1-1 港区赤坂九丁目、漆黒のビル
「ここか……」
シニアフェロー特権のハイヤーを降りると夜空にそびえ立つ真っ黒なビルを、俺は見上げた。
赤坂の外れ。料亭街の裏手で古そうなマンションが立ち並ぶあたり。だから夜二十時とはいえ、人通りがほとんどない。酔客どころかって奴。
見える範囲に窓がないのでよくわからんが、十階建てくらい。きらびやかなネオンも表立った看板もない。
「あんまり飲食店ビルっぽくないな」
今日は副社長に呼び出されている。前回会ったとき、定期的に会合を持とうと命じられた。その初回ってわけさ。呼ばれたのは俺ひとり。吉野さん抜きだ。
……てことは、言ってた「秘密の会合」って奴なんだろ、多分。男の夢とかほざいてたしな。
「ま、いっか」
エントランスに入る。エレベーターの脇にステンレスの店名表示が並んでいるが、どれもクラブっぽい、地味な名前だ。申し合わせたようにどの店も「会員制」とか「members only」などと書いてある。実際そうなのか、嫌な客避け、つまり入り口で断る口実か、どちらかだろう。
大きめのビルらしく、どの階にもいくつか店の名前が並んでいる。だが指定された七階に入っているのは、「salon K」って奴だけだ。エレベーターに乗って七階のボタンを押した。意外にも七階が最上階のようだ。各フロアの天井が高いんだろう。
だがエレベーターのドアは閉まったものの、なぜか動き出さない。
「どちら様でしょうか」
スピーカーから男の声がした。箱内にセキュリティーカメラが設置されているから、多分俺の姿も見てるな、これは。
「平です」
「平様……。お伺いしております。どうぞ」
エレベーターが動き始めた。
扉が七階で開くと、真っ暗な空間だった。廊下やホールではなく、いきなり店内。スポットライトが一本だけあり、小さな丸テーブルに置かれた一輪挿しを照らしている。赤く華やかな薔薇だ。
戸惑っていると、奥から光が漏れてきた。どうやら扉があったようだが、こちら側にノブは見当たらない。
「お待ちしておりました」
三十代くらい、眼鏡の黒服が頭を下げた。
店に踏み込んだが、そこは小さなバーだった。カウンター数席で、棚に並んだ高そうな酒がライトアップされている。客もバーテンもいない。奥に扉があるから、ここはウェイティングバーとか、その類だろう。
「桐山様がお待ちです。こちらに」
副社長の名前を挙げる。と、スポットライトが一本増え、脇を照らした。上階へと続く小さな螺旋階段がある。暗くてわからんかったわ。てことはこの店というかビル、八階もあるんだな。エレベーターが七階止まりというだけで。
店の奥ではなく、螺旋階段へと案内される。
階段を上り、さらに扉を開けると、きらびやかな照明で目がくらんだ。ここまで暗かったからな。
「……」
凄いなここ。ひと目で高いとわかる豪奢なソファー席が並び、酒が並ぶテーブルで、おっさんどもが飲んでいる。
もちろん各席には女の子がついている。髪を盛りに盛ったいかにもクラブ嬢然とした娘だけでなく、髪も服も地味で真面目女子大生っぽい娘もそこそこいるのが意外だ。
「おう。こっちだ」
一番奥、丸テーブルを囲むようにソファーが配置された席で、副社長が手を上げた。両隣に女を侍らかしているが、さらに脇に、見覚えのあるおっさんひとり。そっちにも女が付いている。全部で女五人だな。
「待ちかねたぞ」
「わあ。この人ね、期待のホープって」
「かわいいっ」
女のおべんちゃらを受けながら、席に着く。俺のグラスはすでに用意されていた。女の子が酒を注いでくれた。泡だな。店の格からして、おそらくシャンパンだろう。注がれただけでふくよかな香りが漂ってきたから、それもかなりいい奴だ。吉野さんに飲ませたいなと、ふと思った。
「まあ飲み給え」
隣の女の太腿に手を置いたまま、副社長が頷く。
「は、はあ……」
とりあえず口を着ける。うおっうまいなこれ。複雑なフレーバーとアロマ。炭酸を強く感じる割に、当たりも柔らかい。吉野セレクトの一級品シャンパンに勝るとも劣らないレベル。これ、この店でいくらで出してるんだろ。怖いわ。
「おいしいですね」
「そうだろうそうだろう」
頷いている。
「おう。忘れていた」
怪訝な表情でもしていたのだろう。俺の顔を見て副社長が付け加えた。
「今日は永野も一緒だ。ぜひ君に会いたいということでな。……いいだろ」
「はい」
「いや平くんとは、直に話したくてね」
脂ぎった六十代、うすらハゲのおっさんが、笑ってみせた。永野、こいつは三木本商事の経理担当役員だ。俺と吉野さんを追い出して三木本Iリサーチ社の役員に収まった八人のうちのひとり。こいつらについては人事ファイルを隅々までチェックしたから、顔は覚えている。なんせ三木本商事を食い物にせんと暗躍する黒幕候補の筆頭だからな、この八人。
「永野さんですか。俺も話してみたかったんですよ」
本音だ。社長からも黒幕調査を命じられているしな。ちょうどいいわ。酒の席なら尻尾掴みやすそうだし。それにしても、なんで俺と副社長の会合に割り込んできたんだろうな。謎だわ。
「私もこの店は結構使う方でね……。家内には内緒だ」
ひひっと気味の悪い笑い声を上げる。
「永野にここを教えてもらったんだ。彼はどういうわけかコッチ方面に詳しくてな」
副社長は苦笑いを浮かべている。
はあそうすか。人事ファイルによれば経理担当役員の永野は、入社以来、経理畑一筋。経歴だけ見ると真面目そうに思えるが、そうでもないんだな。副社長をエロの道に誘い込んだとか笑うわ。
「ちょっとお。トシちゃん、早くあたしにも紹介してよ」
副社長に太腿を撫でさせている女が、むくれたような声を上げた。派手な化粧に露出服。まあ夜の女だな。そこらのキャバ嬢よりは品がある感じだが。
「あかねはイケメンに弱いからな」
呆れたように笑うと、副社長が俺の肩書やらなんやらを、女どもに説明した。
「すごーい。たった一年で平社員から事業部長クラスとか」
「豊臣秀吉とか毛利元就並だわ」
「ねえ平さん、彼女いるの」
左側の派手な女が、俺の腕を掴むと胸に抱いた。右側の地味な女は黙っているが、俺にぴったり体を寄せている。
「おいおい。今日は大事な案件があるんだ。いちゃつくのは後にして、少し仕事の話をさせてくれ」
「はーい」
副社長が目配せすると、女が数人、席を立った。黒服が仕切って、他の席に着かせたり奥のドレープの陰に進ませたりする。あの奥、多分スタッフの控室だな。
残ったのは、俺達おっさん組と、副社長に太腿を与えている女だけだ。てことはこいつ、副社長のお気に入りなんだろう。おまけにもちろん身上調査され、なんか聞かれても大丈夫とわかっているはずだ。
「さて……」
シャンパンと思しき酒をひとくち飲むと、副社長はほっと息を吐いた。
「平くん約束だ。異世界の最新情報を聞かせてもらおうか」
俺をじっと見つめてきた。真面目そうな切り出しだが、まだ女の腿撫でてるけどな。男はこれだからなー。まあ俺も人のことは言えんが。
「そうですね……」
どこまで話すべきか迷った。
たしかに副社長には、社長同様に情報を流すと約束させられた。あからさまなデタラメを吹き込むと反感を買い、吉野チームが解散に追い込まれる危険性がある。なんせ前回、それで脅されたからな。
だが副社長を全面的に信用していいかは、まだわからん。おまけに今日はなぜか経理担当の永野までいる。まるでお目付け役のように。
陰謀黒幕が反社長派として暗躍しているのは自明だ。社長派が不利になったら寝返ると、副社長も明言している。てことはこの永野、反社長派から送り込まれたスパイかもしれない。あるいは黒幕そのものかも……。
「吉野さんと俺のチームは、ここのところ、山岳地帯周辺での地図作製をしていました」
「ほう」
森林地帯や海辺の崖を回り、地下資源がありそうな気配を探してきたとかなんとか、適当に嘘を交えつつ、俺は吹きまくった。
「で……ちょっと山道で足を踏み外しましてね。倒れたところに尖った岩があって、脇の下を怪我しました。……いえたいしたことはなかったんですが、数日休みをもらいましたよ」
俺の怪我くらいは知ってるはずだ。あんまり危険と思われない程度に、適当に武勇伝をでっち上げる。
「平くん」
経理の永野が口を挟んできた。厳しい顔つきだ。
「私が聞いてる情報とは違うな。……君は副社長を舐めてるのか」
「いえ……そんな」
いかんあっさりバレた。永野の奴、うすらハゲのスケベじじい然としてるが、思ったよりヤバい奴かも……。