「そ、そんな!悪いわ、忙しいんでしょ?すぐおいとまするから」
「なに、我らがメルセナ姫がわざわざこんなむさくるしいところに来てくれたんだ。今日は私がおいしいお茶を淹れてあげよう。この間はヒーラにひどいものを飲まされたようだから」
ぱちりと片目をつぶってから給湯室へと入っていくギルビスに、メルセナは内心でガッツポーズを決めた。でかしたわ、ヒーラ!今日は最高に運がいい!ギルビスが淹れたお茶を飲めるなんて!
ヒーラは弱冠22歳で一等騎士にのぼりつめた青年で、メルセナは彼がまだほんの見習いだった頃からの付き合いだ。人懐こくてよく気が回るが、大の甘党なのが玉に瑕で、この間来たとき、メルセナは彼が淹れたお茶を飲んで咽せてしまった。なにせ溶けきらなかった砂糖がカップの底に沈んでいたほどだ。
「ヒーラは?」
「ヒーラ坊なら見回りだぜ。そろそろ戻ってくると思うが…」
「セーナが来てるってホントですか!?」
ローシスが言いきる前に、詰め所の扉がけたたましい音で開け放たれた。どこから走ってきたのだろうか、息を切らして汗だくの青年は、蜂蜜色の瞳に喜色を浮かべてメルセナに駆け寄ってきた。
「セーナ!今日の帽子かわいいね。パパに会いにきたのかい?」
「うん。ヒーラ、あなた汗だくじゃない」
「そりゃ急いで来たから…あ、そうだ!」
ヒーラは突然自分の机に走っていくと引き出しの中をひっくり返した。何事かと見守っていると、目当てのものを戦利品のように掲げて「これこれ!」と見せてくる。
「セーナ、今夜ぼくと一緒に、街に来てたサーカスに行かない?チケットが取れたんだ!」
「え?」
メルセナは怪訝に眉を潜めた。
「ヒーラ、あなた、それ今度こそ好きな子を誘うって言ってたやつじゃない」
見た目はともかく、年頃の近いヒーラとは恋の話もよくしていた。彼には長年片思いの相手がいるらしく、なにかにつけて告白の機会を伺っているけれど、一度もうまくいったためしがないそうだ。先日彼が一等騎士に任命されたときに今度こそ決めるというから、じゃあ春になるとやってくるサーカスにその子を誘えばいいのではと提案してあげたのだ。
手に入れるのにも苦心しただろうそれをメルセナに持ってくるということは、また玉砕したのだろうか。目の前でもじもじしている友人のために、メルセナは心を鬼にして物申すことにした。
「あのねえヒーラ。駄目よ、本命を誘えないからって私で妥協しちゃ。一度断られたんだとしても何度も食いつかなきゃ。あなたって押しが弱いんだから、相手も本気にしていないんだと思うわ」
「……う、うん」
「大丈夫よ、人間では最年少で一等騎士に上がった人なんて憧れの的じゃない。あなたが誘って落ちない女はいないわ、自信持って!」
「…………うん」
もっとも私にはギルビスがいるから簡単に男からの誘いに乗らないけどね!という言葉は心の中にとどめておいたが、ヒーラにはもちろん通じていたらしい。彼は物言いたげだったが、やがて諦めたように肩を落として頷いた。
「押しが弱いなあ、ヒーラ坊」
「確かに本気にされていないようだ」
「…わかってますよお!傷を抉らないでください!」
面白がるようにローシスとギルビスが言うので、ヒーラは拗ね顔でタオルをひっつかむと荒っぽく汗を拭いた。ギルビスは部下の恨みがましそうな視線を無視して、ティーセットを応接用のテーブルに置くと、おどけるようにメルセナに向けて一礼した。
「さあ、お嬢様。お茶の準備ができたよ」
「わあ、楽しみ!」
応接ソファに腰かけると、甲斐甲斐しく騎士団長手づからお茶を注いでくれるので、メルセナはギルビスの挙動に見入った。いつの間にかタイを締め直して、あらわになっていた首筋が襟で隠れてしまっている。
ギルビスはメルセナにカップを差し出して、自らのカップにもお茶を淹れると向かいのソファに腰かけた。
「ヒーラは押しが弱いけど、やる時はやる男だから。気長に見てやってくれ」
「アーッ、やめてください、ギルビス様!ぼく泣いちゃいそうです!」
「ま、それもそうね」
メルセナはかろうじて冷静に返事したが、それどころではなかった。手元で芳醇な香りを立てる紅茶に、向かいではゆったりと長い脚を組んでお茶を飲む男。目と鼻が死んじゃうわ、バクバクと高鳴る胸を押さえていると、詰め所の扉が開いて、ようやく目当ての人物が入ってきた。
「セーナ、待たせてすまない。急な会議が入ってしまった」
「受付で聞いたわ。はいこれ、お弁当」
「ああ、いつもありがとう」
父は弁当を受け取ると、メルセナの頭を大きな手で撫でた。ヒーラが行儀悪く自席の椅子の背もたれを前にして座って、羨ましそうに弁当袋を眺めて言った。
「いいなあ。セーナ、今度ぼくにも弁当を作ってきておくれよ。エルディ殿ばかりずるくはないかい?」
「貴様にセーナの飯を食わせてたまるか」
父はなぜかいつもヒーラには辛辣だ。一等騎士のみなさまにお弁当を作ってきたらギルビスは食べてくれるかしら、思いを馳せていると、父が弁当の中身を物色しながら言った。
「そうだ、セーナ。たびたびで悪いが頼みがあるんだ。薬問屋に行っていくつか薬草を買ってきてくれないか?救護室に寄ったのだがいくつか足りないものがあるらしい」
「ええ、いいわよ。救護室に直接持っていけばいいの?」
「ああ。賃金は薬草代と一緒に入っているそうだから」
父に差し出された皮袋と、薬草が羅列されたメモを受け取って鞄にしまうと、メルセナは意を決してギルビスの淹れてくれたお茶を飲み干して立ち上がった。
「じゃあすぐ行ってくるわ。ギルビス、おいしいお茶をありがとう、ごちそうさま」
「セーナみたいな可愛いお客様はいつでも大歓迎さ。気をつけて行っておいで」
さらりと気障な台詞を言ってから、ギルビスはそれから、と続けた。
「君も聞いていると思うが、枯れ森で行方不明になっている者が何人か出ている。あまり近づかないように」
枯れ森はこの街を出た先に広がる針葉樹林帯の森だ。街からほとんど出たことのないメルセナは近づく機会などもないだろうと軽く頷いたが、まさかそのときは知るよしもなかった。その森に、メルセナの人生を変えてしまうような出来事が待ち受けているだなんて。