奇跡の夜
十二月二十四日。今日は言わずと知れた、クリスマス・イブ。
しかし新堂は、オフィスで一人、パソコンに向かっていた。
「……もうこんな時間か」
窓の外の景色はとっくに暗闇となっており、ふと見上げた壁掛け時計の針は午後九時を指している。
同僚の多くは終業時間と共に足早に帰って行き、残されたのは数名だけ。だというのにその数名も、今夜の予定があるらしくさっさと残業を終わらせオフィスを出て行っていた。
クリスマス・イブの夜だ。家族や友人と約束があるのだろう。むしろ、約束があって当たり前とばかりの会話がここ数日間そこら中から聞こえていた。
「僕も、早く終わらせて帰らなきゃ。……急ぐような用は無いんだけど」
独り言が虚しく響く。
今日だけではなく、明日になっても新堂には何も特別な予定や約束がない。
就職と同時に上京をしたので家族は遠く、友人らしい友人もいなければ、恋人などこの数年居た試しもなかった。
クリスマスなど有っても無くても同じ。特別でも何でもない、ただの「十二月二十四日」だ。
仕事に追われ、楽しみの一つもない。生活は通常進行で、年末に向けて疲れが溜まるだけ。
しかし、同僚達が色めいているだけではなく、街を歩いていてもテレビ番組を見ていても、世間全体が訴えてくるのだ。
今日、このクリスマス・イブやクリスマスは特別な日であり、愛する人や親しい人と過ごすべきであるのだ、と。
「明後日になったら全部終わっちゃって、次はもうお正月モードなんだ。あと少し、見て見ぬふりをするだけだ」
誰に言うでもない言葉は、新堂本人すらも励ましはしない。いっそ、口にすればする程に、寂しさがこみ上げてきた。
何年体験しようが、未だに馴れない。この時期はどうしようもなく、寂しいのだ。
美しく街を彩るイルミネーションや、一人用ではないホールサイズのクリスマスケーキのポスター。楽しみだと笑う声を聞く事さえも、本当は辛かった。
クリスマスを楽しめる人達が羨ましい。心の底から羨ましい。
出来る事なら新堂も、誰かと、出来れば愛する人と笑い合って過ごしたい。
だというのに、よりによって今年のデート相手は残業。これでは益々、クリスマスが嫌いになりそうだ。
「さ、もう少し。片づけてしまおう」
一つ大きく伸びをして、パソコンモニターに向き直る。今日ばかりはいつも以上にやる気が起きず作業も進まないが、そうも言っていられない。
だらけてしまいそうな気持ちを奮い立たせ、やりかけのデータを入力した。
「……えっと、後は……これだけか」
「残っているのは、新堂だけか?」
「え? ……ぁ」
なんとか作業に集中を仕掛けていた時だ。
足音が聞こえず唐突に近くから聞こえた声に、新堂は背中を震わせながら振り返った。
「……部長。お疲れ様です」
「こんな時間まで一人で残業か?」
「えぇ。今日は皆、予定があるらしくて」
「お前には予定がないのか?」
「はい、独り身で、特別な人も居ませんから」
どこか苦笑のような笑みを浮かべながら、新堂はこちらへ近づいてくる男を眺めた。
何てことは無い。よくよく見知った、むしろ見たかったとも言える顔に胸を撫で下ろす。
新堂の直属の上司、篠原。まだ三十代そこそこという若さで異例の部長職に就く出世頭で、役職に見合った実力を持つ人物だ。新堂は彼に上司としての信頼と憧れ、それからもっとプライベートな感情も彼に持っている。
もちろんそのような事を伝えた事など無いし、今後も伝える気も無い。それでも、気がつけばいつも彼を目で追っていた。
「部長は今日、直帰だと伺ってましたが」
「あぁ、そのつもりだったのだが。少しな」
篠原は出来る男だ。新堂には考えも及ばない思考で動いているのだろう。
自身のデスクに向かうでもなく、座ったままの新堂を見下ろす彼に、小さく笑みを浮かべた。
「そうですか。僕はもう少しで終わらせて帰ります」
「そうなのか? それは良かった」
「良かった? ……あぁ、何か手伝う事でも……」
あるのだろうか。そう考えていた時だ。
不意に篠原の手が、新堂の手首を掴んだ。
「部長? 書類整理でも何でも、僕は逃げませんよ?」
「今夜、この後予定が無いと言ったな。なら、俺に付き合え」
「それはどういう……」
篠原の眼差しがやけに真剣で、視線が逸らせない。その言葉があまりに強くて、上手く返答が返せない。
ただ、握られた場所が、ジャケットの上からでもとても熱かった。
「俺と――デートをしろと言っているんだ」
「……え」
「嫌だとでも、言うのか?」
「それは……」
胸が、早鐘のように強く鳴り響く。
これは夢ではないのか。
彼が、篠原が何を言っているのか、言葉や意味を取り違えているのではないだろうか。
耳に入った単語の理解が追いつかないまま、新堂は彼を見上げ続けた。
目の前に居るのは、どこからどうみても篠原だ。入社以来新堂が憧れ――恋をし続けてきた男だ。
「で、デート、ですか?」
「あぁ」
「打ち合わせ、とかではなくて?」
「解らない奴だな。今夜はクリスマスだぞ。理解しろ」
「理解って、そんな……」
彼は何を意図して言葉を選んでいるのだろうか。しろと言われたところで、理解など追いつかない。
ただ、篠原は今日をクリスマスだと知っており、あえて「デート」という言葉を使っている。それだけはようやく心に届いた。
行きたい。
今夜、彼と過ごしたい。
しかし、その意味するところを納得出来ていない以上、新堂は頷く事が出来ずにいた。
「……部長と、デート。それはその……いきなり言われて理解しろというのも……」
「用はないのだろ? ならば何故悩む」
「それは、その……『デート』という言葉が……僕は男で……その……」
「そんな事は知っている」
「部長はその……どうして……あの、何て言うか……」
篠原を見て居られず、俯き加減で煮え切らない言葉を呟く。
篠原からの誘いが嬉しい。しかし、だからこそ不安になるのだ。
もしも、自分と篠原の考えている「デート」の意味するところが違えばどうするのか。妙な期待をして、それが間違っていたならば。
今以上に虚しいクリスマスになる事は間違いなく、それは辛いという言葉だけでは足りなくなる。
そうしていると、知らず内に強く握られていた手首から、彼の指が離れて行った。
「……解った」
「あ……」
反射的に顔を上げる。
手首の熱を失って初めて、新堂に深い後悔が駆け巡った。
せっかくのチャンスを逃がしてしまった。
理解や納得などと考えず、心に素直に頷いておけば良かったのだ。
どこか呆然としながら、腰を浮かせて立ち上がる。言葉よりも先に身体が動き、篠原に縋るような指を伸ばそうとした、その時だ。
新堂が触れるより先に、篠原の手が差し出された。
「まだ理解が出来ないと言うのなら、今夜一晩かけて教えて、いや、口説いてやる。だから来い」
ふと、篠原が笑う。
自信に満ちた、まるで断られるなど考えもしていないような笑み。
そのような面持ちを浮かべ、強い言葉を告げられ、もう断る方が理由を探せなくなる。
「……はい」
そっと、篠原の手を取った。
上手く言葉が浮かばず、スマートな返事も出来ない。ただ、はにかむだけで精一杯だ。
「部長とデートに、行きたいです」
「なら、早く仕事を終わらせろ。話しはそれからだ」
「はい」
一度強く握られた手を、篠原は離す。僅かの間かち合った視線を反らすと、新堂は再びパソコンモニターへと向かった。
つい数分前とは一変し、キーボードを打ち付ける指は早い。直ぐにでも仕事を終わらせたくてたまらなくなる。
これを終えれば、彼に何を伝えようか。
口説く必要など何もないのだと、自分の本心を伝える言葉を用意しなければ。
無意識の内に唇はどんどんと笑みを形作っていく。
辛く寂しいばかりだと思っていたクリスマス・イブの夜。
それは夜更け前に、彩りを鮮やかにしたのだった。
【おわり】