第67話「次への停滞」
チェスと将棋の違い、それは引き分けがあることだ。チェスの用語ではそれをステイルメイトと言う。
将棋には引き分けがない。お互いの王や玉が積みにならない状態になったとしても"持将棋"となり盤面の状態や持ち駒の数によって勝敗が決まる。
対してチェスには引き分けで勝負がそのまま終わることがある。引き分けにさせた側が勝ち、というルールもあるがこの世界では一般的ではない。つまりこの状態からなんとか引き分けに持ち込んでも俺の勝ちにはならないということだな。
だが今のこの勝負に限っては違う。引き分けは、勝ちだ。自分自身で決着をつけることができないこの2人には、もっと自分自身でもう少し考える時間が必要だ。こんなところで終わらせてたまるものか。
「(私も少し本気を出そう)」
「(本気?)」
盤面を横から眺めていたハムリンが、スクエアレンズの眼鏡を外した。宝石のように綺麗な真紅の眼。それは駒の一つ一つを確認するかのように細かく動きながら、ほんの少しだけ光を帯び始めている。
「ハンニバルさん、眼鏡を外すなんて珍しいですね」
「ああ、チェサは少しだが嗜んでるからな。この勝負はちゃんと見ていたい」
こいつの竜眼は魔力の流れを見ることが出来るとだけ聞いているが、他にも能力があったのか?
「(ドライダのスキルの劣化版なのだがな。確率視点と呼んでいる)」
「(その心は?)」
「(確認した物事に対して、それぞれの確率を知ることができる。例えば、ロゼという女のキングとクイーンの駒。今はどちらも、次に動く可能性は五分五分だ)」
パッと見、いやパッと聞きチートじゃないのかそのスキルは。多少ではあるが未来がわかると言っているようなものじゃないのか。相変わらずこの世界は俺に厳しいな
相手がどのように駒を動かすか、その傾向がわかるっていうことだろ。
……だがそうか。"確認した物事に対して"ということは、選択肢がちゃんと用意されていないといけないという事か?
「(つまり今、目をキョロキョロさせていたのは全部の駒の確率を見ていた、ということか)」
「(理解が早くて助かる。今一番動く可能性が多いのは愛する人から見て右のナイトだ。それも愛する人の一手で確率が変わる)」
なるほど。純粋に未来を多少絞れるなんていう、単純な能力でもなさそうだな。
例えば、俺の正面にリティナがいるとする。彼女は両手を振りかぶり、今まさに俺の両頬を叩こうとしている。先に来るのは右手か、左手か。ハムリンにはそれぞれの確率が把握できる。右手70%、左手30%。右手の確立の方が高い! じゃあ左頬をガードだ!……そして突然、俺の腹に打ち込まれる右足。
"確認した物事の確率がわかる"ということは逆を言えば、"確認していない物事の確率はわからない"ということだ。他にも頭突きや魔法が来る可能性もあるがその可能性は確認できていない。想定外のことには対処ができないということだ。チェスなどのボードゲームであれば全ての駒の動きはパターンが膨大とは言え、把握することができる。
「(愛する人と賭けをした時は、"イカサマする確立"などというのは確認していなかったからな)」
「(負け惜しみか? まぁ、今回は負けないように頼むよ)」
「(当然だ。相手の駒の動きを読みつつ引き分けに持ち込む。……卑怯だと思うか?)」
「(こんな劣勢な盤面から始めて勝てというほうが無理なんだ。少しくらいの反則には目を瞑ってもらおう)」
「(ふふ……了解した。一番右のポーンを前へ)」
言われた通りに駒を動かす。俺はそれに従っていればいい。……全ての確率を確認し、その中で上手く引き分けに誘導する手を考える。頭脳明晰なんてもんじゃないな。本当に、スペックだけは高いんだけどなぁこの変態……ハムリンの言う通り少し卑怯な気もするが、俺は会話に集中させてもらおう。
「ステイルメイト狙いか?」
「いや。勝てるなら勝つよ」
「全く……少しは師匠に気を使う気はないのか」
「そう言っておいて、わざと負けると怒るんでしょう?」
「当然! 勝負事に手加減なんていらねえよ。ま、あたしがお前に負けることはないけどな!」
白の駒が動く。俺は黒の駒。どういう形に持ち込むか俺も想定しておこう。何も考えずに打っているようにしていれば疑われてしまうからな。ばれる筈はないけど。
「(因みにこのスキル、使いすぎると目から血が出る。元々ドライダのスキルだからな。人間の身体に合わんのだろう)」
「(……あと何分くらいは大丈夫なんだ?)」
「(もってあと5分だな)」
そういうことは早く言え! すぐさまハムリンに言われた位置に駒を動かす。いいところで時間になって引き分けに持ち込めないなんてことがないように、少しでも駒を進めなければ……!!!
「なんだ、手が早いな」
「……俺も酒屋さんに勝って早く次に進みたいので。いつも負けていましたが、今日は勝たせてもらいますよ!」
「言うじゃないか! いいじゃないか、乗ってやろう!」
早指し。お互いにほぼノータイムで駒を動かす。俺はただ言われている通りに駒を動かしているだけだが、ハムリンと酒屋さんはよくこんなに高速でまともに駒を動かすことができるな。これが天才という奴か。自分で言うのもあれだが、俺は十分な思考時間がないとまともに動かせないからな……
「……なんだその顔は。余裕だとでもいうのかリッカ?」
「そうですね。余裕です」
ハムリンの指示通りに駒を動かす。そろそろ限界の筈だ。だが目指している形は見えた。よくここまで追いついたもんだ。ハムリンの頭脳と確率視点の力、応用が効く能力だな。時間制限があるから使い方次第だとは思うけど。
「てめえ……まぁ確かにここまで追いつかれるとは思わなかったよ。……急に強くなったなリッカ」
「いえ。酒屋さんが弱くなっているだけです」
これは本心だ。今の酒屋さんの手は、以前アラハンで戦っていた時と比べ幾分防御に徹しすぎている気がする。それだけこちらの攻めが強いということでもあるが、それにしても酒屋さんらしくない。
「何が言いたい?」
「特には。でも、次に進みたいという割には手が臆病な気はしてます」
「……っつ!」
ハムリンが目を押さえる。時間がきたか。……後は俺に任せろ。最終形は見えてきた。
「ハムリン、どうした?」
「ハンニバルさん!?」
「ハンニバル!」
少しふらつくハムリンの肩を、ガルディアのおっさんが支えようとした。が、ハムリンに睨み付けられ、その手は虚空を彷徨った。思春期の娘に嫌われるお父さんってこんな気持ちなんだろうか。可哀そうに。
「……目を少し患っていてな。光に弱いんだ。私は奥で少し休ませてもらおう」
「じゃあなんで眼鏡をとったんですか……」
「対局の行方が気になってな……」
「ハンニバル、本当に大丈夫か? なんだったら奥から冷やすものでも持ってくるぞ!」
「いらん!」
「(目を開けているのも辛くなってしまった。後は頼むぞ愛する人)」
「(おう、ありがとな。任せろ)」
ハムリンはココ達に連れられ、ギルドの酒場部分へと移動していく。それを横目に俺は次の駒を動かす。ハムリンは気にかかるがここで中断するわけにもいかない。お膳立てはしてもらった。ここからの勝負は俺の腕次第だ。
「あの子、大丈夫か? お前の仲間なんだろ?」
「仲間というか連れというか。少し休めば良くなると思うんで大丈夫ですよ」
「そうか。……お前も大丈夫なのか?」
「何がすか?」
「肩。それに手も傷だらけだな。随分と頑張っているみたいだが、休息も必要だぞ」
見抜かれていましたか。昨日のガレットさんとの戦いの傷を。この人は馬鹿そうに見えて、内面では色々考えてるタイプだからな。7年間の想いも何かきっかけがないと捨てきれない程の、心の奥底に溜め込みやすいタイプの人間だ。
「……そうなんですけどね。でも、ずっと休まずに馬鹿みたいに頑張っている奴がいるんで。そいつを見てるともっと頑張らなきゃな、と」
「ラークか?」
「いえ、王都に来てから知り合った奴なんですけどね。そいつ、昔負けた悔しさが忘れられずに、何年もずっと1人で戦い続けてきた奴なんです」
頭に煙がかかる。後ろに立っているアンドリューの葉巻の煙だろう。余計なことは言うな、ということだろうか。知るか。ここまで巻き込んでおいて何もなく終わると思うなよ。
「ほう、凄い奴だな! 身体は重い怪我でなければ治る。……でも気持ちや思いというのはそうそう長続きするもんじゃねえ。その知り合いはまだ戦ってるのか?」
「ええ。仲間を失って1人になりながらも、いつか勝てる日を目指して」
「……そうか」
盤面の進行ペースは落ちてきた。周りは冒険者でにぎわっているというのに、まるでここだけ森林の中にでもいるかのように。窓から差し込んでくる陽は木漏れ日のように。静寂という言葉が音ではなく状況として存在していた。
「……リッカは"逃げ"だと思うか?」
酒屋さんがキングの駒を動かす。既にこの盤面。余程のことがない限りは俺の勝ちも負けもない。あと数手で、引き分けというところに持ってくることが出来た。
「逃げているとは思いません。……ですが、同じことは繰り返すべきではないと思っています。チェック」
「……同じこと?」
既に手は決まっている。駒を動かす。チェックは王を次の手で取ることができるという宣言だ。酒屋さんは王を動かして逃げるか、他の駒を犠牲にして王を逃がすしかない。だが既に王を守ることが出来る駒は存在しない。
「一度目のアレクサンダ-との戦い。アラハンの悪夢の時に少し聞きました。先代勇者に逃がしてもらったと」
「……そうだ」
酒屋さんが駒を動かす。それはまたキングで、その位置はつい先ほどまでいたキングの位置と同じだ。
「二度目のアレクサンダ-との戦い。アラハンの悪夢。俺達は何も出来ませんでした」
「……そうだな」
二手前と同じ位置に駒を動かす。酒屋さんもまた、王を二手前と同じ位置に戻す。
「ここで先代勇者、シュワルツとのチェサを終わらせて次にいく、ということは……また何も出来ないと認めることになるんではないかと、そんな考えが少し頭によぎってます」
「………」
二手前と同じ位置に駒を動かす。王はまた二手前の位置に戻る。
「……三度同じ盤面になると引き分けですよ」
「………」
また二手前と同じ位置に駒を動かす。次にまた酒屋さんが駒を二手前と同じ位置に動かせば、引き分けだ。
パーペチュアル・チェック。千日手。今キングが生き残るためには、同じ行動を繰り返すしかない。だがチェスのルールでは同一局面が3回続くと引き分けになる。
3回同じことを繰り返して、このままアンドリューへの想いも捨て去ることは果たして次に進んでいると言えるのだろうか。
ならいっそのこと、その想いを抱いて。そのまま生きるという選択肢もあるのではないか。勿論それは、お互いに捨てきれない感情がある場合に限る。
こんな子供相手にボードゲームを行って、その勝敗で自分の今後を決めようとすることをしてしてしまうくらいだったら。もう少し足掻いてみてもいいんじゃないか。アンドリューを知っている俺としては、おせっかいもいいところだとは思うが、そう思ってしまった。
「………………本当にお前は生意気な子供だよ」
そういうと酒屋さんは、俺の方にある黒いキングを持ち上げ、席を立った。
「……お前達はお前達でやれ。あたし達ももう少し足掻いてみる事にするよ。こいつと一緒に」
何も言わず。持ってきていた荷物を椅子の上に置くと、彼女は背中を向け片手を振った。こちらに振り返りもせず、両開きの扉を開け一言"ありがとう。またな"とだけ。
でもその声は先ほどまでの憂いを帯びたものではなく、少し前向きになれたと感じられるような、いつもの酒屋さんの快活で高めの声だった。
「……まさか引き分けにもならずこっちのキングだけ奪われるとはな。アンドリュー、お前の言うとおりに次に進ませてやったぞ」
「……………………、火を寄越せ。お前の魔力全てを使った、ありったけのだ!」




