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補足4

・「こころ」「情緒」等


「こころ」に関して簡単な補足を加えておこう。ところで、この記事において「こころ」「情緒」等に関わる議論が、詐欺の一種に近いと一貫して、この記事の書き手は記述している。そのようなタイプの議論が、多く、そのようであることを否定する必要はない。しかし同時に、事実上そのような議論の誘導が極めて有効に、機能していることもまた、あなたははっきり確認できるはずだ。これが何を意味するのかは、じっくり検討して欲しい。そして、それはあなたが十分に検討することができることのはずだ。十分に冷静な検討ができるのならば、そのようにな記述がどのように機能しうるのかを、あなたは利用できる。


そして事実として機能する事柄には、背後になんらかの実態があると見ても、さほどの問題はないはずだ。しかし、それの適切な扱いが容易であることを意味はしない。そしてその不適切なモデル化は、あなたの害になる。何かがあることと、それをどう扱うかの困難さは、全く別に扱わなくてはならない。


そういったものが存在すると仮定した場合も、表現の不適切がないか、対象の構造の不適切な把握がないかを丁寧に腑分けして検討するとよいだろう。この記事は、現在のあなたがとりあえず状況から脱出することを重視しており、扱うことからは大きく外れるだろう。その取り扱いはまた別種の面倒を含んでいる。


以降はあなたに委ねざるをえない。まずは、全く異なる語での記述から始めることを、この記事の書き手は、この記事の読み手であるあなたに対して提案しよう。この箇所は特に、極めて大雑把な記述を行うことになる。語の用法等において極めて雑なものであることは認識してもらいたい。例えば「的」の取り扱い等は雑だ。詳細に議論することは些か面倒であるが、しかしある程度重要であろうと考え雑にであれ、あなたが賢明であることを前提し、それでも話は通じるであろうと考える。無論この記事においてこの記事の書き手は、この記事の読み手が不都合な状況を脱出することを重視しており、それ以外の観点はあまり重視しておらず、詳細な議論とはなっていない。もちろんあなたがどのように見なすか、こちらからは分からないが、この記事の書き手はこのテキストデータが十分に詳細なものではないと認識していることを確認してもらいたい。実用のためのラフなデッサンに過ぎない。

まずは、関連する事態を、飽くまでも脳内の情報処理として可能な限り中立的に観察することから始めよう。脳にあるのは情報であり、情報処理である(あるいはそれに過ぎない)と捉えると、関連するあらゆることの捉え方が随分と楽になる。この表現を用いることにこの記事の書き手は躊躇なしとはしないが、機械論的な捉え方に慣れようと、この記事の読み手であるあなたに強く提案しよう。(機械とは別に物理的に歯車が動いてそうなものである必要はないだろう。例えば電子機器類も同様と扱って良い(ソフトウェア、アルゴリズムはどうだろうか。)。時々見かける議論だが、量子論的な議論は機械論ではないといったしょうもない分類を相手にする必要はない。半導体製品は一体どのような原理に基づいているか、量子コンピュータといったものは何か、確認するとよい。機械論的捉え方が、「機械」をさすものと捉えることが馬鹿馬鹿しいと考えることに、この記事の読み手であるあなたはなるだろうと、この記事の書き手は確信している。例えば、以下のようなものが機械論的記述ではないと捉えるのは(厳密な議論をするならば安易な分類が危険だとあなたは考え、表立ってそのよう主張するかどうかはわからないが(ちなみにこの記事の書き手も、通常ならば積極的にこのようには言及しない。しかしプライベートでは別だ。)) https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E4%BD%93%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB における、「概念データモデル」を機械論的な捉え方ではないとあなたはみなすと、自信を持って言えるだろうか。少なくともその側面なしと主張することにこの記事の読み手であるあなたは躊躇するであろうと、この記事の書き手は確信する。)


何らかの機能がありその実現があるとするのが、おそらく標準的な機械であろうし、あなたもそうある程度把握見なす(少なくとも機械という言葉のあらわすであろうものの一つ)であろうが、そこにあるのは、明白に理想化だ。踏み込んだ表現が許容されるのならば以下のような表現は、恐らくは実態を表すであろう。そもそも、どのような事態であれ存在であれ事柄であれ、それを機械として捉えることは理想化にすぎない。すべての要素を完全に一切抜け落ちるところなく記述することは通常現実的ではない、或いはむしろ問題解決にあたって不適切な場合のあることも否定できない。)。無論あらゆることを機械としてとらえることは、また別だが、具体的にあなたが何らかの機能を持っている物理的実態のある範囲にある塊を機械として捉えられるか否かは条件による。例えば適当にばらまかれた小枝の塊は、確かに物理的実体として記述可能であろう。しかし、その全ての側面をそのままに描くことがどのように可能か考えてみよう。現実には、例えば理想化された歯車、理想化されたリール、理想化されたシャフト、理想化された半導体素子、理想化されたバッテリー、理想化された諸々のパーツの塊として、まずは機能の明瞭さをもって捉えられる一群の物理的実体を、我々は結局機械通常はとしてとらえることになる(ソフトウェアやある程度概念的な事柄においても同様に検討してみよう。我々は、少なくとも2016年時点では、物理的なメモリの中身を検討しない(場合が多い)ことを思い出しておくとまた、議論の見通しが良くなる場合もあるかもしれない。)。無意味な分類と有意味な分類、無意味な機能抽出と有意味な機能抽出がある(無意味に近い、意味の程度に違いがある、といった表現にするとより適切になる。このような書き換えに慣れよう。)。無意味に見える小枝の集積を、機械としてとらえることは、全く別の、何らかの捉え方が必要になる。あるいは、有意味なものそうでないものの境界は、必要に応じて検討されなくてはならない。小枝は、時にあなたからして何らかの道具となる。あなたが野生の猿であったと仮定せよ。それは始まりの道具かもしれない。それを複数組み立てて、あなたは弓矢をこしらえるかもしれず、調理器具やカトラリーを作ってみせるかもしれない。(機械論に関する議論では、機械論であるか否かを分かつ条件の一つとして、霊魂の存在あるいは非存在といったことが条件とされる場合がある。注意しよう、仮に霊魂が存在しても、それが機械論的に記述され得ることにもまた、あなたは気づいて良い。霊なるものが仮に実在したとしても、その記述する形式にはさしたる影響はないのだ。仮に霊なるものが存在したとしても(仮に将来においてそれが見つかったとしても(実際に存在するか否かは問題ではない。))霊なるもの自体を同様に記述するのが、機械論的記述だ。問題の所在がどこにあるのか冷静に見定めよう。その時点で人類が得ている情報によって、その記述される要素が異なるだけであり、形式とは関係がない(あるいは関係がないとして扱おうとする(おそらくこちらの方が実態に近い。形式が要素と無関係なはずはないということも、念頭におく必要はある。))ということが重要だ。)

「機械が壊れた」とあなたは語る(無論この記事の書き手も語る。)。それは、理想化された機械(理想化されて、総体としてある機能あり、ある機能を実現するとされた一群の(物理的)実体)が、その機能を失ったか、その機能に不具合を持った状態にあることを意味している。機械という語には、この時点で理想化のあることがある程度はわかるだろう。日常的に用いられる「機械」の語にはそのような機能が(も)ある。しかし、より抽象化された「機械」には、また異なった理想化があることにあなたは気付くことになるだろう。目的論という言葉をあなたは調べることが出来る。そこからどこまで、本当に逃れることがあなたに可能であろうか。物理学とはなんであったのか。これは極めて粗雑な議論に過ぎない。せいぜいあなたに以降の検討にあたって必要なインスピレーションが提供できれば、この箇所の機能は十分だ。あとはあなたが自分で考えろ。ちなみにここでは機械論と機械論的記述を敢えて混同して、この記事の書き手は書いている。多数の観点を同時に提示するために楽であるからだ。但し、このままでは機能する記述ではない。あなたが自ら整理し、問題を解かなくてはならない。


機能によって、あなたも私もある事態を記述しようとする。しかし、ある物理的実体(ソフトウェアも、主記憶装置(主記憶装置は時代により何を指すか変化している語であることを、この記事の読み手であるあなたは容易に確認出来るどころか、既に知っているのではないか。ところでレジスタってなんだっけ?(編集用コメント:ハードウェア記述言語についての言及も、調べた上で載せることを検討。))を含めた記憶媒体に乗っている。紙もパンチカードも記憶媒体の一種であろう。人間の脳はどうだろうか。区別する必要をあなたは認めるだろうか、或いはこのテキストデータの書き手はあなたに対してこのように語ろう、区別する必要のないタイプの議論が存在することを(或いは、存在する可能性を)をあなたは検討出来るはずであると。或いは概念は、どのように存在するかを検討することにも価値はある。)を、有限の数の機能により、すべて取り尽くして記述可能と考えることは、安易なことだ。その要素の抽出方法も通常は無限にあり得るだろう。全てを取り尽くしたと考えられた要素の抽出が、本当にそうであった試しなど、歴史上一つとして存在してたまるものか。しかし、それ以外によって、人は事態を記述出来ず理解できない。その有限のプロセスにより記述することこそが、理解の本体であるとしても、実用上はさほど問題ないはずだ(もちろん、実用にとどまらない検討をすることはすべてあなたの自由だ。結果的にそれが実用的であることになる例など、歴史上枚挙に暇が無い。)。



扇情的な単語である(あるいはあなたに何らかの喜怒哀楽めいた反応を喚起するような)「こころ」「感情」といった単語を用いた表現を避けて、事態を記述してみよう。飽くまでも脳にあるのが、データの保存出し入れ、情報処理であるとして、また人の反応を外界との関係において記述して、つとめて客観的に記述しよう。念のために加えれば「内観」といった表現にも確認を加えて良い。しかしこのようなものにも、おかしなものはまぎれ込みやすい。極力注意して注意して慎重に扱うこと。

とにかく少しでもあなたに喜怒哀楽をもたらしそうな表現が現れたのならば、そうではない中立的な表現を新たに設定し、それを用いて事態を記述することを心がけること。


無論これでは関連する議論には全く不十分だ。あとは、適切な資料を集められ、自身が検討出来るあなたの手に委ねられる。



・児童相談所等


児童相談所等が、あなたに関する情報をすでに持っている可能性を否定できない。しかし、その状況をあなたは把握できていないことも全くあり得ないとは言えない。必要に応じて、ある程度「違法行為を繰り返す人物」達の処理が進んだら、記録の有無等に関して確認する価値はある。



殿しんがりを務めるということ


ところで、この記事では合理性、コストパフォーマンスについて重視した記述が多くあることを、あなたは容易に確認できるであろう、あるいは実際に多くあることをすでに読んでいるだろう。しかし、何が総体としての状況を規定しているか、未知であることを常にあなたは念頭におく必要がある。無論、今のあなたは「違法行為を繰り返す人物」達の処理のため、全く余裕がないだろう。そのため、常にコストパフォーマンスを最重視して動くことを、この記事の書き手は薦めることになる。しかし、総体として何があなたの周囲の状況であるのかは未知であり、あなたが将来において重視するであろうコストパフォーマンスを、その時点であなたは把握出来ないことは、常に念頭に置いておこう。

例えば、「殿しんがり」という言葉を知っているだろうか。一例として山一證券という会社が廃業するに至る経緯、また最後まで残った人物達を確認することには大きな価値がある。関係する本を読んでみよう。図書館にもおそらく少しはあるはずだ。余裕ができて気が向いたら、当時の日経新聞、日経金融新聞等を確認してもよい。古い新聞は例えば図書館等で確認できる。時代ごとの大きなニュースは、歴史の記述だけを見てもわからない。その時代において、リアルタイムではどのように報道されていたのかを確認することは有用だ。


これはその時点短期で見た場合には、一見非合理な振る舞いが、中長期にどのような影響をもたらすか、つまりある程度広い範囲での信用獲得が、あなたに何をもたらすかを示すかもしれない。山一に勤めていた人たちのその後や、最後に社長を務めた人物を含めて、山一の経営陣(特にその個人個人)のその後に関する報道も追っておくとよいだろう。


「ゲーム理論」に関わる議論においては、常に念のためこのようなことを念頭におく必要がある(それを学習するにあたっても、念のために常に念頭に置いておこう。)。但し「毒親」なるもの、つまりは「違法行為を繰り返す人物」は、早急に処理すること。制度上、あなたを害することが極めて容易な立場にそれら人物達はあるため、他の人間とは同様に扱うことができない。この記事の読み手であるあなたは「殿しんがり」というものについてどのように考えるだろうか、それは勿論様々な比喩として用いられるが、その総体についてだ。最も極限的な状況におけるそれ(元来の意味におけるそれこそは、最も極限的な状況の一つであろう。)も、無論含むものとする。


どうせそれのできない者は、極限状況においては自分を裏切るだろうと考えることもまた、一つの合理的な判断であり得る。この場合、それのできない人間を真に信用することはできないと、あなたは考えていることを事実上意味するかもしれない。あるいは、自らの保身のためにはそのようなことをなどそもそも普通の人間に出来る訳が無いと考えることもまた一つの考え方であり、そのような人間同士で社会や組織は構成されるのだと考えることは合理的な考え方の一つなのかもしれない。ともあれ極限状況においてあなたのことを裏切らないように、相手に要求することは「通常ならば」不可能か極めて困難(不可能とまで言わずとも好ましいことであるとみなされない場合を含む)であることは、あなたも認識しておく必要がある。言い換えの一つとして(このような記述のある場合、あなたはその箇所が完全な言い換えになっているか注意しよう。)相手が裏切らないことなど通常ならばありえないような極限状況が想定され得る(かもしれない)としてもよいだろうか。この場合、絶対に裏切らない人物とは、裏切るような極限状況を想定することができない人物であると、書き換えることもできるかもしれない(冷静に考えると、これは想像可能な極限状況を、どこまであなたが考えられるかに結論が依存することを、容易にあなたは理解できるだろう。)。このように書き換えると、どの点以降は裏切ってもよいと条件を設定することが比較的容易に出来るようになる、あるいは危機的な条件下で、どこまであなたは合意を持っておくことが必要かを考えることができるかもしれず、他にも様々な検討が容易となる。一見すると単なる書き換えだが(もちろん、一側面(幾つかの側面)を抽出しての書き換えであることに注意しよう。)、書き換えには意味のあることが多い。もちろん次の段階では、裏切りという表現を中立的に置き換えることで、また別のことをより適切に示しやすいものとなるはずであるが、そうするとこの箇所の記述からは議論が外れてしまう。


ともあれ、それ「殿しんがり」を要求することができる状況や立場は極めて限られることをあなたは理解出来るだろう。通常ならば、つまりあなたの置かれることになる殆どの条件下で、それは相手が自らの意志で選択することでありあなたの強要することではない(仮に強要出来るとすればどのような条件かを考える価値はある。あるいはそれができない条件を検討することも重要だろう。どのような事柄についても、常に両面から検討する習慣をあなたは身につける必要がある。仮にあなたが義務として、そのようなことをしなくてはいけない状況があるとすれば、どのような条件かを考えることは常に必要だ。仮に、そのようなことをする人物をあなたが欲するのならば(特に「義務としてではなく」そのようなことをする人物を欲するのならば)何が必要なのかもこの記事の読み手であるあなたは検討出来る。)。そしてあなた自身はどのように考えるかとも、この記事の書き手は問うことにしよう。ともあれ現実に「殿しんがり」を務めるような人間だけを、しかしあなたは得ることができないという現実もまた考えなくてはならない。あなた個人が、そのようなことを務められる人物でなくて、相手がどう判断するか考えることは当然重要だ。だからこそ、同種の行為は高く評価されることになっている、高い褒章が与えられることに歴史上なってきた、そうでなければやる人が減る、と考えるのも悪くはない。事実としてそのようなものが評価されている社会が存在するということは、そのような行為を高く評価するような社会がどちらかといえば残存しやすいからかもしれないと見なすことも選択肢だろう(もちろん検討の結果次第では、実際はそうではないかもしれない。)。賢明なあなたはこの箇所について十分な検討や、より適切な形式による書き換えが出来る。信頼の構成がどのようでありうるのか、この記事の読み手であるあなたは冷静に観察し検討する必要がある。少々 条件は異なるが、トロッコ問題と呼ばれているものを確認してみよう。ともあれ、形式上あなたが相手に対して強く出ることの出来る条件であろうとも、形式上のそれ以外の条件が強く効いてくることはあり得ることを念頭におくことは重要だ。形式上以上に相手が動く場合があるとすればどのような条件下においてであるのか、あなたが検討することには価値がある。


合理性とは、どのように定義され得るものであるのかを常に考えよう。合理的に振舞おうとするのに、その合理性自体が曖昧では何の意味もない。たとえば、狭い範囲での合理性が、広い範囲で合理的であるかはわからない。もちろん、広い範囲で合理的であるはずの行動は、狭い範囲たとえば事実上の治外法権となっている日本において家庭と呼ばれているものにおいて、合理的ではないこともまた多くあるだろう。そして、わざわざこの記事をここまで読んだあなたは、それを実際に体験しているはずである。「合理的な人間」あるいは類似の表現を見かけたら、それは本当にそう見なしうるものか否か、あなたは丁寧に読み解こう。例えば、フィクションにおいて描かれるそれ、報道においてそのような人間であると描写される人物、それはどのような観点から合理的であるのかを検討する価値はあるだろうし、そもそも皮肉でしかない場合も多くあることをあなたはよく知っているのではないか。実は合理的でもなんでもない、ぼんやりとした合理性気分への信仰程度を、合理的であるとしている程度ではないかと考えてもよい。せいぜいそのようにしか捉えられない人物を、あなたの受容している報道やフィクションは「合理的な人間」として、皮肉めいた筆致で描いていないだろうか。そのような事柄の困難を描くため、敢えてその書き手は、そう描いているかもしれない。あるいは一見そのように描かれていても仔細に見ればまた違った人物がそこにはあるのかもしれない。


「部分最適」「局所最適」という言葉を覚えておくことは有用だろう。対となる言葉も、あなたはインターネットで容易に調べることが出来る。この記事の書き手は、この記事の読み手であるあなたをどのような人物であると見なしているかを確認してほしい。もちろん言葉を覚えておくとは、その語の関係する事柄や、背景についてもある程度の把握をすることも同時に意味していると、この記事の読み手であるあなたは見なしているであろうことを、最初からこの記事の書き手は前提している。

もちろん、こういった議論も、あなたがどのような状況に置かれているかによって、どのように適用するべきか変わってくるだろう。今この記事を読んでいるあなたはおそらく非常事態にあるのであろうから、そこからの脱出をまずは重視することをこの記事の書き手は薦めることになる。


まずはここで打ちきろう。あなたは現状を打破しなくてはならない。法令を完全に遵守した上で、それに最適の行動を今は取るべきだろうと、この記事の書き手は、この記事の読み手であるあなたに対して強く提案する。当然、この記事の読み手であるあなたにそれは可能だ。

しかし打ち切った上で、念のために加えるべきであろう、関連の議論は、おそらく無限に続けることができる。有限長の記述は、妥当な記述であろうかと問うくらいでよいだろうと、この記事の書き手は考えるが、この記事を読むあなたはどう考えるだろうか。ただしごく簡単な補足を加えるならば、安易なこれをそのまま延長して用いた場合にありうる経路の一つ、行き着く先の一つは安直な特攻隊の大量運用となる可能性をあなたは念頭におくことが出来るだろう。それが妥当か否か、あなたはまた別途検討しなくてはならなくなる(その妥当性も、自ら検討するとよい。是とするも否とするも、他人の意見も完全に自らの書き方で書き換えて、どの観点からも説明できるように訓練すること。)。このような検討は結局無限に継続せざるをえない。さもなくば、意味のある検討などあり得ないと知ることがあなたは出来るだろう。歴史を学ぶことの重要性を安易に語ることは愚かなことではあるまいか?必要なことは冷静に事例を収集し、評価することだ。歴史という言葉は、無意味に過剰に重い。解釈は無限であり、入手できる情報は時点毎に限られ、時の経過とともに記憶は消え行き記録は薄れ、その時点で意味のある範囲で正しいかはなかなかわからない。歴史という言葉にまとわりつく亡霊は、歴史なるものの不安定性をたやすく忘れさせる(大昔のニュース、新聞等の確認は有用であろう。あなたの幼い頃のニュースを、当時読んでいなかった資料で再度確認するとよい。)。具体的には、あなたにその不安定性を忘れさせる。歴史に巣食う亡霊たちは禁書目録より大飯食らいであって、容易にあなたを喰らい尽くす。歴史に対する解釈がどれほど不安定か自体について、あなたは把握する必要がある。歴史なるものの不安定性の歴史をあなたは学ぶ必要がある。その時点での歴史なるものは、それ以外であろうといくら望んだところでそれを構成するものの望むものと異なるものでありうるのか、そう確認しながら見てさえ、まだ危うい。もちろんいくらあなたが、関連する事柄を書こうとも所詮その程度でしかないかもしれない。しかし書かなくては、それにさえ到達しない。歴史なるものに関わるプロセスの全ての箇所に、再帰的なものの屍は満ちている。ところでここでも歴史という言葉が用いられている。関連しそうな議論においては形式上、歴史という語類似の機能を持つ語が外せないのかと問うことも愉快であるかもしれない。しかしここで扱うべきことであるのかは不明だ。後はこの記事の読み手であるあなたに、この記事の書き手である私は委ねることにしよう。


この「殿しんがり」に関する記述はもちろん、あなたがどのように振る舞うことが合理的であるのか、この記事の読み手であるあなた自身が自らの検討することが可能となるであろうと、このテキストデータの作成者は考え用意したものだ。高々一例に過ぎないが、おそらく賢明なあなたには十分であろう。



・組織等


上記のような「殿しんがり」は無論、そのようなものに類似した自体全て、またあなたが扱う、信頼の類を検討する一時となるよう、例としてあげたものにすぎない。一人でできることは限られる。当面の間、あなたはおそらく一人だけで動くことになるだろう。完全に信用できるのはあなた自身と、あなたの利用できる制度であり、法令だ。しかしまた、どのような組織や類似したもの(2人以上は組織だ。特に長期間の関係を考えるのならば、極少数であろうとも、慎重な検討が必要だ。)


どの時点においても、どのような組織やそれに準ずる集団も(繰り返すが、二人以上は全てそうだ。)以降における継続性を前提しなければ機能しない。ある時点における安定や信頼は、その前の段階が前提となって初めて機能する。事実上数学的帰納法類似の構成を前提して出来上がっていると、この記事の読者であるあなたはとりあえず近似的に考えることを提案しよう。


時点毎の、継続性への合意こそが信頼を構成する。

ある時点における信頼は、それ以前の信頼を前提して構成される。


この二点を念頭に置こう。


現実における特に個人における、ゲーム理論的議論において、これは常に前提せざるを得ないと、とりあえずあなたは考えておくとよい。詳細な検討は、状況を脱してからにすること。またこれも、大きな議論となるため、この記事において扱うには手に余る。前述の「殿しんがり」のような極限状況を検討するにあたって、米国型の、特にハリウッド映画的なフィクションは参考になるかもしれない。シンプルなものの方が、検討の起点においては参考にはなるだろう。現実のパフォーマンスにおいて、この記事の読み手であるあなたの振る舞いを、あなた自身が検討しなくてはならないからだ。現実のあなたの言動において、どのようなことが可能かをあなた自身が検討し、実行しなくてはならない。


極限状況において、フィクションにおける、フィクションにおける主人公あるいはその集団は(極限状況を描くフィクションにおけるそれらは、これらにおいて米軍であったり、殺されそうになってもなかなか死なない不思議な警察官であったり、はたまた法律家や医師の類、場合によっては大学教授であるかもしれず、何らかのヒーローの類かもしれない。もちろん、ホームアローンだってあなたは参考に出来るかもしれない。ところでNASAが危機に際してどう振舞ったかは、とても参考になるだろう。どの映画を指しているかはすぐにあなたも分かるはずだ。映画ではないが、いまいち不幸な日本の「はやぶさ」に関してももちろん確認しよう、できればある程度専門的な報道を。)どう振舞っているだろうか。


そこにあるのが、理想化されたモデルであるからこそ、参考としては悪くない。これらは、あなたに具体的な手段、実用品を提供する。

或いは、理想的なモデルが、どのように現実において適用可能かを、これらを用いてあなたは実地で検証しよう。裏工作、根回し、そういったものではない、表立って機能する言論は、どのようなものであるのかを、検討することがあなたには出来る。特に後ろ盾のない条件にあなたがいる場合には、表立った手段、表立った発言以外、事実上は選択出来ない。そのような時に、これらの言動は参考に出来るだろう。これは、教育機関のような閉鎖環境であっても同様だ。閉鎖環境においてこそむしろ、あなたは徹底的に表立って、理想的なモデルを演じ、理想的な言動を放つことに意味がある。表立った言論においては、その射程が発言の強さを決することになる。


(注:もちろん議論の射程と言っても、条件はある。あなたがもし中学で演説をすると仮定しよう。いきなり中学の選挙か何かで古典をギリシア語で引用しても、客はついてこれず、例えば校長の朝礼におけるぼんやりポエムみたいなしょうもない引用と大して変わらないことになる。つまり、しょうもない権威主義者であるとみなされる可能性も否定できない(もちろん面倒そうな引用がハッタリとして有効な場合もあるが、それはあなたが勝手に判断しろ。)客層と、あなたの置かれた時代、扱う範囲等はしっかり確認しよう。個人の演説の類には、どうあっても個人のセンスや趣味の問題があるので、あとは勝手にあなたが考えればよい。自らの演説について、人に頼るな。ただしあなたの演説が他人に読まされていないものに見えるテキストデータであることは、極めて有効だ。後ろ盾のあるものは、多くの場合後ろ盾あればこそどうせ台本を読むだけの操り人形と大して変わらない。客からは実際にそう見えてしまう。)


しかし、過剰な礼儀を求めるのはだいたい言いがかり好きの奴なので相手にせずともよい。この記事の読み手であるあなた自身は、相手に挨拶の類を要求することがあってはならないが、あなた自身はある程度重視して行おう。但しそれが合理的なものであるかは注視すること。また法令に反するそのようなものは、相手にしてはならない。これは法のある領域において当然のことだ。法令に反する礼儀の類をあなたが求めることなど何があろうとも論外だ。



・完璧を目指せ


完璧であることを非難する言説はあり


端的に言えば「人間だもの」めいたものは徹底的に排撃するがよい。あなたに欠陥があることが好ましいなどというものが、あなたをまともに扱うと思う方がどうかしている。要は欠陥品のガラクタがあなたにたかるのに都合がよいと主張しているだけであり、欠陥品を保護するためのくだらない口実に過ぎない。そんなものを相手にする言説など潰してしまうがよい。高々一度であろうとも相手にしたが最後、あなたはその連中の同類だ。あなたにふさわしい人間を探すのだ。そのようなものを好むものは好むもの同士で群れればよい。(自分は近寄りたくも関わりたくもない)


そのようなものをあなたが本当に美しいと思えるのならば勝手にすればよい。無論そのようなものについてはさまざまな評価の基準があることを否定しないが、歴史上存在するあらゆる美をデザイン全てを仮にあなたが見尽くしたとして、真にあなたはそれが美しいと思えるであろうと、あなた自身は考えるのかと言い直して問うてもよい。あなたがあらゆるものを見尽くしてなお、そのようなものが好ましいあるいは表現の理想があるなどと思う人間であると自身を見なすのならば好きにすればよい。ともあれそのようなものを、この記事の書き手は軽蔑してやまず、そんなものを持ち上げるものに関わりたいなどとは思えない。


ぼんやりとしたヌルい表現、生温いべたついた気色悪い倫理の類は、少なくとも現代日本においてなぜか批判されにくく、そのようなタイプの表現を批判することが罪深いものであるかのように思われている傾向があるかもしれないが(ないのならば全く問題はない。そうであることをこの記事の書き手は強く祈る。)、仮にそうであるのならば、批判することになんら問題がないことをあなたは思い出してよい。あなたには表現の自由がある。批評は正当な権利だ。ちなみにこのように書いたからには、たまには純粋に私自身の好悪を述べると、この記事の書き手は、そのようなものが、類似表現を見ると吐き気がする。このようなものをありがたがり、あまつさえそのテキストデータを自らの作成するテキストデータに(好ましいものとして)引用してみせる者を軽蔑してやまない。そのような者を引用する者など、全く信用に値しないとさえ私は考えている。美への志向も、権利意識も、まともな論の構成も、全て投げ捨てた文明を捨てたものであり、獣に過ぎないとさえ思う。このような言説は、適切な権利行使の障害となることも、当然指摘されてよい。このような言説を持ち上げるのは、現代日本における極めて悪質な習慣であるとこの記事の書き手は考えている。こんなものをありがたがっていてどこに文明などありうるのか。ロハスもクソもないわ。

私は私個人の好悪をこのように述べた。あなたは、あなたの責任であなたの見解を述べればよい。無論類似のごときに対して、賢明なあなたはわざわざ言及しなくてもよい。この記事の書き手も、汚らわしいものと考えて、そのようなものに関することなど普段述べないことにしている。たまに見かけると吐き気がするというだけだ。これは単なる個人的な好悪の表明であり、それ以外ではない。そのようなものを高く評価してやまない人がいるのならばそれを規制する権利などこの記事の書き手は当然持っていない。そんなものを飾っているのが、社会的な責任ある人間であったとして、信用することができるか、あなたは一度振り返るとよい。この記事の書き手は、社会的な責任を持つ人間が、そのような引用をしているのを見て仰天してしまったことが一度ではない。

そのようなものは耐えることを美徳であると語ることが多い。被害者は、犯罪に対して唯々諾々と従えばよいというのか。権利は主張し行使しなくてはならない。このようなものは、明確に社会の害となると、この記事の書き手は考える。例えば、教育機関における授業等で、このようなものに感想文の類、レビューの類、レポートの類、批評の類を求められたのならば、正当な権利で、徹底的にあらゆる観点からあなたは批判を加える権利がある。批評や感想文は、字面通りに受け取る限り、褒め合いを求めるものではない。教員等に批判されたのならば、日本国憲法をはじめとする関連する法令を読み、その批判が不当であると徹底的に対抗することもあなたの権利である。それにより少しでも差別的な対応がなされたのならば、それについても同様にあなたは監督する機関等に訴える権利がある。そもそも日本人が当然に有する権利行使の障害となるようなものを、教育機関が持ち上げていたのならば、それ自体が教育機関における営みとして問題があるのではないかと関係機関等に問い合わせ訴える権利もあなたにはある。その上で、法令は完全に遵守し、完全無欠の優等生として振る舞うとよい。教員が法令に従わないのならば教員を法令に従わせるための手続きを取るとよい。

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