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前書

実用品を目指します。

「「毒親」に関する議論」



・はじめに


※この記事は、のちに掲載される記事の一部を構成する。以降掲載する記事を含めて全体が構成される、その一部である。


自分はあまり詳しくない分野であるが、以降掲載する記事において必要であるかと思われるため「小説家になろう」のシステムがどうなっているのか試す意味もあり、所謂「毒親」に関して、先行する記事を掲載する。基本的な方針は、この記事にあるもので十分であろうが「毒親」なるものの処理の具体的な手順として詳細を欠いていることを否定しない。一般にインターネット上で見かける、「毒親」なるものへの対処は、被害者を実質的に害するものとなっている可能性が高いように思われ、大きな問題があるように思われたことは、この記事を掲載する理由である。調べていてこの記事を書く私は呆れてしまったのだ。

この記事は極めて簡素なものであるが、但しおそらく賢明なあなたは、以下の記述だけで事態や問題を把握し、十分な処理が可能となるであろう。適当にアレンジすれば対応には苦労しないはずだ。細部の議論は識者に期待する。また、このように曖昧に扱われ、バズワードにより表現される問題を、あなたは同様に処理するとよい。「毒親」なるものの問題は、そもそもの「毒親」自体の扱いにある。「毒親」などと呼ぶ行為自体が詐欺に等しい。「毒親」なるものに限らず、ネットには類似の問題が溢れている。あるいは、ネットの外にも溢れている。


また、この記事は元々、より分量のある記事の一部を構成するはずのものであった。それを膨らませた結果として出来上がったものであることから、構成は雑多であり、適切に構造化されているとは言えない。しかし中にあるものは十分であろう。そして、この記事を書いた私は、この記事を読むあなたが十分な知性を持った人間であると信じる。「小説家になろう」は、書き手と読み手を一体とするサイトであり、読者は書き手と全く同等の権利を持っている。つまりいつでも書き手となることが可能である。


「小説家になろう」のアカウントは、書き手のアカウントと読み手のアカウントが全く同じであることを、あなたは確認しよう。読み手であるあなたは書き手にそのままなれるのだ。あなたのアカウントは、現在書店に並ぶ現実に出版され数百万部を売り上げた「小説家になろう」を代表する諸作品を投稿したアカウントと何一つ変わらない。


よって、この記事の書き手である私は、あなたを「小説家になろう」における記事の書き手と、同様の知性を有する人間であることを信じ、それを前提に以下の議論を進める。もちろんあなたは、現段階で出版された「小説家になろう」発の主要作品と同様の経過をたどった作品をまだ書いたことはないかもしれない。しかし「小説家になろう」において、あなたがアカウントを有する限り、あなたは当然そのような作品を書き上げることがあり得る以上、それら作者とあなたの間にいかなる区別もあり得ない。何人たりともあなたとそれら作者を区別することなど出来はしない。( https://ja.m.wikipedia.org/wiki/F_(%E6%BC%AB%E7%94%BB) )


ホメロスも、プラトンも、ソフォクレスも、ヘロドトスも、カエサルも、世阿弥も、シェイクスピアも、トルストイも、ドストエフスキーも、エラスムスも、ルターも近松も芭蕉もバルザックもディドロもギョエテも、ワーグナーもその時代における最先端のメディアを使いこなし歴史を作り上げてきた。試しにジャン・メリエを突っ込んでみたくなったが、入れると愉快かもしれない。


ルターとは、翻訳という作業を経由しての「現代語」の創出者の一人であり、無論あなたが今まさに使っている現代日本語に大きく影響を与えていることになる。踏み込んで言えば、彼の作り上げた言語は「あなたの使う言語」(あなたの使う言語は何か問え、日本国語大辞典を開くがよい。翻訳それ自体を扱う研究に触れるがよい)を構成する重要な要素だ。明治期以降の日本語が、どのように形成されてきたかをあなたは調べることができる。

ワーグナーは何をしたか調べてみよう、そこで音楽や音の塊は、どのように機能すると議論されているか別途確認することはよいことだ。しかしたとえば、音楽は人類の共通語といった主張を自明にしてしまう人をあなたは信じてはならない。全く違う音楽に互換性が十分にあるか否か、冷静に振り返るとよい、現在いわゆる西洋音楽を前提に多くが組み立てられている「ことになっている」が、しかし東洋の一部の音楽において、一見いわゆる西洋音楽において喜劇的な事柄を示すことになっている音のパターンが、当該音楽では全く異なり悲劇的状況を示すことになっている場合がある(このような場合ほかの要素だってそうだろう)。リズムの取り扱いも、(たとえば歴史を遡れば)地域により全く異なることを、たとえば一部音楽家の言及などによってあなたは知っているかもしれない。一見類似しているものにおいて、全く互換性がないことは割とあることだ。音楽を仮にあなたが言語であると強く主張する場合には、全く違う慣習のあるものが存在することを念頭に置かなくてはならないだろう。本当にあなたが音楽を(別の分野の表現でも構わない。たとえばピクトグラムはよい選択だ。あるピクトグラムが、地域によってまるで違うことを意味する場合、割と命に関わる事態が発生する。オリンピックに関する議論を丁寧に見てみよう)言語であると見なせばこそ、共通のものなどない可能性を、あなたは考えるべきだ。


言語が、ある事態・ある物理空間にあるものを情報空間に写像するものであると同様に、言語間の翻訳は、言語の機能それ自体の一部としてさしつかえない。ところで情報空間とはNTTやIBMのものであることを、あなたは知っておくとよい。

http://www.sphere.ne.jp/

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/IBM_InfoSphere


ルターの最も大きな業績とは、言語とその運用という、メディアそれ自体の創出とするのが妥当であろう。エラスムスは、少なくともその情報流通への関わりを見る限り、現代におけるネットジャンキーそのものだ。その作品とはその情報流通に焦点を合わせる限り、何一つ誇張抜きにネット小説そのものであった。鴎外はあらゆる意味で翻訳のモデルを提示しており、当時における(そして現代のそれを規定する)「言語」の極めて重要な結節点の一つとしてよいだろう。これら人物達(ホメロスについては「ホメーロス問題」を参照。シェイクスピアにおいても同様の議論あり)は同時代における最先端のメディアを最高度に使いこなし「言語」という根源的なメディアの結節点となってきた。そのメディアは、我々の住む世界すなわち「IBM InfoSphere」を規定してきた、或いは世界そのものであった。


「小説家になろう」にアカウントを有する限り、現代においてあなたはこれら歴史上の巨人がその時代においてそうであった立場と全く同等の立場に立っており、その時代においてこれらと全く同程度のあるいはそれ以上の役割を果たす権利を有しており、のみならずそのような事態に参画した以上は、これら歴史上の巨人たちと同等あるいはそれ以上の役割を果たす義務がある。どの時代の書き手も、新規なメディア、新たな形式を創出してきた者達であって、その時代においてその創作が批判されていたことを、あなたは十分に知っている。ときによって、その時代における創作へのdisが、文字通りの意味での作者の死を意味し得た。「小説」なる語自体が、そもそもどのような起源を持つかあなたは調べることができる。あなたはそれが、現代において「ライトノベル」と全く同様の意味を有していたのではないかと考えるようになる可能性はあるように、私には思われる。


もちろんこれら巨人の作品全てを読んだことがある必要などない。これら人物達はその時代において、過去全てに触れられる手段をそもそも有していたか問え。現代人は、多くのサンプルをすぐに確認できるという点で、これら人物達よりはるか優位にある。しかしそれは過去に溺れること自体を優位と見なさなければいけないことを意味しない。彼らがその時代において、可能な手段、最適な手段を模索し、その時代において最適であろうと信じるように構成してきたのと同様に、過去の全てについてあなたはあなたには、現代において最適であろうと信じるようにサンプルを取捨選択をする権利がある。単に無限にある過去に溺れることを強要する言説も排撃せよ。同時に過去を不要とする言説もまた、知性ある人間の従うべきものではない。後述するが、過去の千年が現代の三年ならば、現代の三年を引き延ばしたのが過去の千年であろう。この三年を見るために、引き伸ばされた千年がどの程度のものを含みうるのかあなたは確認できる。fpsが異なる時代を比較せよ、単位時間当たりのフレーム数の異なりが、三年における変化の大きさをあなたに知らしめ、あなたに三年の詳細を見せつける。三年の変化は、過去における千年の変化の総和に異ならない。現代における三年の情報の発生量や流通や需要や加工や諸々の数は、それ以前千年のそれに等しいということだ。


現代の作家を敢えて挙げない。例えば「小説家になろう」において、あるいはそれ以前のパソコン通信以来、形成されてきたあらゆる関係する事象に対する評価を、あなた自らが下すべきだ。それらが、将来において、いかなる歴史的地位を占めるのか、あなたは自らが判断を下さなくてはならない。あなたの評価するものが現代において批判されていても、あなたが評価しないものをプロ批評家が高く評価しても無視するがよい。文学史は長期的見通しを持てなかった多くの批評家の墓標となっている。しかし同時にアリストテレスがはじまりの批評家であったことを忘れる者は愚かだろう、すべての学問に対して起点であるとされてきたのは誰であったのか。


その研究だけを目的とするのではない限り、歴史において50年の違いは誤差である。例えば音楽室の後ろにあった年表を、どれほど正確にあなたは思い出すだろう。例えばあなたが3年後に(もしかしたら5日後に?( https://twitter.com/mishimachihiro/status/806440500529987584 ))「小説家になろう」発の出版を得ることは当然にあり得ることであり、あるいはそれ以外の何らかの事態にあなたが関わることもあるかもしれない。高々現代、高々この時代において高く評価される作品は、あなたがこれから「小説家になろう」に書くことになる作品と全く権利において差を持たない。後述するが、現代の3年が過去において何を意味するかということだ。高々100年の違いなど、完全な同時代であるということだ。

同時に、あなたの生きる近傍の時間における変化には敏感であるべきだ。現代の主戦場であるネットにおける言語の運用は、3年経過すれば全く別物であり、それへの鋭敏なくして、時代の描写などあり得はしない。新たなネットサービスの発生は、言語を、少なくとも言語の使用を一変させる。一つ問おう、原始的パソコン通信であろうとも、ネットの発生が言語を大きく変えなかったとあなたは本気で信じられるだろうか。


過去において、活版印刷という革命的なテクノロジー同等あるいはそれ以上の事態が幾度も連続的に発生し続けているのが現代であると、あなたは自覚するべきだ。思い返すべきはまだ多くある。文字の発明は、ネットサービス一つとどの程度違うだろうか、詩歌に詩文の開発も同様であろう、それらは記録なり記憶を構成する、メディアそのものであった。口承文学が何であるのかあなたは調べることができる。古代において、なぜ論文が詩の形をもっていたとされるのかについて、あなたは問う権利がある(例えばパルメニデスについて、あなたは調べることができる)。それは、テキストデータ以外においても同様である。これらすべては、現代においてテクノロジーとして扱われるべきものとなんら変わるところがない。


その時代における評価が、まともな評価でありうると信じる理由はどこまであるだろうか。シェイクスピア評価の変遷を調べるとよい。現代の変化が、当時のそれと比較になると考えるほどあなたは愚かではない。あなたがすべてに対して、自らの責任と自らの権利で、価値判断しなくてはならない。このような条件下で誰一人あなたの判断を抑えることなどできはしない。すべての人間が等しく権利を持っている。職業批評家とあなたの権利に、何一つ違いなどない。いくらか有する情報がプロにおいて多かろうとも、現代の変化は過去の変化すべてを無に等しくするほど大きく、せいぜい評価の手法をいくらか詳しく知る程度以上の違いはない(多少器用に文章を扱えることは否定せずともよいが、「小説家になろう」のアカウントを持つあなたは、数年の近傍を同時代と見る限り、高々その時点での技巧の巧拙に関わる違い程度、無視して差し支えない。あるいは時代の主戦場に立ち歴史の前に立つあなたは無視しなくてはならない。しかしその時点での最善を求めることはあなたの義務だ。)。過去における千年は、現在の三年に等しいとの覚悟で、歴史を見据えなくてはならない。)


文芸の関わる分野において、あなたの前後50年は完全な同世代であり、前後100年は完全な同時代人だ。高々50歳年上の人間は、高々50歳年下の人間は、あなたの同輩に過ぎず、それを仰ぎ見ることも見下ろすことも原理的に不可能だと知るがよい(六十年歳上だったら多少敬意をもっていいかもー。還暦とか言うしー。)。しかし同時に、ネットにおいて三年先行したはずの人は、事象の地平面のはるか向こうにあるかもしれない。様々な観点から冷静に判断しよう。


繰り返すが、アカウントを有するあなたはこれら巨人と全く同等の権利を有していること、時代において同様の役割を果たす義務のあることを自覚しなくてはならない。以降の記述は、その権利と義務を有する人物を、想定読者に据えることとなる。






(注1:三年と千年であるが、量だけを考える限り、実際はそんな生易しいものではない。以下の記事を参照するとよい。

http://wired.jp/2011/02/15/%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%85%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%87%A6%E7%90%86%E8%83%BD%E5%8A%9B%E3%80%8D%E3%81%AF%E3%80%8C%E3%83%92%E3%83%88%E3%81%AE%E8%84%B3%E3%80%8D%E3%81%AB%E5%8C%B9%E6%95%B5/

http://wired.jp/2010/05/10/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AF%E3%82%BC%E3%82%BF%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%88%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%B8/


データの量に過ぎないが、大昔ならば竹簡木簡石板粘土板手紙(場合によってはフィルムやテープメディア(最新世代或いは未来のLTOを、ここであなたは見なかったことにすることができる)レコードや絵の出るレコードであるところのレーザーディスクにフロッピーディスク、MDやMO、PD等の各種光磁気ディスク、懐かしのzipなども挙げてよい、のやり取りで可能であったものの回数と、上記を比較してみるとよい。その比率を対数表示しなくては意味不明なくらいにデータ流通の総量が過去とは違う。全米の図書館と比較する記述はあるが、あの一見大きな図書館に収められたデータ(いっそそれらを構成するために流通したデータの量、遣り取りの回数を考慮しても、たいして実態は変わらない。むしろ違いが大きくなる。過去とは桁数が違いすぎる。また、画像や動画データなどについて言えば、過去においても絵画がありフィルムの上の画像あり楽譜ありと比較するように心がけよう。むしろ、違いが誇張されてしまうと気づくはずである。楽譜は音を記録する原始的な手段であり、表音文字も楽譜に同じと気づいてよい)など大した量ではない)


(注2:ちなみに伝統なるものは割と簡単に捏造されれしまうことを覚えておくとよい。

https://www.amazon.co.jp/dp/B009KZ41C4

https://www.amazon.co.jp/dp/4314005726

もちろん賢明なあなたは事前にそう考えたであろうように、あなたの扱う範囲によって、あることが伝統となるのか、新規性あるものとなるのかは異なるとするのが、より中立的な記述であろう。必要に応じてここ最近の三年を過去千年と同一視出来るあなたは、これら必要に応じて可変に捉えられなくてはならない。ネットにおける伝統は、高々数年でも膨大な歴史を事実上背後に抱えてしまうと、裏返して捉える必要もあり得ることを同時に意味してしまう。あなたがネットで数年体験したことそしてこれからすることは、極めて大きく歴史に影響してしまう。あなたがネットでこれから数年活動することが歴史を大きく変えると知るべきであり、あなたの責任は重大だ。二千年前のテキストデータ作成者たちが、そのテキストデータの後世における影響をどの程度想像していたか疑うとよい。現代のあなたは数千年を、極めてお手軽に見渡せる。そして、プラトンとアリストテレスのテキストデータがたどった経過を確認しよう。このようなデータでさえそうなのだ。その時代において残ったデータは、所詮偶然残ったデータに過ぎないのではないかと疑うことは、無論すべての前提だ。時代の歴史の選別を過信する者に、何ものも生み出せはしない。各方面でこれは自明のことであり、真に保守的であることは、歴史の選別を過信しないことを含意する。真に革新的であることに、安直な保守主義者より過去を踏まえることを要するのと類似するだろう。あなたの時代において価値あったはずのテキストデータは、焚書坑儒においてアレクサンドリア図書館の破壊において消失しなかったかと問うとよい。もちろん意味のあるものは他のバックアップ(写本)により消えなかったと考えることもあなたの自由であり(ところでアレクサンドリア図書館はどのように蔵書を増やしていったかあなたは恐らく世界史の授業で把握しているだろう)、歴史の選別はそれをも含み信頼に足るとあなたは主張するかもしれない。しかしアルキメデスの作成データを調べることには価値がある。そしてパリンプセストという言葉をあなたは知っているだろうか。音楽はどうだろうか、なぜメンデルスゾーンは現代において最も狭義となるであろう意味における「クラシック音楽」(という制度)を作り上げる必要があったのか問うことにも意味はある。同時に少なくとも現代における音楽史における議論では、宗教音楽を起点とするとされる、シリアスな「芸術音楽」(ここであなたは「芸術音楽」に「(笑)」とつけることも、本当に必要であると真実考えるのならば、躊躇してはならないはずだ。また「クラシック音楽」なる表現は、20世紀以降現在に至るまでの比較的現代寄りの関連分野をあなたが考慮するならば、そもそもあまり使わないほうがよい表現かもしれない。)が、その時代において存在した音楽の一部に過ぎない(可能性がある)という議論も、例えば高々授業等においてさえ一般的に語られることを知っておく必要がある。このようなこともまた、究極的にはあなた自身がすべて判断しなくてはならない、そしてこの文自体をあなたは疑うとよい。ところで、あなたはたかだか数十年前のNiftyの全ログに今アクセスできるだろうか、或いは所謂和ゲオのすべてのデータ、Infoseek等を含めたフリースペースのデータがどうであったのか、すべてのバックアップをwebアーカイブを含めて確認してみよう(関連する報道を先行して確認するほうが、分かりやすい)。無論それでもすべての意味あるものは結局残存したとあなたが信じることを、何ものも止められはしない(ここでもし「意味あるもの」という表現をあなたが許容するならばその示すところを念のために考えた方がよい。すでに日常的に用いられる「意味」の意味では不足であると気づくだろう)。変形して他に影響を残して残存したと主張することにも意味がある。そのような偶然的プロセスさえもが歴史の選別の標準的機能であり、かつ場合によってはそれこそが選別の本体であるとあなたが主張することは、それはそれで価値なしとしない。影響の残存にこそ価値を求める立場もありうる(例えば、テクストの編集がもたらす影響の大きさを考慮しなくてはならない。例えばニーチェのテキストデータはが辿った経緯を確認してみよう)。あくまでもこの記事の書き手である私個人は、極めて困難であろうと考えるだけだ。私はあなたに対してこのように提案するが、しかしすべてはあなたが判断しなくてはならない。「ヤック・デカルチャー」)


(注3:巧拙と時点での最善について述べている。最善にについても種々検討の余地はあるだろう。このようなテキストデータを読んでいるあなたは、おそらくミステリ関連分野における、例えば不完全性定理(あるいは類似の定理)などに関わる議論の存在まではおそらく把握しているに違いない。そして美し過ぎるその適用について、あなたはどのような立場をとるのかこの記事の書き手は知らないし、あなたがどのような立場をとることも好きにすればよい。それは、おそらく現実の世界、あるいはより強い表現を用いるのならば今あなたが住んでいる宇宙において妥当ではないかもしれない(少なくともこのテキストデータの作成者は、通常妥当ではないのではないかとの立場を取っており、多くの検討が必要で議論が煩雑となるのでそのタイプの議論には距離を置いている。但し込み入った議論をするのならば、妥当するかどうかの検討自体が、本当は極めて困難かあるいは(事実上)不可能ではないか、とこのテキストデータの書き手は主張することになるだろう。直接あなたとこのテキストデータの書き手が会話するようなことがあれば、条件によっておそらく、会話の内容は異なる(しかしこの書き手は関連議論をすっかり忘れているので期待しても無駄である。)。例えば時間が足りない場合に、どのような会話が可能であろうか。10年かけられる場合、1年かけられる場合、5分しかかけられない場合、可能なことは異なってくる。1分しかない場合、いっそ10秒しかない場合には適当な相槌で済まさざるを得ないかもしれないし、あなたもそのようにせざるを得ない場合もあるかもしれない。)。しかし何故妥当しないのか妥当するのか、仮にあなたが不完全性定理のように、フィクションを構成するにあたって余りにも甘美な言葉を用いてみたいと思うのならば(少なくともその時には)例えば物理法則等に照らして(その他必要であろう条件に照らして)、概略でも良いからあなたは説明できなくてはならない。それは最善に含まれる条件であろう。フィクションを構成するにあたり最善とは何をさすことになるのか多様な観点から検討する必要があるだろう。しかし「最善」という語は「『最』『善』」であること、そうでしかないことにも注意を払うべきだ。「最善」の語をあえて、この記事の書き手は用いている。各々の文字の機能を調べ、その機能に関する議論の妥当性についてもまた、あなた自ら検討するべきだ。)


(注4:あなたが何らかの表現活動に関わる場合、それを妨害するかのようなことを語る人物が発生することは少なからずあるだろう。特に「毒親」なるもの(親族等も同様であり得る。)が、あなたのすることについて何ら意味がないと主張する場合、あなたの行為による問題の発生可能性を主張する場合、様々なことがあるが、それに対して一切反応する必要はない。

それを止める権利はそれら「違法行為を繰り返す人物」達には一切ない。全て判断するのはあなた個人であり、法令に則る限り、いかなる表現活動を妨害することなど何があろうとも許容されない。後述するような「加害者との対決」など全く無意味であるばかりか、有害無益であることと同様だ。そのようなものは、何を言おうとも相手にしなくてよい(その際に「毒親」なるもの等による暴行や傷害等があればしめたものだ。それは最高のチャンスなので即刻告訴しよう(証拠を揃えること。)。後述の通り、家庭内の問題に警察が対応しない場合には、各種の手続きを併用すること。このような場合、逆にあなたが加害者であったかのように振る舞う悪質な「毒親」等がいる。それへの対応も事前に準備すること。)。「あなたのため」などという表現は、その個人の欲求に基づくものに過ぎず、それはあなたの欲求がそうであるのと全く権利において差を持たない。あなた個人の表現活動に関して文句があるのなら訴えるなり何らかの法的手続きをとってみろと「毒親」なるものに宣言するとよい。出来ないのならば何らあなたに対してそれら人物達が、当該の主張をする権利などないことを意味している(たまに精神病扱いするようなおかしな手続きを始めるものがいるので、それには注意。後述。)。繰り返すが、後述する通り、加害者との対決は法に関わるもの以外一切無駄であり有害無益であることを理解しよう。あなたが念頭におくべきは、あなたの著作物の受容者だ。あなたが責任を持って作り上げた、あなたが死力を尽くした著作物ならば、必ずや求める人物がどうせいるものだ。将来においてどうせあなたの敵は、どのような分野を扱おうとも無限に発生し続ける。高々「毒親」やそれ類似のガラクタなど相手にする暇は、あなたに1プランク時間たりともない。)



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