Part Z‐5
部屋に飛び込んできたズィーダに、乱暴に手を掴まれた。
「いやっ!」
思わず叫んで、セシリアははっとして顔を上げる。ズィーダの顔は、砂ぼこりと血で汚れていた。明らかに尋常の様子ではない。
「……来てください」
「何よ、警察? それとも軍? 私を盾にするつもり?」
「僕は!」
セシリアの腕を引き、ズィーダは俯いた。そして、小さな手を両手で包む。
「……僕の中には、人を憎み、世界を呪った人がたくさんいます。でも、僕は、世界は憎いものばかりじゃないって思うから」
硬くつぶった瞼の裏には、セシリアの笑顔が見えた。
「許せない気持ちがあっても……本当は、僕は、」
ズィーダが膝をつき、セシリアは顔に困惑を浮かべる。リーダーの前での落ち着き払った様子とも、茶を飲みながら話していたときの様子とも違うズィーダがそこにいた。
「分からない……分からないんですよ。こんな気持ちは僕の記憶にはない。でも、あなたに死んでほしくないって、生きてほしいって思うから……」
「ズィーダ! いつまで待たせるんださっさと来い!」
ドアを蹴り開けて、リーダーが顔を出す。ズィーダは慌てて涙を拭った。
「よう王女さん。釈放だぜ」
「えっ、ふわあっ!」
ズィーダがセシリアの膝の下に手を入れ、その体を軽々と抱え上げる。セシリアが両手でズィーダの首に抱き着き、ズィーダはセシリアの腰に片手を回して抱き寄せた。
「あとは頼むぜズィーダ。向こうが要求飲んだってーのに人質を傷つけたとあっちゃな」
「……うん」
リーダーに頭を軽く叩かれ、ズィーダは顔を引き締めた。
解放軍のアジトのほど近く、住宅街の一軒家にズィーダは入っていった。一軒家と言っても立派なものではなく、物置程度の広さしかない小屋だ。中にはコンテナが一つと、床についた扉が一つだけあり、ズィーダは迷うことなくその扉を開いた。
「……これ」
「ご存知でしょうね。城からの抜け道です。間に合うかは五分五分ですが、出来る限り急ぎます」
ズィーダはそう言うと、セシリアの頭を抱き寄せ――飛び降りた。
途中で梯子を掴み、底に着地する。ぱしゃん、と暗闇の中で水音がした。すえた臭いに、セシリアは顔をしかめた。
ズィーダが懐中電灯をつけ、道が照らされる。下水道にも似た、円形のまっすぐな通路だった。壁はコンクリートで補強されているが、床はどこからか流れてきた水で覆われ、ネズミの死骸が転がっている。道の先は闇に包まれていた。そのずっと先から、生暖かい風が吹いてきている。
「王に言われたタイムリミットはあと三十分」
「え?」
「僕の服でも噛んでいてください。舌を噛みます」
ズィーダは、ベルトに挟んでいた紐で、セシリアと自分の腰を結ぶ。数度跳んでセシリアが揺れないことを確認すると、ズィーダは地面を蹴った。水飛沫だけが取り残され、鈍い音が反響する。
水を蹴って走りながら、ズィーダは速度を上げる。セシリアはズィーダの襟を噛み、ぐっと両手に力を籠めた。持ち上げて縮めた足の先に、冷たい水が跳ねる。
曲がり角の直前で、ズィーダは膝を曲げて跳ぶ。そのまま壁に着地すると、その先は複数の道が集まった円形の場所だった。その中央に着地し、ズィーダはセシリアを背中に回す。円形の部屋の先には、小さな鉄戸があった。それを開くと、四角い、上へと伸びる穴がある。壁には、やや錆びた梯子が取りつけられていた。ズィーダは迷うことなく、その梯子を上り始める。
ズィーダの背で揺られながら、セシリアは、四角く縁取られた天井を見上げた。服越しではあるが、ズィーダの心臓が早鐘を打っているのは分かる。耳に届く息も、荒くなっていた。風でぼさぼさになった銀灰色の髪と、へたりと寝た三角耳が、梯子を上る度に上下に揺れる。
「ふんっ!」
ズィーダの拳が、天井を打った。がぁん、と音が響き、天井が開く。
二人が入ったのは、鉄色の壁に覆われた部屋だった。セシリアを床に降ろし、ズィーダは壁に駆け寄る。
「……王女様、これ」
「何?」
「読めますか?」
壁の一角、小さなドアの傍らに、紙が貼りつけてあった。セシリアはそれに近付き、目を凝らす。
「……『残念ながら、方舟は旅立った』……? これ、父上の字だわ」
「……間に合わなかった……?」
ズィーダは紙を取り、額に手を当てる。
「ねえ、どう言うことなの? 方舟って、ノアーズのことよね? まだ出立までは日にちが……まさか、緊急脱出……?」
「でしょうね。移民しようにも、本人達が死んだら意味がない」
「でも、どうして……」
「………………」
ズィーダはセシリアの腕を掴み、ドアを開いた。びくりと震え、セシリアは体を硬くする。
「こっちへ」
一瞬抵抗するように足を踏ん張ったが、すぐに負けてセシリアは引きずられる。細く短い廊下を抜けると、巨大なコンピューターが並んだ部屋に出た。
「ここ、城の地下……」
平時は冷却のためのクーラーが効いている部屋は、赤いランプで照らされていた。ビーッ、ビーッ、と絶えず警報が鳴っている。
セシリアの足が震え、ズィーダはぐっと強く手を握った。
「『人類の終焉』って知ってます?」
セシリアを引き摺って歩きながら、ズィーダは口を開いた。
「え……ええ、何処かの教授が書いていた本よね。人類の終わり方がたくさん載っている本だったかしら」
「解放軍のリーダーが、学がある人で。読み聞かせられたことがあったんです。……人類は、数少ない『自殺』できる種族だって」
それだけで、セシリアには十分理解できた。
ノアーズが緊急脱出する事態。普段はロックされている抜け道が使われる事態。そんなものは、容易に想像ができる。
「……世界の人口が、何割って単位で減るんだったかしら」
「地上は不毛の土地に、なんてことも、冗談じゃなくなりましたね」
「……はあ。結局、平和なんて続かないものね」
セシリアは小走りのまま、天井を仰ぐ。回転する非常灯が、深刻なんだと騒ぎ立てていた。
二人が行きついたのは、セシリアも知らない部屋だった。壁際のモニターや散乱した資料やらを見るに、恐らくノアーズに関連した研究施設だろう。
「……私は置いて行かれたのね」
靴跡がついた資料を拾い上げ、セシリアは自嘲気味に笑った。
相変わらず、うるさく警報が鳴っていた。セシリアがモニターのスイッチを入れると、街の風景が映し出される。崩れた屋根と、煙と炎――――
「……これ、ノアーズのカメラじゃ」
「!」
ズィーダの拳がモニターを撃った。保護ガラスが割れ、モニターが暗くなる。
「えっ、ちょっと!」
「あった」
驚くセシリアを尻目に、ズィーダは壁際に置かれた箱に駆け寄った。銀色の大きな直方体に、小さなモニターがついている。
「王女様、こっちに」
「え? それって……いえ、待って! どうしてそれがあることを、あなたが知っているの? そもそも抜け道だって」
「王に聞きました。さあ入って」
「嫌……いや、いや、いや、いや! それ、コールドスリープ装置でしょう!」
「どうしてもって場面なら入るんでしょう」
ズィーダがセシリアの手首を掴み、セシリアはなすすべもなく引き摺られた。
「嫌よ! 脱出に置いて行かれたくらい何でもないわ! 暴動だろうと戦争だろうと、生きようとすればどうにでもなるわ!」
「どうにでもで生きられるほど、人間は頑丈じゃないんですよ!」
ズィーダの怒鳴り声に、セシリアはびくりとして顔を上げる。
「賭けなのは分かっています。でも、あなたを置いてでも逃げ出さなければいけなかった事態になった。そんな中に出ていくより、ここで待った方が生きられる」
「……でも、」
「落とした命は拾えません。死ぬか、賭けるか……選べ」
手首を強く握られ、セシリアの手は真っ白になっていた。大きな目は涙に揺れ、唇は震えるばかりで言葉を紡げない。
ズィーダはまっすぐに、その目を見返した。赤褐色の目は、その中に、王女だった少女を浮かべている。握られている手首から震えが伝わって、セシリアはぐっと唇を噛んだ。
先に目を逸らしたのは、セシリアだった。
「……ノアーズは、予定では三百年後に帰ってくるわ」
俯き加減で、セシリアは呟くように言った。
「だから、こっちの装置でも、それだけは待てるはず」
「……決断、感謝します」
「でも今回は緊急脱出よ。戻ってくるとは限らない」
「三百年もつなら十分でしょう。……これかな……起動しますよ」
ズィーダがボタンを押し、モニターに光が入る。セシリアはぎゅっとスカートを握った。
機械の起動音と共に、箱の蓋が開く。セシリアは服を脱ぎ、肌着だけでその中に入った。赤く手形がついた手首をさすり、ズィーダを睨み上げる。
「あなたのことを、私はきっと許せないわ」
セシリアの言葉に、ズィーダは眉根を寄せて悲しげな顔になる。「そうでしょうね」と絞り出した声は震えていた。
「僕が全てを壊したんですから」
「……だから、約束しなさい」
ズィーダの赤褐色の目を見返して、セシリアはきっぱりと言った。
「目覚める時まで、そばにいて」
「……ええ。約束します」
箱の縁を握り、ズィーダは泣きそうに笑った。
「来世でも、その先でも、あなたの一番そばで、待っています」
装置が起動し、蓋が閉まり始める。ズィーダは箱から離れ、目を伏せた。
「――――好きよ、ズィーダ」
閉まる寸前、セシリアが言った。
「……好き?」
重々しい音を立てて、箱が閉まる。ロックがいくつもかかり、箱の下の床が開いた。そのままゆっくりと、箱は床下に降りていく。
モニターに表示されている文字の意味は分からないが、恐らくこれで、セシリアの安全は確保されたのだろう。ズィーダは降りていく箱を見下ろしながら、拳を握った。
「……好き……ああ、そうか、すき、すき、すき、これが!」
両膝から床に崩れ落ち、ズィーダは頭を掴む。頭を冷たい床に打ち付けると、額が割れて血が滲んだ。
「そうか……はは、そうか! 僕は……彼女が……」
傷が熱くなって、ズィーダは体を起こす。既に箱は床下にすっかり収納されていた。鮮やかな赤い雫が、額から顔を伝って頬、顎へと落ちる。濡れた髪が頬に引っ付き、三角耳はぺたりと寝ていた。
立ち上がると、膝下は濡れて、ズボンが足にまとわりついていた。冷たい鉄色の壁に、赤いランプが反射する。
「おやすみ、眠り姫様」
頬を拭って、ズィーダは出口へと向かう。セシリアを受け入れ、壁の向こうから静かな起動音が聞こえ始めていた。
「――――必ず」
出口で振り返り、ズィーダは、もぬけの殻となったその部屋を目に焼き付けた。
「あなたが起きた後、必ず、一番そばにいる」
生まれて初めての感情をくれた彼女を、忘れないように。




