第十六話 由那は譲らない!? 新都大学の図書館で偶然邂逅した神楽先生に対し、由那をまるで物のように言い放つことに不快感を覚え、僕は原作権だけではなく彼女のことも譲らないと決意した件について
「しかし、高校と違って大学って本当に大きいよね」
歩けども歩けども目的地へとたどり着かぬ現状に、僕は思わず溜め息を吐き出す。
新都大学のキャンパス。
それは僕が考えていた以上に広大なものであった。
もちろん昔なら、こんなことくらいで愚痴ることは無かったと思う。しかしまだ、手術を終えてようやく四ヶ月といったところである。長い距離を歩くのは、正直まだきついというのが本音であった。
「えっと、正門から古い講堂に向かう道を真っすぐ歩いて、右手にある二つ目の建物のアーケードをくぐるんだったよね」
昨日、悩みながらも父さんに相談した結果、あの人は僕に簡単な地図と、経路案内を描いてくれている。それとともに、学外利用者に関する図書館の注意事項まで教えてくれて、何かあれば自分の研究室に来るように言ってくれた。
その時の父の表情を目にして、僕はちょっと後悔していた。
あの普段は無表情な父が、少しばかり嬉しそうな笑みを浮かべていたからだ。
「ただ問題は、これなんだよね」
僕はそう呟くと、手にした地図へと視線を落とす。ちょっと……いや、かなりクセのある描き方の為、ミミズが這ったように見づらいその地図へと。
「あの人は昔から、当たり前の事が意外と苦手だからなあ……って、あれか」
ちょっとばかり変人の域にある父のことを思いながら歩いていた僕は、ようやく視線の先に目的とした建物を見つけた。
「すいません、学外の高校生なんですけど、利用できますでしょうか?」
「はい、じゃあ学生証をお預かりさせて下さい。あと、こちらに住所氏名等を書いてくださいね」
図書館の受付にたどり着いた僕は、受付の若い女性の方から教わりながら、入館許可を頂く。
そしてようやく図書館の中へと、一歩その足を踏み入れた。
「流石に違うね、これはさ」
目の前に広がる光景を目にして、僕は思わず感嘆の声を上げる。
市立図書館を近所のフットサル場のハーフコートだとすれば、ここはまさにウェンブリースタジアム。
イギリスサッカーの聖地と比べられるほど、目の前に広がる無数の書棚に僕はただただ圧倒されるばかりであった。
「ここから資料を探すと言っても……どうしたものかな」
入り口からすぐのところで立ち止まったまま、僕はどうして良いかわからず、ただただ周囲を眺める。
そんな僕の肩が、突然叩かれた。
「見慣れない若い子が来ているなって思ったら、黒木くんじゃないか。どうしたんだい、こんなところで」
その聞き覚えのある声を耳にして、僕は慌てて声の主へと視線を向ける。
そこにはモデルさえ務まりそうな長い手足を有した、神楽という名を持つ一人の青年の姿が存在した。
「すいません、資料を探すところまで手伝って頂いて」
「ふふ、気にしないでよ。僕も資料を取りに行くついでだったからさ」
神楽先生はそう口にすると、ニコリと微笑む。
そんな彼に向かい、僕は恐縮せずにはいられなかった。
「でも、ここの代金まで……本当に有難うございます」
大学の外れに設置された川辺という名の和風カフェ。
少し時間があるからと言われて連れられてきた僕は、ちょっと贅沢な黒蜜のかき氷を先生におごってもらっていた。
「はは、だから気にしないでって。津瀬さんじゃないけど、僕も教養時代には先生にお世話になったからさ」
「えっと、先生ってのはやはり……」
「うん、君のお父さん。黒木先生さ」
そのモデルのように整った顔に人好きのする笑みを浮かべると、神楽先生は僕に向かってそう答える。
それを受けて、僕はやや言葉に詰まってしまった。
「父さんが……ですか」
「先生とあまり仲が良くないのかい?」
僕の微妙な反応を目にしてか、神楽先生はそう問いかけてくる。
僕は苦笑を浮かべた後に、単純なその理由を口にした。
「いえ、そんなことはないんですが、家で仕事の話はほとんどしなくて」
「ふふ、確かにそんな感じだよね。授業でも、無駄な話を一切しない人だったからさ」
僕の回答に納得したのか、神楽先生は微笑みながら一つ頷く。そして和食器のカップに注がれたエスプレッソを口に含むと、再び僕へとその視線を向けた。
「で、まあそれはそれとして、いつから始めるつもりだい?」
「始める……ですか」
「とぼけなくてもいいよ。それだけ資料を集めておいて、今更やっぱりコンテストに出ませんってのは、さすがに無いだろ?」
口元を微かに緩めながら、神楽先生は僕に向かってそう告げる。
それを受けて、ようやく本題を理解した僕は、迷うことなく頷いた。
「はい、もちろん出るつもりです」
「そっか。いや、君のベコノベで書いている作品を読ませてもらったんだけど、とても興味深くてね。正直、僕自身楽しみにしているんだ。君が次にどうするかってね」
「競争相手なのに……ですか」
僕なんて眼中にないということだろうか?
そんなことを考えながら、僕は神楽先生に向かってそう問いかける。
すると、目の前の青年は苦笑を浮かべてみせた。
「ふふ、その表情だとなんか誤解されているかな。本当に、純粋に興味を持っているんだよ。既に僕自身はやるべきことをやったしね」
「やるべきこと……ですか。確かにベコノベを完璧に研究されてこられたのは驚きました」
「はは、郷に入れば郷に従えってね。実際に僕は漫画原作の連載を男性向けと女性向けの二誌持っているんだけど、それぞれに沿ったものを書いているつもりさ。ベコノベもあくまでその延長、つまり当然のことをしただけだよ」
まったくよどみなく紡がれたその言葉は、おそらく彼の本心なのだろう。そのプロとしてのメンタリティを目の当たりにして、僕は思わず胸のうちにある疑問を問わずにはいられなかった。
「しかしベコノベの流行を統計解析することでさえ、先生にとっては当然の範疇に入ることなんですか?」
「ふむ、津瀬先生の仕業かな。まああの人の解析から発想を得たわけだから、そんなに驚くことでもないとは思うけどね」
「ということは、つまり先日の――」
「ああ。ベコノベのポイントと商業での売上の相関データ。あれの中にベコノベ作品の個々のキーワードをパラメータ化した数値が乗っていたからね。申し訳ないけど参考にさせてもらったんだ」
僕の言葉を遮る形でそう口にすると、神楽先生は苦笑を浮かべながら、軽くエスプレッソを口に含む。
一方、いくらヒントを得たとはいえ、ベコノベに作品を投稿するにあたり、すぐにそれを活用してみせた事実を前にして、僕は唸らずにはいられなかった。
「……流石ですね。僕がいきなりあれを見ても、たぶんそんなことは思いつけなかったと思います」
「はは、伊達に君より長く生きていないってことかな」
「それに投稿タイミングも流石と思いました。コンテストの開始と同時に数話一気に更新された手腕もです」
そう、津瀬先生も絶賛していた作品の投稿タイミング。
あれにはベコノベに関して一日の長があると思っていた僕としても、正直脱帽せずにはいられない戦略であった。
「ああ、アレのことか。うん、まあ鉄は熱いうちに打てって言うしね。ま、僕のことは良いよ。それよりも興味が有るのは君のことさ。さっき借りていた資料を見るに、どうやら服飾系の話を書くつもりみたいだね」
「えっと……はい、そうです。そのつもりです」
「あ、ごめん。先ほど君も言ったとおり、僕は競争相手だからさ。秘密にしておきたいなら、無理に話さなくてもいいよ」
反応が遅れた僕の言葉をどう受け取ったのか、神楽先生は顎に手を当てながら、柔らかい口調でそう告げてくる。
僕はその言葉に、首を二度左右に振った。
「いえ、秘密にすることなんて何も」
「そっか。でもやっぱりいいや。君が僕に負けたとき、たぶん後悔しそうだからね」
神楽先生は右の手のひらを突き出すと、僕に向かってそう言い放つ。
「負けた時……ですか。でも、先生を前にしてこんなことを言うのはどうかと思いますが、コンテストを譲るつもりはありませんよ」
「へぇ、そういうのって僕は好きだよ。僕が勝つことよりも欲しいものがあるように、君にも守りたいものがあるだろうからね」
神楽先生は薄い笑みを浮かべながら、僕に向かって意味ありげにそう告げる。
僕はそんな彼の言葉が何を意味しているのか、たちどころに類推した。
「僕が守りたくて、先生が欲しいもの……ですか。それはつまり由那のことですね」
「由那……それは音原先生のことかな? さて、どうだろう。何しろ、君と僕の考えているものが、本当に一致するとは限らないからね」
「話をごまかさないでください」
論点をずらそうとしているように感じた僕は、思わず声を荒げてしまう。
だが直後に店内の何人かの視線がこちらへと向けられたところで、僕はすぐに自らの軽率さを恥じた。
一方、僕同様に周囲の視線を集める形となった目の前の人物は、そんな視線などまったく気にする風もなく、その口元に薄い笑みを浮かべてみせる。
「へぇ、意外と感情的にもなるんだ。いや、高校生相手に意地悪をするのは本望ではないし、君の聞きたいことをはぐらかすのは失礼だ。だからこう答えるとしよう。欲しいものかどうかは別として、彼女に付き合って欲しいというのは本当だとね」
僕の視線を真正面から受け止めながら、神楽先生は軽く肩をすくめつつ、あっさりとそう言ってのける。
途端、僕は自然と自らの眉間にしわが寄るのを感じた。
「でも、先生は先日が初対面だったんですよね」
「そうだね。一般的な意味ではその通りさ。でも、彼女の作品とはそれまでに何度も会っていた。君が原作を書いたというあの作品を、編集部でたまたま目にすることができたその日からね」
その神楽先生の言葉が意味するところ。
それはつまり、由那のことを漫画で持って理解したということである。
だからこそ僕は、やや不快な気分となりながら疑念を向けた。
「先生は漫画で彼女を見ているんですか」
「おや、少し目つきが変わったね。でも、そんな変なことを言っているつもりはないよ。じゃあ逆に聞くけど、君は何を持って彼女を評価すべきだと言うんだい。顔かな、スタイルかな?」
軽く両腕を広げながら、神楽先生はあっけらかんとした口調でそう問いかけてくる。
それに対しやや言葉をつまらせながらも、僕はそれ以外の点を口にした。
「綺麗事を言うつもりはありませんが、性格とか内面とか……」
「だとしたら、尚更僕の見る目は正しいと思うよ。何しろ漫画制作っていうのは、その人の内面が作品に如実に出るものさ。もちろん、僕が彼女を好ましく思う理由はそれだけではないけどね」
その物言いには確かに、一概に否定出来ない点が存在した。
彼女の漫画には、普段は外面に出さない由那の繊細さや優しさが、間違いなく作品世界を包み込んでいる。
しかしながら僕は、彼が彼女を景品のように扱うことだけは許すことができなかった。
「……僕は負けません。貴方に」
「そっか。ふむ、どうやら嫌われてしまったみたいだね。でもさ、君がどう思おうと、僕は君のような人間を好ましく思っている。だからさ、出来る限り正々堂々と勝負しようじゃないか。ねえ、黒木昴くん」
それだけを口にすると、神楽先生は口元に笑みを浮かべながら僕に向かって右手を差し出してくる。
僕はその手を、どうしても握り返すことができなかった。




