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問題を解決するにあたって意味のない議論

例えばこのような議論は無駄であろう。


https://matome.naver.jp/odai/2141521275515168701?page=2


「環境を否定する・しない」「自己肯定感」「人と違うかどうか」「心の棘」「親の愛」「母性」「母と娘」「親の重さ」「親子関係」などなど関係する議論のバズワードは列挙してもキリがないが、これらは問題を曖昧にし解決から遠ざかるどうでもよい議論である。あなたも関係するバズワードを列挙してみよう、情緒的で扇情的な単語が多いとわかるはずだ。分野を問わないが、このように情緒的で扇情的な表現は通常、読み手の事態・状況の把握を混乱させ、判断を誤らせるためのレトリックに過ぎない。繰り返すが注意しよう、これらは典型的なレトリックだ。観点を変えよう、あなたはこのような言語の使用を、あなたが「小説家になろう」において為す創作において、用いることができる。このようなレトリックは、あなたが創作において読者の反応をコントロールするために用いる手段であると、明確に自覚しよう。読者の感情を撫で回す書き方は「小説家になろう」において、あなたがあなたの作成するテキストデータの支配下に置くために存在するのだ。もうあなたは事態を理解できる。

そのようなときは中立的な表現だけを用い、具体的な事実の列挙をするように心がけるとよい。このようなバズワードは、対応する事実が不明瞭であり、事態の結果としての情緒に焦点があるため、あなたを問題の実態把握から遠ざける。そうでなくても日本語の議論は問題の所在が曖昧になりがちなのに、余計なバズワードの装飾を増やしたら問題の究明ができるはずもない。これら議論は煙幕でありデコイであり、問題の所在を誤認させるためにあるまがい物の議論であると心得よう。問題ではないものを問題として商売を成立させるマッチポンプのバズワードビジネスである。この記事を読むあなたは、そのようなバズワードビジネスを遠ざけて、問題の所在を明確にし事態を解決に導かなくてはならない。繰り返すがこれら議論は、結果の情緒に焦点がある。論ずる意味はない。結果として現れる情緒のようなまやかしではなく、あなたは問題の実体・実態を扱わなくてはならない。より一般化して言えば、問題の実体なり構造を掬い取るように、あなたは事態を記述しなくてはならない。可能な限りドライな、情緒を極限まで排した表現を用いることが重要だ。そうしなくてはあなたは問題を分解出来なくなり、問題の解決も不可能になる。


情緒や精神の類を問う前に、事態の物理的な側面、法的な事実、経済的な事実、発言の触法性をまずは問え。社会において明確な事実は、あなたの情緒でも漠然とした認識でもない。物理的に、法的に、経済的に、言語的に、意味のある事実を列挙せよ。そして関係可能性のある法令と照らし合わせるとよい。「毒親」なるものが誰もが認める犯罪の集積により出来上がっていることをあなたが示せれば、それで十分である。話を裏返してはならない。これら問題となる明確な事実の集積により出来上がっていることが確定した家庭が、問題家庭である家庭となるのであって、それが確定するまでその家庭はどんな家庭なのか確定しないのだ。事態の記述を裏返すと、問題への対処が困難となる。事態を適切な形式で表現することが重要だ。問題ありとするのならば、問題の存在を確定させ、法により対処しなくてはならない。


((特にあなたが今中高生ならばだが(そうでなくても、物理学に関係するものを読むことには価値がある))少なくとも現代の日本では女性は特に情緒を重視して議論するように育てられる習慣が強いため、必要時にそれを切り捨てられるよう、理科では物理を是非選択するとよい。特に現代に近づくほど現実世界に役立つ議論があるので、先行して後ろの方を歴史的経緯付きの詳細な解説書付きで概略に触れるのもよい。おヒマなら科学哲学方面の本を読むのも悪くはないが、あなたの趣味による。ともあれこれから女性のあなたがキャリアを積んで行く上での最初の選択として、物理は悪くない選択だ。生物のような分野は大学に入れば完全に話を入れ替えなくてはいけなくなる、実質完全なやり直しを要する分野ではないか。その点物理はどちらかといえば硬い。無駄が少なくコストパフォーマンスがよい。化学は大学に入ると実質物理と言われがち。地学は自分で全部学んでおこう、当然知らなくてはいけない教養に過ぎない。(因みに女性は医学部志望者も多いかもしれないが、例えば高々医学部等の説明会でさえ通常、高校段階の生物選択に、実質的な意味はないと言われることをよくよく覚えておこう。所詮雑多な知識の集積以上のことを高校段階では出来ず然るべく構造化された議論にも繋がりにくく、教える方は楽であろうが、高校段階で学ぶのに適した分野ではない。物理と化学は違う、のちの基礎となる)女性がキャリアを積む上で、高等学校における生物選択は実質的にあなたの時間を潰すための罠だと考えておくべきだ。無論、教科書や資料集、ブルーバックス等で生物に関する標準的な議論程度は覚えておくとよい。時間の浪費とならない選択をしよう。生物と地学は、高校程度の内容ならば読書で十分に対応できる。学校や受験では物理を優先し、二科目選択するならば物理と化学を選択するのがよい。ただし物理は教えるのが下手な教員に注意、壊滅的な人がいる。物理ができない人の発生理由は、教員の無能である場合が多い。物理の教員が使い物にならなかった場合(多い)、物理を選択をした上で、参考書類の自習、助けが欲しいならば予備校やネット配信系のものを利用しよう。女性は高校で生物を選択させられる場合が多いが、キャリアを積んで行くあなたからすると後々時間の無駄となるので相手にしてはならない。私見に過ぎないが、強く提案したい。これは文系理系を問わない。文系こそ(女性ならば尚更)物理に関する勘を養っておかないと将来必ず後悔すると、保証しよう)


そもそもの問題の一つは「毒親」という表現であろう。「毒になる親」は無論、翻訳であるが、形は同じ。「(子供を蝕む)毒になる親」そして「子供を蝕む毒として機能する親」あるいは「子供を蝕む毒を持つ親」が、元の形であるとしてよいだろう。つまり「毒親」の「毒」とは、子供において機能し、(毒となる親と、長期間接触した結果)子供に存在してしまう毒を、指している。

「毒親」は、犯罪に関わる事態を、あいまいなまま別の呼称で呼び換えているだけとしてよい。極めて悪質な言い換えだ。援助交際は売買春にすぎないが、援助交際という表現を用いることで、実態が隠蔽されてしまう。「毒親」という表現も、犯罪を隠蔽するための悪質な言い換えだ。あるいは問題を、事態の結果にすぎないところの情緒に見出そうとする習慣こそが、「毒親」問題の本体なのではないか。特に「毒親」なるものは女性に関わりがあるとされるが、問題が深刻化しがちなのは、問題の実体ではなく表面であり結果にすぎない情緒に、議論の重心を置く、日本における女性の育てられ方があるからとしても、大きく外してはいないようにも思われる。「毒親」とは、(被害者にとって)「毒になる」親であるとされているが、この表現自体が、被害者の情緒に問題の焦点を置く構成となっており、それ自体が問題を深刻化させる元凶となっているようにも思われる。バズワードを用いたマッチポンプビジネスの多くは、この形式なのではないか。


まず、問題なのは違法行為を繰り返している加害者である親であって、被害者である子供ではない。この「毒親」なる表現は被害者に仕込まれてしまうあるいは感染する「毒」があると、暗黙に感じさせるように出来上がっており、問題の所在を偽装しているに等しい。問題があるのは「毒」や「棘」が所在あるいは感染する(あなたはこの毒や棘という、被害者側あるいは被害者の心情に関心を向けさせる「巧妙なレトリック」に感嘆し、一度感嘆したら敬して遠ざけよう)とされる被害者ではない(毒が、被害者に仕込まれるという表現であるので、毒があるのは被害者の側なのだ。無論親にも毒はある。この表現の形式が問題なのだ。毒が被害者において存在すると読み手が感じるように、その毒をどうにかしなければいけないと読み手が感じるように、「毒親」なるものに関わる議論や言葉が組み立てられている。棘も同様。そんなものはどうでもよい。問題の発生源を除去するだけでよい)。加害者が問題なのだ。便宜上この記事でも「毒親」なる表現を用いているが、これらの本やネット上にある実例を見る限り事実を適切に示す妥当な表現は「違法行為を繰り返す親」であって「毒親」ではない。注意しよう。表現に惑わされてはならない。

買春は、現在売春から置き換えられているが、これは売り手ではなく、買い手の側に焦点を置くことを重視した表現である。高々漢字二文字で出来上がった単語が、事態を全く違えて表現していることにあなたは気付く。誰のどのような行為が問題であるのかをはっきりさせよう。「毒親」なるものに関する議論も、同様の書き換え(ただし大規模な書き換え)をしなくては議論が出来ないと認識しよう。「毒親」は、短縮してあるため表現にねじれがあるが、元々の議論がどのようであったのか、或いはどのような議論を導きやすいように、当該分野の用語が成立しているかをよく示していると言えるだろう。よくよく見ると「毒親」なるものにまつわる用語はどれも、被害者が自らを責めるよう議論が構成されやすいようにできている。被害者自らの傷をえぐりやすいように出来ている。焦点を被害者の周囲に合わせるレトリックで議論が構成されており(トラウマを掻き立てる構成であると言えば、そしてあなたをトラウマに巻き込んで冷静な判断を遠ざけようとするレトリックになっているといえば、あなたには分かりやすいだろう)、加害者の、具体的な違法行為が問題であることが曖昧になっている。極めて悪質なレトリックだ。要は、加害者の行為を具体的に記述することが煩雑になるように用語や議論が出来上がっている。

つまり、わざわざこのように大規模に書き換えないと、事態が見えないように「毒親」なるものに関わる議論が出来ている。あなたが関係する事態を記述する場合も大規模に議論を修正しないと意味のある議論を構築できないように、議論の習慣が成立している。そのように関係の議論が出来上がってしまっている。

また「毒」という表現が用いられることで、被害者は、自らにおける毒の残存可能性に常に怯えなくてはならない状況にあることも指摘されてよい。言い換えよう。被害者のトラウマが存在することまでを(少なくとも積極的に)否定する必要はないが(ただし、そのようなトラウマと称せられるものも、「毒親」なるもの同様に「こころ」がらみの議論であることに注意しよう。今はすべての元凶である「毒親」なるものの処理を考えるとよい。煩雑となるためこの記事では扱わない。)、回復するのに適切な状況が構築されていないのではないかと問うべきだ。その言葉の存在自体が、延々とトラウマをえぐり続けることになっていないか問うべきだ。親による違法行為のあった事実が変わるわけではないが、不適切な表現が事態を悪化させていないかと疑うべきだ。中立的な、事態と責任の所在を明確にする表現を用いる必要がある。特に、カウンセリングめいたことを主張する議論において、配慮が実現されていない現状は最悪と言わざるをえない(この議論のオリジナルとなる本には、カウンセリングがらみの議論もあったはずである。注意せよ。不適切なカウンセリングは問題を悪化させる)。

ともあれ結果的には「毒」や「棘」という言葉により、違法行為の被害者に傷の残ることが強調が実現されている。関係する議論がネット上に存在する限り「毒親」の「毒」という文字を被害者は見続けることになり、その議論ある限り被害者は、その毒の残存可能性に怯えなくてはならない状況に(意図によると主張するほど陰謀論的な議論をするつもりはないが)置かれることになる。事実として置かれている被害者は、ネットで管を巻き、「毒親」なるものを扱う本が新たに出れば購入してしまうことになっている。

その連鎖を断ち切るには適切な法的対処と、「毒親」なるものの行為は単なる違法行為に過ぎず子供は単なる違法行為の被害者でしかないという、ごく単純な当たり前の図式の構築、現実と言葉の対応関係の構築、そして現実の対応である。他の犯罪と被害者の救済を含めたプロセスをにおいて何も変わらないという当然の事実をまずは踏まえなくてはならない。特に被害者は踏まえなくてはならない。違法行為があったという事実の存在を認めることは重要だが、適切に事態を表現しなくては状況が悪化するばかりである。


「毒親」にまつわる表現の多くが、ビジネスに極めて都合のよい表現になっていることもまた、重要であるだろう。継続的なバズワードビジネスが可能となるように、語が選択されていることに注意せよと主張しても問題はあるまい。これが偶然出来上がったものであるのか、書き手(敢えて言えば「毒親」概念を形成してきた主体)により意図的に形成されてきたのかには、議論の余地もあるだろう。繰り返すが、「毒親」という表現に問題があることと、現実に問題が存在することは全く別である。「毒親」という言葉をなくすことにより「違法行為を繰り返す親」が消えることはない。単なる虐待を含む犯罪に対して、適切な表現を用いる必要があるということだ。


ちなみにこのような場合、あなたはどのようにビジネスを構築可能か考えてみるとよい。例えば「毒親」と子供へのカウンセリングをビジネスとしてはどうだろうか。「毒親」なるものは、どうも「毒親」なるものと子供との関係により成立するもののようであり、かつ「毒親」をそうたらしめる性質は強固で変化しないとこれらの情報にはある(「サイコパス」なんだってさ)。仮にこれが事実であるのならば「毒親」なるものとその子供を(カウンセリングを行う側(ここではあなたがカウンセラーになったと仮定すること。そして継続的に利益を上げるにはどうしたらよいか考えること)は、飽くまでも問題の解決を行っていると主張し続けるとよい。)付かず離れずの状態にさせておき、定期的に問題を発生させ、定期的なカウンセリングが不可欠な状態を作り出すことは容易である。飽くまでも離れていることの重要性を強調しつつ、同時に時々根本的な解決をしたほうがよいとでも「毒親」と子供の双方に話して二者か三者で面談し、子供の側の傷口に塩胡椒を塗りたくるのだ。子供には自動的にカウンセリングが必要な状況を作り出せる。無論、親側は極めて問題の多い人物のことが多いようであるから接触が発生するだけで「毒親」が新たな問題を引き起こす可能性は高い(必ず問題を引き起こすと期待してよい。カウンセリング中に問題を引き起こすよう、誘導をするのは問題発生を確実とするためのよい選択肢だ)。そして実質的には単なるマッチポンプであるが新たに発生した問題をかりそめに解決してみせることで、信用を獲得でき、また同じことを繰り返し継続して集金が可能だろう。一年も経てば一組の問題家庭は逃げて行くかもしれないが、多数の顧客を用意すればそこそこのお金にはなりそうだ(クレーマーめいた対応をされたなら返金でもして(場合によってはもう少し色をつけて)口を封じることも選択肢かもしれない)。ついでにBlogと電子出版でも組み合わせてはどうだろうか。真っ当にカウンセリングをするとしても、Blogや電子出版に載せる事例集には成功事例の成功した時期 (のようなもの) だけを載せればよい(最悪の場合それが創作でも、藁にもすがりたい被害者はすがってしまう)。数を集めることも重要だが、一度つかんだ獲物を維持することもまたビジネスには重要だ。集めた被害者を維持するためには、継続的にカウンセラー本人に被害者が接触するよう仕向ける必要がある。そのためにまず重要なのは、被害者に「毒親」なるものの記憶を執拗に定着させ続けることだ。加害者側が積極的にカウンセラーに接触してくる可能性はどちらかといえば低い以上、重視するべきは被害者だ。被害者に虐待つまり「毒親」なるものの犯罪を明瞭に生々しく思い返させ続けることは、継続的にカウンセラーにアクセスを発生させる重要な条件となる。最低限、受けた犯罪被害を覚えていなくては、被害者もわざわざカウンセラーを頼らないだろう。そのために必要な作業は何であるか少し考えてみるとよい。様々な手法が考えられるが、あなたの記憶を定着させるために、学校があなたに何をさせていたか思い出してみることは有益だ。被害者に、記憶を反芻させ続け、犯罪の被害を執拗に思い出させ続ける方法は何であろう。ある種のセミナー商法やカウンセリング商売においてありふれた手法がある、かもしれない。記憶に関する人間の性質を利用するのだ。

これは、継続的な「ビジネス」を成立させる方法の概略をごく簡単にでっち上げただけに過ぎない。このままでは商売は機能しないかもしれないが、大枠が考えられれば十分である。実質的な解決を(無限に)先送りし、定期的に問題を発生させる状況を作り出しトラウマをえぐり続けることは、ビジネスの継続に極めて有効であることに気づくだろう。あとは、セミナー商法やカルト宗教の手法を参考にするだけで、どのような問題が発生しうるのか、あなた自身が考えることができる。曖昧で扇情的な表現を見かけたら、あなた自身が継続的なビジネスを仮に行うとすればどのようにするかを考える習慣をつけよう(あなた自身は賢明であるから無限にビジネスを考えられるだろうが、詐欺まがいの悪質なビジネスに手を染めないように注意すること)。

もちろん、このような事態が実在すると、この記事は主張しているのではない。場合によってはそのようなビジネスを作り上げることが可能であるかもしれず、あなたももしかしたら作ることができるかもしれない(でもやめておけ、やってはいけない)と主張しているのであって、それが実在すると主張しているのではない。そういった方面のカウンセラーが仮にいるとしても(自分はこの方面を全く知らないので、いるかいないかは分からない)善意からきっと動いているに違いない。私は人が、かような糞ビジネスに手を染めるなどとても信じられないのだ。無論、あなたもそんな糞ビジネスがあると安易に主張したら陰謀論者として扱われてしまうので注意しよう。飽くまでも、最悪の場合を念頭に置くだけでよく、人に主張する必要まではない。無論、被害者を食い物にする、糞ビジネスがあるなどという奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入出前迅速落書無用あと天地無用な陰謀論を私は主張する気はない。この日本においてそんな糞ビジネスが存在しないことを、純真無垢な私は祈ってやまない。ともあれどのようなサービス、商品を利用するのであれ、いわゆる「プリンシパル=エージェント理論」を参照すること、少なくとも関係する問題の存在を念頭に置くことは、極めて重要である。冷静に考えれば、完全に問題を解決することがカウンセリング商売の側からすると不都合であるとわかる。問題は継続する方が、カウンセリング商売には都合がよい。機能するカウンセラーはそれを前提として、顧客に完全な解決を提供できる人であり、なかなか普通の人には難しいような気もしないではない。顧客からして最も嬉しいことは、二度と当該の理由でカウンセラーに関わることがなくなることだ。しかし、カウンセラー側からすると必ずしもそうではない。

ともあれ、あなたは、相手方に立った場合、どのようにビジネスを構築するのが合理的であると考えるはずであるのかくらい念頭においたほうがよいということだ。


そもそも「毒親」なるものに関する議論などは、本当に「毒親」なるものの被害者のために出来上がってきたものなのかあなたは疑うべきだ。少なくとも関係する議論が継続してしまう条件、また関係するビジネスがあるのならばそれを継続させるために必要な条件はどのようなものかは想像したほうがよい。善意からであろうがどうであろうが、カネなしではどんな支援も意味のある範囲では継続できない。もちろんこのように大きな話題は一人だけでは作り上げられないが、少なくともバズワードビジネスに都合のよい議論が成立しやすいように議論している人たちが(意識的にか無意識にかはわからないが)結果的に存在することは否定し難く(ジェンダー論における議論の形式を参照しよう。形式だけで十分だ。議論を誘導するための手法がたくさん載っている。加害者を隠蔽するための手法は無限に存在するとわかるので、ぜひ読んでおこう)、妙な形に議論が出来上がっていることには注意を要する。仮に手続きにカネがかかったとしても(適切に動けば全くかからない)、現実の解決をもたらすものとそうでないもの、どちらがマシかは自明である。

(重要なことは、「毒親」なるものに関する議論を、事実上そのようにしてしまっている人がいることで「その人達が何を考えているかはどうでもよい」ということである。常にこれを念頭におこう。その人たちは全くの善意からそのように議論しているのかもしれず、商売上の理由からそうしているのかもしれず、適当に茶々を入れているだけの人もいるかもしれず、そんなことは完全なアクセスログを入手しない限りわかるわけがなく(でも完全なアクセスログを確認したら面白いことがわかるかもしれない。もちろんそれは確認するまで絶対にわからない。でも管理者などは真相を知っているかもしれないけど立場上言えない。)、ついでにあなたの問題解決には全く関係がないことだ。あるものがどのように機能しているかと、そこに意思があるかどうかは割と独立に扱えることを認識しよう。誰が何を考えていようとも、事実上〇〇なように機能してしまっているものは、そう機能してしまっているものだ。ただしそこに、意思を見出す必要まではない。機能と意思を分けて考えよう。

「ハンロンの剃刀」という議論を調べてみよう。しかし「ハンロンの剃刀」が正しいか否かは、場合によるに決まっている。教室にいじめがあった場合、悪意むき出しの行為があっても、大人からは全くそうではないようにしか見えない場合などどれほどあるだろうか。全ては条件次第である。こう言ったことわざめいた議論も常に参考意見にすぎないと捉えよう。ちなみに「オッカムの剃刀」は多方面で重要な捉え方なので、こちらはそこそこ真面目に確認したほうがよい。ただし安易に用いることの危険性も同時に認識しよう。状況の把握は慎重に進めるべきだ。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80 同時にこのような議論が普通にあることも把握しなくてはならない。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88 こういった議論は単なる常識のごく一部に過ぎず(わざわざオッカムだのティーポットだのいう単語さえ持ち出さないし、誰もわざわざ引用もしないくらいには常識だ)十分に想定せずに強い主張はできない )

ともあれ「毒親」タイプの議論から、「犯罪の被害者であるあなた」は離れなくてはならない。問題の実体・実態を適切に表現するようにしなくてはならない。


女性はリアリストでなくてはならない。ところで「リアリズム」の起源とされる、トゥキディデスもまた、問題のどこに注目するべきかについて、実質的に同じような主張をしていることにあなたは気付くだろう。( https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9 )(実際にどのように主張しているかは、可能ならば確認すること)


(せっかくなので「毒親」なるものの毒以上に根本的な「毒」抜きのために、女性は物理を選択することと(現在メディア的に最も知名度のある物理学者の一人はリサ・ランドールという女性である。時代の最先端を味わおう)、マキャベリを読むことと、昨今流行りの女性知事お勧めの「失敗の本質」を読むことをお勧めしたい。

もちろん、あらゆる社会的現象理解の基礎となる「ゲーム理論」に関する本も同様だ(論じているのは「ゲーム」ではない(「ゲーム理論」に関する議論を持ち出されて、あの「ゲーム」と馬鹿にするものは、相手にする価値がない。相手が何を指しているかわからないようならば無視すればよい。具体的に把握しておらずとも、普通聞いたことがあるものだ)。これは多くの方面において、極めて重要な基礎的議論であり概略程度を把握しておくことは(あなたの年齢を問わず)当然必要だが( https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E7%90%86%E8%AB%96 「(ゲーム理論は)元来は主流派経済学(新古典派経済学)への批判を目的として生まれた理論であったが[13]、1980年代に非協力ゲーム理論が急速に発展したのを機に経済学者の間にも広く浸透し、以来アメリカの代表的大学院ではミクロ経済学の必修講義の半分をもゲーム理論の教育に充てられるまでに至った[14]。」とある。そして「ゲーム理論の対象はあらゆる戦略的状況 (英: strategic situations)である[15][† 3]。「戦略的状況」とは自分の利得が自分の行動だけでなく他者の行動にも依存する状況を意味し[† 4]、経済学で扱われる状況の中でも完全競争市場や独占市場を除くほとんどすべては戦略的状況に該当する[15]。さらにこの戦略的状況は経済学だけでなく経営学、政治学、法学、社会学、人類学、心理学、生物学、工学、コンピュータ科学などのさまざまな学問分野にも見出されるため、ゲーム理論はこれらの学問分野にも応用されている[15][6][18]。」とも書いてある。この記事を読むあなたは世界において代表的な大学院におそらく進学することになるが(現時点であなたにその意志がないのならば、あらゆる手段を模索して、今のうちに必ず進学すると決めてしまおう)、代表的な大学院に進むのならば何があるかを考えよう。)、(よく用いられる方面以外においては?)適用において慎重であるべきかもしれない。何であろうとも、対象を、扱う範囲を、どうするべきかは自明ではないためだ。授業等でこの点が強調されるかは条件によるだろう。究極的には、(特に未知の対象・事態を把握しようと努める場合には)あなたが適切に対象を観察できなければ役立たずの理論であると自覚しておく必要はある(もちろん、物理において運動方程式をあなたがどう扱うかだって大して変わりはしないかもしれない。どんな分野でも一緒だ)。見た目以上に、あなたのスペックが試される分野だ)。たとえば、盛り込まなければいけない要素を抜かしてしまったら、それだけであなたは判断を誤ってしまう。またこの分野に関係して、米ソ・米露の核戦略やその歴史また形成過程そして核戦力を構成するシステムを理解することは、女性であるあなたの大きな助けになる。ついでに核戦略に関する資料と同時に、ミサイル防衛とそれに関する議論の大枠を同時に調べておこう。この際に確認するべきことは、核兵器の構造や原理ではなく(それは物理に触れていれば自動的に理解することになる。知らない方がおかしい)、核兵器を含むシステム総体がどのように構成され運用されているか、そしてどのような政治的機能を持っているかだ(いささか関係は薄いがクラウゼヴィッツという名前を調べよう)。経済学の基礎を理解することも同様に重要だ。経済学部等ではないのならば、関係する授業を聴講するとよい(地方の学部の少ない大学では事実上こういったことができない、行くだけ無駄なのだ(現在行っている人は得られる限りのものを得よう。どのような状況においてであろうとも、あなたは使える手段、使える可能性のある手段すべてを試し、すべてを使うのだ))。教科書は自分で購入してざっと読むこと。直球のリアリズムを女性は学ぶべきだ。他に価値なしとはせず機能がないと主張するものでは断じてないが(あるからこそこのようにこの記事における記述があると「あなたによって」読まれるべく、この記事の書き手はこの記事を書いている)、他の議論はその後で学習することで初めて効果が期待できる。結局のところ他も(機能しないお題目として扱うのではなく)意味のある範囲で検討するのならば同様の形式で検討するプロセスを絶対に避けられず、かつより込み入ったものとなる可能性が高いからだ。例えばいわゆるソフトパワーに関する議論(所謂クールジャパン、クールブリタニアに関する議論はそのものそれだ(あなたもよく知っているように、クールジャパンはクールブリタニアの丸パクリである。かつまたクールブリタニアと呼ばれる戦略が機能したかについては議論があり、結果は怪しいという議論が割とあることをあなたは把握しておいた方が良い。無論(有効な)戦略を模倣することそれ自体の妥当性はまた別途あなた自身が検討すること。))を無論あなたは多くの報道において把握しているはずであるが(これは自明に重要な事柄であり、現時点でのあなたがどの程度重きをおくべきかは条件次第であろうが、あなたが現実を取り扱おうとする限り何があろうとも避けられない。)それも(あるいは類似した事柄も同様だが)意味のあるように機能させるためには、同様の検討を(しかも極めて多くの要素、利害関係に関わる検討を)しなくてはならない。そうでなければ単にリソースを蕩尽するだけとなる。順番を誤ってはならない。数学や物理の基礎のないサイエンス理解があり得ないこととなんら変わりがない(しかし触れる順番は好きにすればよい。最終的な理解に必要な条件は、各々に存在するとしても、どのような順番で触れることがあなたに適切かは、あなたにしか(しかも恐らくは、後からしか)わからない。あなたがいくら幼くても、どれほど難しそうな本を読んだって構わない。その時点でわかる必要はない。あなたの形式上の親族等やまた身近な教員等あるいは知っている専門家が何を言おうとも、それら誰一人読めなそうな専門書をあなたが読んだとして、誰か困るのだろうか?困りそうなことを言ったのならば、その人物はあなたの教育など考えてなどいないことは自明である。理解するために妥当な学習の順番は、当然だが人による。文部科学省の学習指導要領があなたに都合がよいかは全くわからない。学習の邪魔となることは少なからずある。あなたの周囲において、大昔のカルトめいた宗教のような時代錯誤な禁書目録の類が(悪書追放運動の類も無論同様であることをあなたは理解できる)あるのならば(あるいは年齢制限も実質的に禁書目録であろう)、当該禁書目録は通常たいそう腹を空かせているので法令に則り適切に処理すること。さもないとあなたが喰われることになる。法令に則った処理の選択肢は、少なからずありえようからそれはあなたが判断すればよい(矛盾をつくことが選択肢でありうることを否定しないが、どうあれ法令に則ること。あなたが2016年か2017年から見て何世紀も前のカルト宗教時代に生きているのならば、2016年か2017年における日本の法令は存在しないのであるし当該領域当該時代において通用する法令を可能な限り仔細に確認し、その法令に完全に則り当該カルト宗教を完全に滅ぼすのも選択肢だ。情報の入手を妨げるカルト宗教と情報では、前者ごときゴミに過ぎない、と2016年のネットにおける記事に書く意味は不明である))。

ところで、あなたは鳩山由紀夫という人物がむかし何を扱っていたか知っているだろうか?( http://ci.nii.ac.jp/naid/110001186207 http://ci.nii.ac.jp/naid/110001186218 http://ci.nii.ac.jp/naid/110001186330 そして http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002759746 (たくさん出てくるが、新しいものではなく、最も古い記事から順に確認しよう。最も古いのは1977年のものだ) )この人物について(特に政治家としてのこの人物について)あなたがどう評価するかはあなたの勝手であるが、どのような立場を前提して振舞おうとしていたかを確認することには意義がある。このようなことを読んだ上で、どう評価するかもあなたの勝手であり、読まない状態でどう評価しようとも無論あなたの勝手だ。すべてはあなた自身に委ねられている。しかしそのあなたの選択をあなた自身はどう評価するだろうか。そして、この記事のこの箇所との関係はそこそこ深い。

ついでにレトリックを見破るための学習として、古代の演説っぽいものを流し読みするのはよい選択肢だ。例えば岩波のキケロー選集を全て読む必要はない。世界史の教科書に出てくるくらい有名なものをざっと読むだけでよい。トゥキディデスにあるペリクレスの演説を眺めてもよい。しかし量は力だ。現代の演説は距離が取れず、要素だけを抽出しにくい。古代のものを読み、レトリックの構成だけを見よう。特定要素のみの抽出する訓練と考えるとよい。そこにレトリック以外の何をあなたは見出せるだろうか。女性はこのようなものを積極的に学ぶべきだ。結構重要なことなのだが、翻訳を読む場合、あなた自身がダサいと思った翻訳は避けよう。苦手意識を持つといけない。文章における美は、あなたが判断すればよいではないか、あるいは結果的にであれ美しさを成立させられない翻訳は、本来の姿を適切に反映しているか問うてもよい(翻訳に関する議論は、その正確さに関する議論を含めて、また細々あるが、あとで考えればよい)。但し、翻訳は言語の本質としてよい重大な要素であり、必要に応じてどのように翻訳が出来上がってきたか翻訳が変化してきたのかを理解するために多様な翻訳に触れることには価値がある(ラテン語、古代において用いられていたギリシア語のような古典語と、近代以降の各国語の関係について、あなたは調べることができる。そして、そもそも言語とは、根本的に構造が異なる対象、つまり現実の世界を記述する(つまり翻訳する)ものであることを思い起こそう。対象を記述することは、翻訳と極めて近しいものであるか、究極的に全く同一のものなのだ。常にそれを繰り返すのが、言語という営みである。また必要時に、機械翻訳を用いることを恐れる必要はない。多量の文章を参照する際に、あなたが主として用いる言語の補助があることは極めて有用だ。分野によって日本語の翻訳がほとんどないことがある)。この手の本は解説の方を重視して読んでもよい)ついでに言えば、古代の演説っぽいものをやたらと持ち上げる記事を見ても、その持ち上げる言説自体を相手にする必要はない。あなた自身がその価値を評価せよ。しかし評価するには念のために本人がその文章を確認しなくてはならない。まずはそのレトリックだけを見れば十分であり、その中身など後回しでよい。安易に評価するものを信じてはならない。(それはあなた自身についても同様だ。例えばあなた自身を、安易に持ち上げる言説があっても、適当にあしらい無視するべきだ。どうせその評価は、あなたの狙いなど十分に理解した結果ではないだろう。全く正確に評価され、その評価に感嘆せざるをえなかったのならば、少しだけ受け入れてもよい。それでも無視するべきだ)


冷静に考えれば、被害を許すこと(被害との対決等、類似のどうでもよいものも同様)の強要は、セカンドレイプ、犯罪の二次被害に他ならない。「毒親」なるものに関する議論の一部は事実上、あなたをセカンドレイプしていることになる(読まなければよいという主張は正しい)。それも、継続的なセカンドレイプを許容せよと迫る議論となっている議論もあるかもしれず、あるいは最悪の場合には、永遠にセカンドレイプの被害者たれとあなたに迫る議論となっている議論も存在する可能性を否定できない(繰り返すが実在するなどとは言っていない)。こういったものを遠ざけるために、あなたは是非ジェンダー論の「形式を」学ぼう。


これら議論にあるような「毒親」なるものと対決をする必要はなく(時間の無駄)忘れるための時間を置く必要もなく、赦しなるものに心理的コストを払う必要もなく(赦さない行為、憎悪することへの赦しなどなどの、内心をやたら重視する形式の議論はすべて同様に扱わなくてはならない。赦しや許しも何も、内心についてとやかく言われる筋合いはあなたにない。そんなものの書き手があなたに対してどんな権利を有しているというのだ。こころなるものを議論に持ち出すものは相手にしないに限る)、「毒親」との和解を勧めるようなセカンドレイプに付き合う必要もなく、単にあなたは犯罪は犯罪として粛々と処理するだけでよい。それ以外のことなど考えるべきではない。あなたが暴行をされたときに何をするだろうか、それと異なる対応を考えてはならない。あなたが問題の解決を現実に志向する限り、問題の解決にあたってはコストパフォーマンスを重視する必要がある。女性のあなたはキャリアを積まなくてはならず、高々犯罪者の処理に無駄な時間をかけるべきではない。仕事も学業も忙しいのだから、無論心理的なコストも(つまり、あなた自身の情報処理に係るコストも(「心理的な」等の表現を極力避けよう))極限まで低く抑えなくてはならない。

短時間で、後腐れなく問題の原因を完全に切り捨てられる合理的な方法を検討する必要がある。そのためにこの記事全体(後掲)は参考になるだろう。必要に応じて「毒親」なるものから賠償金を受け取り身ぐるみ剥いで放り出すもよし(比喩だ。もしも剝ぎ取る気ならば、法令を厳格に守ってあらゆる手段で可能な限りの財産を剥ぎ取れ。中途半端はあなたの将来に禍根を残す。却ってトラウマが残るだけだ。ひとかけらも情けをかけてはならない)、ついでに犯罪を犯してきた「毒親」なるものを教育のために牢に入れるもよし、あなたの好きにすればよい。そのようなことを繰り返していたからにはおそらくあなたへの虐待の他にも違法行為が(多数)あるだろう、「毒親」周囲をじっくり調べて処理するとよい(例えば役所絡みで何かおかしな詐取がないだろうか?)。(中高生、学生等による、切り捨てには、経済的基盤の確保が必要だ。特に中高生や親同居の人には妨害も発生しうるので、一気にことを進められるように準備が必要だ。離婚の対応は参考になるだろう。主張することが虚偽記憶( https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E5%81%BD%E8%A8%98%E6%86%B6 最悪の場合、こういったものがあなたの主張を潰すために用いられ得ることを覚えておこう)とされたり、その他にも様々な精神疾患とされる場合がある。敵に対応する時間や隙を与えてはならない)

しかるべく処罰することで、将来世代(あるいは近い世代の同じ境遇にある人たち)にあなたが残せるものがあると考えるべきであるように、私には思われてならない。あなたがどう考えるかは、あなたの判断することだ。「毒親」なるものに関する事態は女性において多く発生するようであるが、これからキャリアを積んで行く自立した女性は、このように責任の不分明なおかしなものの関わる事態から切り離されてあるべきであろう。「毒親」なるものの議論それ自体が全くそれに当てはまる。高校でも卒業し東京の大学にでもゆけば可能な対処は一気に増えるので、必要な法的な対処を行い、そのように薄気味悪いものからは完全に無関係な人間となるとよい。二度と会う必要はなく、二度と連絡が不可能なようにすればよい。介護も老後もあなたには関係がない。育った家庭がトラウマならば、ぜひとも苗字も名前も変えるがよい。あなたのためではなく、あなたに後続する世代に(例えば1年下の子供、2年下の子供、10年下の子供、もしもあなたが子供を作るのならばその世代、またそれ以降)(敢えて言えば制度的に)あなたが何を残せるのか、それを考えよう。あなたの行動が未来の規範を作る。こうして(少なくとも形の上では)身近であったはずの人間の違法行為も公正に処理することこそが、あなたの信用を形作ってゆく。身内だからと特殊な対応をする人間とあなたは仕事ができるだろうか、私にはできない。結局組織内部の非効率を発生させてしまう。あなたが若いのならば、おそらく将来組織に属することになるだろうが、もしもあなたが何かを成そうとするのならば、何か望むことがあるのならば、程度の差こそあれ必ず人を切らなくてはいけない時がくる。たった今、高々「毒親」風情を切り捨てられない人間に何もできはしない。冷酷と詰るものは捨て置くがよい、必要に際し冷酷となれない者に何もできはしない。ルールに則った行動を冷酷と主張する者の程度は知れている。その時にどれほど余裕があるか考えるとよいだろう。今現前する「毒親」は、幾年もあなたの前にあったものであり、対処の準備は十分だ。それはあなたが将来においてまた避けることができないことのうち、最もくだらない一例にすぎない。あなたが将来において大を為すのならば、「毒親」なるものの処理などチリ一つ処理するに等しいことだ。「毒親」なるものに関わる議論は負け犬の議論であり、関わってはならない。(念のために加えるが、もちろん人を切ればよいというものではない。あなたと関わる人たちに仮に問題があったとしても、通常ならば(敢えて言えば)人材育成までを含めた長期的な見通しを持ってあなたは人に対して振舞わなくてはならない。適切な相手ならば、あなたに不足がある場合、相手もそのように振る舞う。しょうもない「毒親」なるものでもなければ、適切な情報のある限りある程度人は変化する。情報の非対称が問題をもたらすことは多い。止むを得ず切らなくてはならないような状況は発生し得ると、将来のために念のため覚悟しておく必要があると述べるのみである。加えてこれは、自らが最悪の場合にどのように扱われる可能性があるかを考えるよい機会となる。これも極めて重要なことだ。無闇に振る舞えというのではない。但し長期継続的に何も変化がなかったことがすでに明らかな「毒親」なるものの処理に躊躇があってはならない。情けをかけると裏切られることを、何年もの間もあなたは見続けてきた。そのような場合にはやむを得ないこともあり、その際の覚悟は重要だ。座して耐える時期は過ぎ去った。ただ耐えるものは人にあらずと知るべきだ)


但し、特殊な虐待を繰り返すが親が存在するという事実自体は、それら「毒親」なるものを扱う資料が示していると言える。またそのような犯罪がどのような形式でなされるのかを把握することには大きな意味がある。その内容は甘いだろうが、事例集の断片程度には意味がある。情報は適切に扱おう。どのような駄目情報の塊も、総体としては使い物にならない本も、情報を適切に処理できる人には宝の山だ(文系の行うこととは究極、このような作業であったのではなかったか)。このような本にある、人に求められるとされる成長に、意味があると本気で信じられるのならば勝手にすればよい。受難で野たれ死ぬことを勝手に称揚すれば良い。ぼんやりとした救いを掲げるものは、積極的に無視しよう。


ちなみに特定タイプの「毒親」(サイコパスなんですって。そうでない「毒親」なるものが、「毒親」なるものの定義の外にあるとは思えないのだけど)なるものが危険であるとして処理することが好ましくないと主張する議論が存在する。また主張全体やまたその主張の構成要素がなぜか法的な手続きを批判的に見るように読者を誘導する奇妙な記述スタイルを取る記事が、存在する(法律を用いるのはサイコパスなんだってさ。じゃあ日本人はみんな牢獄行きだ)。このような議論は、問題の解決に全く役に立たないので、完全に無視しなくてはならない。いかなる解決も志向しておらず、相手にするだけ無駄であるどころか有害である。危険なタイプの「毒親」なるものこそ、完全に後顧の憂を断つために、徹底的に処理しなくてはならない。将来において必ずやあなたのキャリアの障害となる。突然現れて何をするかわからない人間こそ、絶対にあなたに手を出せないよう、完全な解決をしなくてはならない。そしてそれは、くだらない対決などとは全く無縁のものでなくてはならず、法令がすべてを決するプロセスを選択しなくてはならない。低コストにさっさと処理しよう。


またサイコパスなるものが問題であるとするのならば、サイコパスは「毒親」なるものに限らない一般的な問題であるとされている以上、「毒親」なるもの完全な解決、切り捨て一つ処理できない者は、将来生きてゆくことができないと考えるしかない。尤も、それ以前に、サイコパスなるものの実在を疑ったって問題はないはずだ。あなたはそれ自体を疑うことが、もはやできるのだ。


ついでに言えば、必要な時に厳格に法令を守った上で、加害者を処罰できない人間など誰が信用するというのだ。そんな人間は信用に値しない。必要な仕事ができない愚か者であることを意味している以上、そんな人間と誰が仕事をするというのだ。中途半端な対応をするから、「毒親」なるものに関する議論が舐められる。役所や警察に対しても、本当に処罰の意思を示してきたのか、また後述のように手順を踏んだのかと問われるだろう。自ら法令を読み(例えば六法全書で関係することくらい読めよ。関係しそうな条文があったら警察や役所に即刻確認しろ。言質を取れ、全部録音しろ)国や自治体の制度を利用し尽くしたのかとも問われるだろう。


この記事では、「毒親」という表現の不適切さに触れながら「毒親」という表現を止むを得ず便宜上そのまま用いている。一度読んだらこの記事を要約し、自分用に議論を整理し、「毒親」という表現を「違法行為を繰り返す人物」に置換するように努めること(より適切な表現をあなたが見出したのならばそれを用いるとよい)。あなたは自らの問題を解決するためにも「毒親」という表現を用いてはならない。加えて「親」という表現自体が、判断を誤らせる可能性もあるため、中立的な表現として「人物」などに置き換えて、問題を整理すること。親の名前を用いてもよいが、単なる記号や記号のようなを用いるのは最善の選択肢の一つだ。例えば△や□を人物として記述してもよいし、登場人物を「人物x1」「人物x2」などのようにしてもよい。これは様々な方面で応用できる。数学において最も多く用いられる方法だ。

親に対するトラウマのある人間にとって、おそらく「親」という語自体が危険であろうし、あなたから冷静な判断を遠ざけてしまう。執拗な虐待のある場合あった場合、あなたは「親」という言葉を聞くだけで吐き気がするほど気分が悪くなるかもしれない。親という語は、女性ならば例えば母性愛といったような無謬で正しいとされること(現実は疑わしいことをよく知っているはずだ)をあなたに思い起こさせるかもしれない。社会における「母性」に関する言説の政治的性質は、そしてその政治的性質の不可侵性への抗いがたさは、必要な手続きを妨害してしまう。「母親」なる単語、「母性」という単語、場合によっては「原始女性は太陽だった」のような言説、出産の苦難、といった様々な言説は、背後にある単なる犯罪を隠蔽してしまう。母親なるものの背後にどんな苦労があろうとも、犯罪は単なる犯罪に過ぎない。この当然の事実を肝に銘じろ。一例をあげよう、苦労があったと主張した人物は、適切に自治体等の支援を利用しただろうか、単に無意味な苦労をしていたのならば、それは当人がむしろ努力から逃避した結果に過ぎず、全く論ずるに値しない。特に母親に関する言説は、驚くほど封建的な状況がまかり通っており、個人において最優先されなければいけない基本的人権という、何よりも日本国において原則とされることの一つよりも重視されてしまう異常な事態が見受けられる(とりあえず、社会の授業、政治経済の授業等で触れていたはずの、あなたの国において憲法とされているものをすぐに読もう。大した分量ではない。すべての原則がそこに書いてある。他の法令を読むときにも大変に参考になるはずだ。これから、日本国民として、あなたが使う制度の原則の全てがそこにある。もう少し踏み込んで言えば、日本国というシステムの機能、その機能の原則が列挙されていると考えるとよい。法令(場合によってはその解説書)はつまるところ、あなたの知っているオライリーの本と大して変わらない。それは当該国においてあなたが使用可能な当該国の機能を列挙している(無論国民として用いることのできる機能を記述した箇所と、システム内部の構成を書いている箇所等様々なものがあるが、とりあえずは、あなたの使用可能なシステムの機能が列挙してあると見ると非常に読みやすい)。日本国憲法に関して、その改正が妥当であるのか、そのままがよいのか様々な議論はある(例えば日本国憲法ではなく大日本帝国憲法が正しいとあなたが思うのならばそれはそれで結構であり、また日本国憲法とも大日本帝国憲法とも全く違う憲法(例えば聖徳太子を持ち出したいあなたはどうぞ。よそ国のものがよいと思うのならば、それはそれで一つの意見だ。完全に新規に作り直す必要があると思うのならばそれもあなたの勝手だ。この記事の書き手はあなたにいかなる強制もせず、そのようなことをする権利もない)が妥当であると思うのならばそれもよい。しかし現在使用可能な制度はそれであることを理解しよう)が、まず把握しなくては何も始まらない。いずれにせよ日本国民であるあなたは、日本国民として使える制度のすべてを使う権利がある。必要時にはあなたの権利を明確に主張しなくてはならない)。あなたがもしも女性ならば、女性の権利を擁護しろ。敵が母親ならば、あなた自身もまた同様に女性であることを忘れてはならない。先行世代が苦労したというのならば、あなたも現に現在そして将来において等しく苦労するのであり、先行世代の苦労が優越することはあり得ず、女性であるという点で母親あるいは母親類似の立場(あなたが生物学的観点からであれ、制度的にであれ母親となることを選択しない場合。つまり仕事にのみ生きる女子を選択する場合、養子を取る場合などの立場)について、あなたを育てた母親と完全に対等である。対等であるばかりか、あなたを育てた人物以上に将来世代への責任があり、あなたこそ優先されなくてはならない。仮に子供を作らず仕事の第一線で活躍し続けそれに人生を捧げる女性となったとしても、直接にあなたが社会を動かすことによりそしてあなたの納める税金により、あなたは他の女性や子供に(そうでない女性よりも)貢献しているのだ。それに差があると主張する母親は、本当にまともな仕事をしたのか問われるべきだ。そもそも女性の権利を主張しているのかと問うがよい。母親の役割を過剰に神聖視する議論は、あなたが将来母親になる場合、適切な制度を利用することの障害となることがまた明らかだ。そのような議論が、将来世代の再生産を可能とすると、あなたは本当に考えるだろうか。事態は単純である。問題の解決においてコストパフォーマンスを重視することの重要性は、すでに述べてある。その判断をしないものは仕事をしていないのと何も変わらない。ある種の先端的な分野や表現分野であろうとも、仮に際限なく手間をかけなければいけない方面であろうとも、完全な未知を扱う分野であろうとも、つまり単純なコストパフォーマンスの測定が困難な条件であったとしても(そもそもここで、パフォーマンスが何なのか、あなたは継続的に問い続けなくてはならない。最適な基準を求め続けなければいけない)、あなたの設定した目標に応じた、何らかの効果測定(運転免許取得時のそれではない。それはその一例)をあなたは行うだろう。場合によっては目的の達成のために新たな手法や技術を開発するだろう。目的や問題の解決という点においてなんら変わるところはない。


とりあえずあらゆることについてまともな判断ができるようになれるよう、あなたはキャリアウーマンを目指そう。(用語に問題のある可能性は把握。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 現代日本語では使いやすい訳語や用語が見当たらないので、現時点で、政治的観点から正しい表現であるか否かについては保留)あなたがどのような方面の人間かはわからない。あなたがどの方面を目指すのかはわからない。しかし、その方面を問わず、社会を動かし国を動かし世界を動かす(分野に応じて適切な表現に置き換えること)社会の第一線を構成する人間となることが何より重要だ。現在この記事を読むあなたが女性である場合、今現在それ以上に重要なことは何もない。そのような経験なしに、まともな異性を見分けられるようになることなど、絶対にあり得ない(因みにこの書き手は男性であり、男性が男性を観察して主張しているのであるから、この主張に間違いは絶対にない(少しくらいは疑ってもよい))。異性と交際しないこと、結婚をしないこと、子供をすぐに作らないことを非難する言説に耳を傾ける必要はない(それは明確なセクハラであり、粛々と、セクハラ発生時に実行しなければいけない対応を完全に実行すればよい)。最低限、人間を見分けられる目を持たなくてはならない。そのためには何よりキャリアを積むことだ。信用できる人間を見出せるようになることだ。社会を現に動かす女性の姿を見せつける以上に、子供の教育となることはありえない。あなたが取締役になろうが次官になろうが総理大臣になろうが好きにすればよく、日本国においてあなたに当然に保障された権利のもと、女子たるもの堂々と正当に権利を行使して社会を国を世界を、あなたが適切であると思うように動かせばばよい。もちろん、親や親族などに結婚に関して口を出させるなど以ての外だ。女子の威信にかけて、親を含めた他人からの干渉を排除しろ。どうせそんな連中の持ってくる結婚話にろくなものはない。自分が完全に納得できるまで、結婚など不要である。結局離婚することになるだけであり、離婚で苦労してもろくなことはない。そんな連中と利害の一致する人物と、あなたの利益が一致すると考えられるだろうか?

あるいは「毒親」という言葉をあなたが用いるだけで、場違いなネットスラングを呼び寄せるかもしれない。「毒親」という言葉は、元々は、本にあった言葉であることになるだろうが、現在はくだらないネットスラングの一つであり内輪にしか通じない言葉であり、それを人前で用いることをあなたは恥じるべきだ。誰にでも通じる、明晰な言葉を用いよう。中立的で、無駄のない、数式のような表現、また必要時には法律的に意味のある表現だけを用いよう。人間ももちろん動物であることは確かだが、あなたには理性がある。感情や情緒に流されるだけの動物ではない(この箇所はわざと扇情的に書いてある、注意すること。例えば理性なるものを持ち出しているが、念のためにあなたは疑っておこう。( https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%A5%AD%E5%85%B8 )使い方次第でどんな単語も簡単に、不気味な迷信に化けてしまう)。情緒を排した記述を心がけなくてはならない。


便宜上、ネットを確認すると「毒親」なるものの議論には、女性が現れることが多くその母親に問題ありとされる場合が多いためそれを重視して記述したが、当然、男親であろうとも、一切躊躇なく全く同様に扱えばよい。いわゆる「毒親」なるものによる違法行為は、性犯罪が含まれることも多いようであり、とっととそんな父親もどきは警察に捕らえさせ、罪を償わせることはあなたの当然の義務である。そうしなければ、他の被害者が増え続けると理解しよう。形式上の母親がそれを容認していた場合、単なる共犯であるとあなたは見なし、同様に処理すれば良い。母親は自らのカネのために再婚し、子供を再婚相手の性処理に提供する場合があることは、(例の多い少ないは知らないが)よく知られた事実に過ぎない。もしも知らなかったのならば、よく知られた犯罪のパターンであることをここで覚え、関係する犯罪(虐待)について調べよう。公的な制度の悪用、補助の詐取等を含めて親なる制度を悪用する人間はありふれていることを、あなたは知るべきだ(無論このような場合、「毒親」なるものは、それを否定する。犯罪のダシに使う被害者に自分たちの行っていることの実態を、違法行為を繰り返す人物たちが説明することはない(虐待として敢えていう場合もあるかもしれないが、被害者が対応しやすいようにわざわざ語るバカはいない。虐待の加害者は、虐待の被害者を、その支配下に置き対応が不可能であるように情報を与え、被害者がその状況からの脱出することは不可能であると信じ込ませる)。証拠を掴み、あなたは社会正義のため告発しよう。あなたの名前を用いての犯罪があるのならば、また別の意味であなたは被害者である)。

単なる犯罪を許し、生涯単なる負け犬として生きるのならば、あなたは人間ではない。形式上の父母ともども、罪を償わせろ。性犯罪被害に関する議論は「毒親」なるもののように生ぬるくはなく、告訴等に至る手順もよく知られているから調べて即座に行動を起こすとい、いや、時間の無駄を排除するためには即座に実行しなくてはならない。このような場合、支援は他に比べて容易に得られるであろう。繰り返すが、親族によるものであろうが、性犯罪は単なる性犯罪であり、例外があるはずはない。さっさと警察に突き出し、それまでの恨みを晴らし、被害者として加害者に目にもの見せてやるがよい。あなたは、加害者ににすぎないものを「毒親」と呼んではならず、書類上やむをえない場合を除き、父母と呼ぶことも避けるべきだ。政治性にまみれた、どうでもよい価値観を帯びた言葉の使用自体が、あなたの行動を縛り上げる。不適切な呼び方を変え、自らの認識を改めろ。家庭内のことなので証拠が大事、妄言を述べていると扱われないように(この場合最悪精神疾患と扱われる)、証拠を揃え迅速に処理しよう。中途のプロセスが敵に勘付かれてはならない。不意打ちにするとよい。スマートフォン等の位置情報を把握するアプリや手段があるので(もしも知らなかった場合には検索しよう)、注意すること。


また代表的な修辞技法を覚えておこう。このような分野では過剰な装飾が用いられがちであり、それを排除しなくては実態に近づけないようになっている。カウンセリング等が絡む分野において過剰な装飾が見られる場合、それは問題の所在や解決方法を曖昧にしたい人達が存在していることを示している。継続的な集金を目的とするビジネスが背後にある場合もあると考えておくことは、あなたを危険から遠ざけるだろう。カルト宗教( https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88 )の勧誘技法やセミナー商法などは調べておくこと(何でもセミナー商法であると断ずることもまた同じような問題。例えば大学の講演会や読書会もそれだと言っていたらきりがない。冷静に見極めよう。但し異常な家庭環境に育った子供は危険であろうことを念のために回避しようとする傾向は強いかもしれない。関係する情報を調べるとどうもこの警戒心については事実でありそうだ。ともあれこのようなビジネスを調べると、全てに対して警戒心を抱く可能性があるだろう。それはやむをえないので、冷静に判断する習慣をつけること。訓練が必要だ)。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BE%9E%E6%8A%80%E6%B3%95


関連する議論において用いられる主要表現を、上記の修辞技法に分類してみよう。どれほど扇情的に議論が構成されているか理解できるはずだ。無論、この記事もあなたは疑ってよく、上記の分類で分解してみることはよい選択肢だ。問題を整理する場合には、このような装飾を剥ぎ取り、事実だけを記述しなくてはならない。可能な限り中立的で記号化された表現が望ましい。レトリックに関する本は、一度読んでみるとよいだろう。

勿論、記号的な表現を用いようとも、実際には誤認を誘う表現は可能だ。フィクションにおいて、科学の用語に情緒が被せられていることがどれほど多いか、このサイトを読んでいるあなたはよく知っている(それどころか、あなたは「小説家になろう」で、意識的に科学の用語をそのように用いた文章を掲載したことはないだろうか)。社会学的な分野において、高々アルファベットに置き換えることがどれほど扇情的な機能を持ちうるか、あなたはよく知っているかもしれない。

この記事に関わる類例をあげよう、あなたが「小説家になろう」に探偵小説をアップロードするとしよう。犯人を「怪人X」「犯人X」と書いたら、犯人の本名より扇情的な表現の出来上がりだ(ダサい表現なのはおいておけ)。言葉は変幻自在であり、通常ならばレトリックとなりえないものも組み合わせ次第でそうなってしまうことに、常にあなたは気をつけるべきだ。なんにしても問題を解決する形式に、あなたは問題を整理しなくてはならない。可能な限り対象を冷静に扱うこと。問題を適切に切り分け、取り除くべき対象を合理的に法令に従って処理すること。


この記事を含めて「毒親」なるものを扱う記事を、冷静にレトリックの観点から分析検討し、徹底的に疑うとよい。その上で最も信用の置ける記事であるとあなたが考えるものを信じ、自ら行動を起こすのだ。


そして、情緒をやたら重視し時点時点での感情を切々と語り、自らはこんなに苦労した、それにより得られた成長が得難いなどと語る(類似のものは全部同じだ)情報を相手にするな。傷の舐め合いを称揚するカウンセラーもどきを排撃しろ。現実にある問題を解決しなくてはいけないのに、情緒やら感情のような夾雑物を議論や文章や作業に混ぜ込むものは、人扱いしなくてよい。


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