第76話「理系女と文学少女」
「…………出しゃばって申し訳なかったっす」
そう言うと目の前のノッペラ女は私に部屋の隅に目をやり、大きめの黒いソファーを指差した。そこに寝かせることができる、ということを示しているのだろうか。
「全部話す、ということでいいんだな?」
「知っていることは全部話すっす。少なくとも、貴女には」
「……そうか」
少し大きめのソファーに彼を横たわらせる。背中に魔力を溜めながら、警戒は微塵も緩ませしない。横たわる彼の前に立ち、可能な限りどんな事態になろうとも後ろに影響がでないように。動かずにいたノッペラ女を再度睨みつける。
……見る限りは、どうやら先ほどよりは怒気は抜けているみたいだな。
「うちが知っていることはこの部屋で行われていた転生実験のことだけ。この部屋に置かれていた研究日誌から先輩のことを知りました」
「……先輩のことを知った、か。つまりその日誌には愛する人のことが書かれているということだな」
研究日誌……転生実験がこの部屋を中心に行われていたということだろうか。特設会議室等という名前にそぐわない設備が多いとは思っていたが、まさかここで行われていたとはな。
床を観察すれば、確かに何か重い物を移動させた引きずった跡みたいなものがそこかしこに確認できる。転生実験に使用されたものはあらかた移動させたのだろう。
「そうっす。……先輩は転生実験の披験体っす。正しく言えば、先輩のお母さんが、ですが。リッカなんて女の子みたいな名前で、黒髪の男性。間違いはないと思うっす」
「……なるほど。確かにな」
ノッペラ女は本棚から薄汚れた茶色の本を取り出すと、それを私に手渡そうとしてきた。私に読めというのだろうか。
……今更だが、私は知るべきなのだろうか。愛する人すら知りえていない、彼の秘密を。
「貴様、元々それを愛する人に見せる気はなかったな。何故私にだけそれを見せようとする」
「…………ここには先輩の出生に関する全てが書かれてるっす。その時周りにいた皆さんの想いも。……転生しているとは言え、ショッキングな内容かもしれないっすから」
手元に差し出された日誌を受け取る。
「あなたが判断してくださいっす。見せるか、見せないか」
「…………」
もう何年も前に、長い間使っていたものなのだろう。表面の文字はかすれ、ページも足りなくなっていったからか継ぎ足していっているようにも見える。かなり無理矢理な使い方だ。逆を言えば、重要な書類に見えなかったからこそ、この部屋に放置されたままになってしまっていたのだろうか。
読むべきか、読まないべきか。知るべきか、知らないままいるべきか。
知らないことは罪ではない。だが例えどんなことであろうと知ろうとしないことは罪だ。それは成長をやめた夢追い人の末路に過ぎない。
だが、順番の問題だ。愛する人より先に、その事実にたどり着いていいものだろうか。
金の髪の両親の元に生まれた黒髪の少年。前世の記憶があるとはいえ、今世を生きている愛する人の出生の秘密。
……愚問か。今しか知ることができない情報かもしれない。ここで期を逃せば愛する人の出自は、この娘次第で永遠に闇に消えるかもしれない。手をかけ、ページを捲り始める。
何故だろう。少し怖い。人の秘密を知ることが。今までそんな事を感じたことをなかったのに。この秘密を知ることで、私の彼に対する想いが変わってしまいそうで。
……少し長くなるだろう。小娘には悪いが、ここは少し愛する人の力を借りよう。ソファーに座り込み、彼の頭を腿に乗せる。
「……あてつけっすか?」
「なんとでも言え。奴隷特権だ」
……なるほど。確かにこれは見せられないな。そして、知り得ておいてよかった事実でも、ある。
「…………愛する人の母上と父上にも何かしら思うところがあって秘密にしているのだろう。あと、この日誌だけでは転生実験が成功しているかわからないな。愛する人が前世の知識のないただの子供である可能性も多大にある」
愛する人が生まれるまでの話。転生実験の内容について。それが主に書かれていたことだった。
「でも成功してるんすよね? 先輩に前世の記憶があるっていうことは?」
「……記憶に関してはそうだな。だがこの日誌の最初のほう、実験に至るまでの経緯のページ。転生者は類稀なる才能を持つとある。"写身によって才能ある者を1人1人探すことは非効率である。人工的に転生者を作ることで、きたる魔王国との戦いに向け、この国の戦力を増強させることを試みる"、か。あまり見ていて気持ちの良い内容ではないな。……だがそういう意味ではこの転生実験は失敗に終わったようだ」
類稀なる才能、か。多分愛する人がこの世に生を受けてから、ずっと望んでいたものではないのだろうか。
「何故っすか? だって先輩、前世の記憶を持ってるんですよね」
「この実験の主旨である"前世の記憶を持った転生者を人工的に作ること"は成功だ。だがこの実験は"前世の記憶を持った転生者は類稀なる才能の持ち主である"ということを前提に行われている。それが問題だ」
失敗例、または失敗作。つまり愛する人は、そういう存在であったということだ。
まだ漫画の主人公みたいに隠された能力でもあったら良いものの、そんなものは微塵もなく。ただ実験の弊害によって、記憶だけを受け継いで才能を置き去りに。別の世界からの記憶を持って生まれたはいいものの、一般的な魔力すらも持ち得なかった不遇の赤子。
「……言いたいことはもうわかってるっす。……でも、なんでそこでそんな楽しそうな顔をするっすか? 自分のご主人様が才能がないなんて……貴女のそのわざと見えるように出している奴隷紋、それは言わば主人に対して何の引き目もないというアピールっすよね」
「はっ! 引き目などない。愛する人には何の才能、スキルがないのは確かだからな」
私が笑っているのは貴様に対してだ。
「それはそうとノッペラ娘、貴様はなんでそんな苦虫を噛んでいるような表情をしているんだ? 愛する人が物語の主人公ではなかったからか?」
「物語の、主人公?」
この娘が会ったこともない愛する人に執着する心情は読めた。こいつはやはり、ただの文学少女だったということだ。
「この日誌の内容……確かに情を誘う内容でもある。基本的には生まれる前の内容だから愛する人の名は最後の最後まで出てこないが……この日誌の続編を作るのであれば、愛する人はまさにその辺に出回っている書籍に登場する、悲劇の主人公と言ってもいいだろう」
そう。それこそが。貴様を文学少女と呼ぶ所以だ。
「あえて皮肉たっぷりに言うが、貴様はこの日誌の続き……続編を知り、自分も共に綴りたいだけなのではないか? 悲劇の中で生まれた悲劇の子。前世の記憶を持った才能溢れる少年は如何にして生きていくのか。この内容であるならば、愛する人に対して愛情にも似た念が生じるのにも納得したよ。……でもそれはなアン・シャーリー。本の中の人物に恋をしているだけだ。……彼は人間だ。貴様の読み物ではない」
見る見るうちにノッペラ女の表情が変わっていく。自覚していたのだろうか。それとも、愛する人に出会えた奇跡から現実に突き落とされたのが悔しいのだろうか。その真意ははかり得ない。
「……本の中の少年に恋をしてはいけないっすか? 妄想の中の恋は本物の恋ではないんすか? 日誌の中でしか思い描くことのできなかった彼が! 先輩が! 目の前に現れたんすもん! 助けてもらったんすもん! そりゃあ好きになりますよ! いけないっすか!」
いくらそんなに感情を吐露させても、私にはそれは芸能人に会えたファンの1人の戯言にしか聞こえないけどな。
「そこまで言うのならば、才能がない愛する人を肯定してあげてくれ。そんな顔をせずにな」
彼は少女漫画のヒーローではない。何も才能がないのは意外だったか? だがこの女は知らない。才能なんていらない。いや、ないからこそ優れているリッカという少年を。
「……………………貴女は先輩のどこが好きなんすか?」
「質問を質問で返すが、科学者の最大の恋人とはなんだと思う?」
「…………?」
「"たどり着けない謎"だと。私はそう考えている」




