第72話「寄生事実」
「ーー隔絶時間!」
危機一髪。あとちょっと遅かったらそのままぶつかっていた。……このタイミングでのシャッターって完全にアウトだな……目の前には少し暗めの銀世界が広がっている。それ以外何も見えない。視界の両端に肌色のものが見える気がしないでもないけどあえて無視する。ここから予測しよう。心の眼を閉じながら。
俺は今上を見上げている。そしてその状態でこの視界ということは、幸い? ドロップキックを食らうことなく俺の頭は彼女の腿の間に位置しているのだろう。だがこのままでは蹴り飛ばされることなくとも、どこぞの少年漫画みたくラッキースケベ的な展開になるのは時間の問題といえる。
そうなるわけにはいかない。これ以上フラグを立てるわけにはいかない。ただでさえ攻略人数が増えてきて管理できなくなってきているんだ。前世の時ならまだしも、今の俺の精神年齢は32歳のおっさんだ。ココとかリティナとか、まだ成長期の少女達を歯牙にかけるつもりは毛頭ない。ハムリンはあれだ、変態を卒業したら、部屋の隅の端っこの箒や掃除機で取りづらい塵程度には考えてやらんこともない。
……前世の記憶がありつつ、それを言わず恋愛関係になるなんてまるで騙しているみたいじゃないか。だから俺は、今このままの状態でいい。誰かと付き合うつもりもない。家族が居ればそれでいい。
全く、いつも俺の類稀なる理性で自分の情欲を抑えているというのに、こんなところで台無しにするわけにはいかない。全力で回避しよう。うーん……時間が始まった瞬間にブリッジ、そのまま両腕を腿の間に通して肩を掴む。そうすれば馬乗りされてしまうのは仕方ないにしろ、被害を最小限に抑えることが出来る筈だ。
南無三。出来る限りのことはしよう。痴漢冤罪で捕まらないことを祈るばかりである。
「時間再開」
「ーーうっきゃあ!!」
思った以上に速い! 俺のスピードと柔軟性でこの問題に対処できるのか!? いや、後悔なんてしている暇はない、江頭〇:50分ばりのバネの強さを発揮するしかない……!
「ーーぬぐおぉぉぉ!!!」
腕はもぐりこませることは出来た! 肩を掴んでいるかどうかはわからないが、もう、時間切れだ!
「っあっきゃう!!!」
「うぐおっ!!!」
ふ……腹に力を入れるのを忘れていたぜ……俺、大丈夫かな……死なないかな……胃、潰れてないかな……本当に今日は内臓がいくら内蔵されていても足りない日だ……親父ギャグも言いたくなるくらいに最悪な日だ……
「ーーいたた……あ、大丈夫っすか?」
「……人の腹に思いっきり落ちていて大丈夫も糞もないだろう」
幸い肩は押さえきれていたようだ。腕は曲げているがなんとか顔の接触もない。だから"あ、落ちた瞬間に口が重なっちゃった!"みたいな展開も防ぐことができた。もちろん間違って二つの山を掴むなんてこともしていない。完璧だ。自分のとっさの判断に涙すら出てくる。
……にしても口の中がほろ甘い。どこかにぶつけて血でも出たか? ていうか血の味かこれ。……糖尿病か? 甘いものなんてそんなに食べていない筈だが。糖尿病は糖分を摂取しすぎたからといってなるものでもないらしいのだけど。カロリーの過剰摂取とかかもしれないから食生活を見直さないとな。
「あれ……」
「どうした? というより早く退いてくれないか?」
因みにまだ彼女の顔は拝めていない。割と無茶な体制で身体を支えているからだ。ベンチプレスでバーベルを下げている状態に近い。目の前は真っ暗で何も見えていないが、特に体が触れ合っているということもない。早く、いち早く退いてくれ。
「あれれ? おやや? うーん……あらー……」
やっと上体を起こしてくれた。見下される状態ながらも彼女の姿を確認する。見える怪我はないみたいだな。……だが前髪が長すぎて顔が見えない。目をすっぽり隠してしまっている。ソバカスが少し見える程度だ。いや、前髪はまだマシなほうだ。なんだそのクソ長い2つの3つ編みは。俺の上に座っているっていうのに地面まで届いてるじゃないか。
明るめの茶髪の彼女は周囲をキョロキョロと見渡すと俺に向き直った。瞬間、揺れはじめるニュートンのゆりかご。わからない人はなんでも知ってるネット上の先生にでも聞いてみてくれ。……少し過剰表現だとは思うがね。
「うちが舐めてた飴がどっかいっちゃったっす。……あれれ、飛ばしちゃったっすかね?」
「…………多分そうなんじゃないか? 転がっていったんだろう」
嫌な予感がするので再度口の中を確認する。……あった。さっきまでは目の前に集中していたから気付かなかったが、右奥歯のほうに。そうか、この甘さは飴玉か。察するに、彼女の肩を抑えたせいで首が前に振られ、飴が飛び出したのだろう。そして俺の口の中にホールインワン。
……別に潔癖症なわけではないが、あまり良い気持ちはしない。吐き出したい。今すぐ。
「マジすか!? あれ最後の一個だったんすよー……うわあああああああ! 脳が! うちの脳が! 糖分を当分とれないじゃないかと意義を申し立てているっす!!!」
「確かにセンスの欠片もない親父ギャグが出てしまうくらいには頭も回っていないみたいだな」
顔に両手を当てぶるんぶるん首を振りながら嘆きを表現してくれるのは一向に構わないが、それをする度に俺の腹が抉れていきそうになることをちょっとは考慮してほしい。でそう。カレーが全て。
頑張ってくれている腹筋と胃と腸には悪いが、更に仕事を増やすために思いっきり飴を噛む。……く、硬い。まだ噛み砕けるような大きさじゃないか。
「……せんぱい?」
「あ? 先輩?」
確かに年下ッぽく見えるけど先輩と確定させる要素があったのか?
「3年生のエンブレムが付いてるから先輩っすよね? 先輩、口の中に何か含んでないっすか? もしかして……あめ?」
なるほど。制服に違いがあるのか。なんか説明するのも面倒だからこのまま押し通そう。
「……いや、口内炎が痛むだけだ」
「それにしては膨らみ過ぎてるっす。……………………その飴、くださいっす!」
馬鹿じゃねえかこいつその馬の手綱みたいな三編み引っ張って口の中に飴の代わりに人参突っ込んでやろうか。
「ふざけんな」
「たかだか飴一つで……まさか先輩、ケチッすか?」
「ケチ云々の前に人の口の中に入っている飴なんて食えないだろう!」
食ってるけどさ!
「今は背に腹は代えられないっす! ほら早く! あーんするっす! あーん!」
「っざけんな! 顔を近づけるな! 口移しでもする気か!」
再度肩を掴んで抵抗する。なんで男の俺が押し倒されなきゃいかん! 生憎俺はそんな趣味も興味も欲求も性癖も持ち合わせていない!!! 顔を寄せるな! 近づくな! 手で顔を抑えるな!
「うちの脳は脳死一歩手前っす! 命の危機っす! マウストゥマウスも辞さない覚悟っす! ほら、心臓マッサージ!」
せめて死にそうなのか死んでる奴を助けたいのかどっちかの設定にしてくれ!
腕を押しのけ俺の胸部をテンポ良く圧迫し始める馬女。しぬ、まじで死ぬぞこれ! 実際胸の圧迫はそうダメージはないが、一回一回体重を掛け直す度に腹部が圧迫される。マジ吐きそう。いや、ほんと、やめ……
「うぐっ…うごあ……! やめ……出るっ!」
「だすっす!」
こいつ普通じゃない! ていうか今の会話も色々やばい気がする! 端から見たらどう写るんだこれ! 人が少なくて良かった!……なんでいつもいつも俺の周りにはこんな風な変態しか居ないんだよ!!!
「……わ! わかった!! 手に出すから!!! それやるから!!!」
「ほう、いい妥協点っすね。許可するっす!」
「ありがとう。ふん!」
ガリッ
そんなことをするわけないだろうがこのヒヨッコが。思いっきり噛み砕いてやった。俺の咬合力も本気を出せばこんなもんよ。
「あー!!! あーあー!!! 今噛んだっすよね!? 飴噛み砕いたっすよね!?」
「は? だから言ってるだろ。口内炎だって。飴なんて元々ない。出すものもない。昼に食ったカレーは吐き出しそうではあるが」
「なら、確かめるっす…………!」
「ーーえ?」
「…………お婿にいけない」
……立ち上がり本棚に身体を預けながら口を拭う。カウントしない。こんなものは絶対カウントしない。今のは夢だ。幻想だ。こんな幻想をぶち壊してくれる白馬の王女様が俺の部屋のベランダに舞い降りてきてくれることを願うとかなんとか色々ごちゃ混ぜになってくるくらいには気が動転してテンションがダダ落ちしている。
「この味はうちの飴っすよねえ~先輩、いつの間にうちの唇奪ったんすか……?」
そんな諸悪の根源はその低めの身長を生かしつつ俺の顔を楽しげに覗きこんできやがる。
「何か良からぬ勘違いを生みそうなことを言うな!……恩を売るつもりはないが、助けてやったというのにこんな目に合うなんて……」
「助けてもらったのには勿論感謝してるっすけど、乙女の唇と飴を奪った時点で五分五分どころか逆転負けっすよ!」
「唇を奪った覚えはない。飴食ったのはお前が口から吐き出したのが偶然俺の口に入っただけだ」
「この期に及んでそんな嘘を言って逃げるつもりっすか?」
「逃げる? もう負けなんだろ? 敗者はただ去るのみだ。あばよ。もう二度と会うことはないだろうぜ」
もういい。本を探すのも明日にしよう。もう疲れた。寝たい。現実逃避したい。なんだ最近のこの怒涛の日々は。厄年か。前厄でも本厄でも後厄でもないはずだが。ていうかこの世界にも厄は適用されるのだろうか。
「待つっす」
「…………離してくれないか。一刻も早く帰りたいんだが」
制服の裾をつかまれた。こんなドタバタをしておいてあれだが、これ以上この借り物の制服も汚すわけにはいかないし、痛めるわけにもいかない。平和的解決を望む。
「うち、ずぅ~っと北の方から魔法学校に来たんす。田舎町なんす」
「そうか。俺も北といえば北だがそこまで遠くないかもな」
「結婚相手も見つけて来いって言われてるっす」
「……そうか。見つかるといいな」
「パンツ、見たっすよね?」
「見ていない」
「唇奪ったっすよね?」
「それは本当に奪ってないから」
「それは? パンツは見たんすね?」
「…………不可抗力だ」
なんだこいつ初対面の相手に結婚してと迫るなんて頭の螺子が2、30本飛んでいってるんじゃないか? それともこれくらいの貞操観念がこの世界では普通なのか? ここに居座っても良いことがない。とっとと逃げよう。王都は広い。ここさえしのぐ事が出来れば逃げ切ることも容易いだろう。
「ああ! 殿方に下着を見られるなんて! うちもうお嫁に行けないっす! ……お名前は?」
手を広げその場でクルクルと回りながら、足元に散らばっている本を器用に避けながら棒読みな演技をし始める。こいつは駄目だ。関わってはいけない奴だ。足元に転がっている本も爆薬の調合の本やら武器辞典やらで危険な香りがぷんぷんしてくる。全力で逃げよう。すまん、王都おっさん代表の皆様。
「ガルディアです」
「ホントは?」
「アンドリューです」
「ホントのホントは? 嘘ついたらここで裸になって泣き叫ぶっすよ?」
「…………リッカです」
…………負けていない。俺はまだ負けていない。すぐだ。迅速に入学試験に合格して一気に逃げよう。二度と王都に戻ってこないことにしよう。アレクサンダー2秒で倒して一目散にアラハンに帰ろう。そして素敵な余生を過ごすんだ。
「リッカ先輩に!!! 捨てられたら!!! もう傷物の!!! うちことユリシスなんて!!! 誰ももらってくれないっす!!! ああ神様!!! うちは!!! どうしたらいいっすか!!!!!」
「声がでかい! いくら広いとは言えそんなボリュームで話すな!」
「……さっきから騒がしいな。愛する人? そこにいるのか? 一体何があった?」
ーーすぐさまこのユリシスとかいう女の口を塞いで本棚の影に身を隠す。……なんて日だ。今日はなんて日なんだ。
「…………いない、か。だが愛する人。……私から逃げられると思っているのか?」
………………あの人気付いてらっしゃる。顔は見えないけど多分魔力の流れを辿って色々気付いてらっしゃる。微妙に周囲が熱くなっているのはなんでだろうね。
少しだけ手を緩め息をする空間を開けてやる。
「あら先輩。意外と大胆っすねん?」
「……後輩よ、2人きりになれるところはないかな?」
「デートのお誘いっすか? とっておきの場所があるっすよ?」
「……デートにでもなんでも誘ってやるから早く連れて行ってくれ」
「田舎の父ちゃん、母ちゃん。魔法学校に来てから色々あって辛かったけど、いよいようちにも彼氏が出来たっす。あ、子供は最低でも5人は欲しいっす。バスケチームを作るっす」
「……お前、実は茶化して楽しんでるだろ」
「ありゃりゃ? バレたっすか?」
俺達は逃げるようにその場を後にした。




