表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

355/359

7.白金に輝く漣に-3

 ただならぬ、アイリーの悲鳴。


 リュイセンが驚いて振り向けば、彼女は蒼白な顔で口元を覆っていた。小刻みに震える指先までもが白いのは、もはや冷水のためではあるまい。


「どうした!?」


 リュイセンは、神速でアイリーのもとへと駆け寄る。


「な、なんでもないわ! 私が、分かっていなかっただけ……」


「なんでもない、って。そんなわけないだろう?」


 アイリーは、どことなく悲痛な面持ちで、唇を噛んでいた。リュイセンとしては、戸惑うばかりである。


 途方に暮れていると、気まずそうに彼女が目線を上げた。彼を困らせている自覚があるのか、逡巡しながらも、ぽつり、ぽつりと口を開く。


「リュイセンは、凶賊(ダリジィン)だもの。当然のことなんだ――って、受け止めなきゃいけないの。……きっと、勲章なんでしょう?」


「?」


 何を言いたいのか、まるで理解できない。


 リュイセンが呆然と立ち尽くしていると、アイリーは大きく息を吸い込んだ。そして、意を決したように、リュイセンの裸の胸に触れる。


「!?」


 反射的に身を引こうとした瞬間、アイリーの涙声が耳朶に届いた。


「酷い傷跡……」


 胸から腹へと、細い指先が、感触を確かめるように、おずおずと動く。


 それから、変色した皮膚に淡い色合いの唇を寄せ、まるで口づけるように触れたかと思うと、ふわりと抱きついてきた。先ほどまで、彼の半裸姿に緊張していたのが嘘のように。ごくごく自然な動作で背中に手を回し、傷ついた獣を慈しむかのように、彼の素肌を切なげに撫でる……。


「!」


 迂闊だった。


 何も考えずにシャツを脱いでしまったが、リュイセンの腹には深い太刀傷があり、背にも大きな袈裟懸(けさが)けの跡がある。こんな醜い刀痕を見れば、驚くのは当然だった。


 凶賊(ダリジィン)である以上、負傷は免れない。


 しかし、この傷は少々、次元が違う。


 数ヶ月前。菖蒲の館への潜入作戦のとき、〈(ムスカ)〉との死闘の末に負った傷だ。


 天才医師でもあった〈(ムスカ)〉の治療により一命を取り留めたが、そのまま囚われの身となり、ミンウェイのためにと、一族を裏切った。――あのときの傷跡だ。


「この怪我をしたとき、リュイセンは痛かったわよね。辛かったわよね……」


 縫合された皮膚の引きつれを確かめるかのように、アイリーの指先が傷跡をなぞる。


 優しく(いたわ)るように。繰り返し、何度も。


 視力の弱い自分は、目で見ても、彼の苦痛を量りきれない。だから、こうして触れて感じ取りたいのだ――とでも言うように……。


「怖くないのか?」


 すっかり忘れていたが、部下の凶賊(ダリジィン)たちでさえ、庭先で鍛錬の汗を拭くリュイセンの姿に、初めは息を呑んだのだ。荒事とは無縁のアイリーなら、恐怖を覚えたとしても不思議はないだろう。


 なのに、彼女は、この(むご)い傷跡に痛ましげに触れてきて……。


 リュイセンは困惑する。


「この傷が、まったく怖くない、って言ったら、嘘になるわ。けど、それより、リュイセンが、いつ大怪我を負ってもおかしくないような世界にいるのが嫌……」


 アイリーはそう言ってから、失言だったとばかりに、はっと顔色を変えた。それから、困ったように白金の眉を寄せ、もどかしげに告げる。


凶賊(ダリジィン)が悪いとか、リュイセンが凶賊(ダリジィン)なのが駄目、ってことじゃないのよ。だって、リュイセンは、凶賊(ダリジィン)として矜持(プライド)を持って生きている。否定したくないわ。――ただ、リュイセンの世界は、危険と隣り合わせなんだ、って思ったら……」


 (つたな)くとも懸命な言葉を落とし、彼女は(うつむ)く。駄々をこねた子供が、どうにもならない現実を悟り、押し黙るしかなかったように。


 アイリーの言いたいことは、直感で理解できる。何より、彼女はさっき、リュイセンの傷跡を『勲章』だと(たた)えてくれたのだ。


 項垂(うなだ)れた肩の儚さは、彼への憂心(おもい)ゆえで……。


 ぐらり。


 リュイセンの心が、大きく揺れ動いた。


 それを契機に、勢いよく胸が高鳴り始める。


 ――駄目だ……!


 華奢な肩に伸びかけた手を握りしめた。


 今までだって、彼女を運ぶために抱き上げたり、庇うために抱き寄せたりしてきたが、きちんとした目的も理由もあった。けれど、ここで抱きしめたら、それは、まったく別の意味になる。


 感情を制御できなくなりかけた――という事実に、リュイセンは焦った。ちらりと覗く、白い(うなじ)から目を()らし、鼓動を鎮める。


 この『ドライブ』は、アイリーの憧れを叶えるためのものだ。


〈神の御子〉という容姿を持って生まれてきた彼女は、次代の王に玉座を繋ぐためだけに存在する、いわば生贄だ。甘い恋愛は許されない。


 だから。


 リュイセンは憐憫の情から、『恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポットに行ってみたい』という、小さな願いを叶えてやりたいと思った。――あくまでも、彼女のために、だ。


 その過程で、まるで恋人のような振る舞いもしたが、それは擬似的なものにすぎない。


 陽炎が見せる、幻影と同じだ。


 たとえ彼女が錯覚を起こしたとしても、リュイセンまでもが惑わされてはならない。




 彼女は『女王陛下』なのだから。




「リュイセン」


 おずおずといった(てい)で、アイリーが顔を上げた。


「もし、リュイセンが嫌でなかったら、この傷を負ったときのことを教えてくれる?」


「え……」


 想像もしていなかった発言に思考を遮られ、彼は戸惑う。――と、同時に、冷静さを取り戻すことに成功した。


「嫌ならいいの。無理は言わないわ」


 きゅっと結ばれた口元に反し、彼女の目元は気弱に揺れていた。刀痕の事情を知らないからこそ、漠然とした不安を感じているのかもしれない。


「別に隠すようなことじゃないから話すよ。そもそも、この傷は、お前が想像しているような凶賊(ダリジィン)同士の抗争で受けたものじゃないんだ」


「えっ!?」


「屋敷で『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』のことを話しただろう? そのときに出てきた、『ライシェン』を作った〈(ムスカ)〉という男。――彼との争いの中で、この傷を負ったんだ」


 リュイセンがそう告げた瞬間、アイリーは、きょとんと目を丸くした。刀傷といえば凶賊(ダリジィン)の抗争、という発想(あたま)であったためか、すぐには理解できなかったらしい。


 ひと呼吸以上の間をおいてから、「なんですって!?」と、大きく音程を外した声が、澄んだ青空に響き渡った。


「それじゃあ、リュイセンは『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』のせいで、こんな酷い傷を負ったというの!?」


 眉尻の上がった綺羅の美貌が、責め立てるように彼へと迫る。


 ――実は。


 リュイセンは、アイリーに菖蒲の館でのことを――彼が囚われ、〈(ムスカ)〉の部下となっていたことを話していない。すべてを語れば、あまりにも長くなるため、セレイエと『ライシェン』のことを中心に話をまとめ、その他は大きく端折(はしょ)ったのだ。


「……違うか」


「え?」


 ぽつりと落とされた低音に、アイリーは首をかしげる。


「『話が長くなるから』じゃねぇな。俺自身が、自分の格好悪いところを隠したかっただけだ」


 リュイセンは目元を緩め、穏やかに笑った。愚かさを自覚しながらも、懸命(がむしゃら)だった自分を思い出し……、ほんの少し、胸が痛むのを感じる。


「『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』はさ、セレイエが息子(ライシェン)のために作った計画で間違いないんだけど、〈(ムスカ)〉と……ミンウェイの運命を大きく変えたんだよ。――俺は一族を裏切って、それから、最後の総帥になるために戻ってきたんだ」


「ちょ、ちょっと、待って! ごめんなさい。全然、話が見えないわ!」


「そうだよな。すまん」


 リュイセンは、面目なげに苦笑する。こんな話し方では、アイリーを困らせてしまうだけだろう。


 申し訳ない気分で彼女を見やれば、彼の話を聞きたいと、真剣そのものの表情(かお)で、じっとこちらを見つめている。


 だから、思った。


 彼女に、すべて話したい、と。


 話して、どうなるというわけではないけれど、ただ聞いてほしい。


 もはや過去のものとなった、ミンウェイへの恋心さえも――。


「アイリー。俺は話し下手だけど、聞いてくれるか?」


「うん!」


 彼女は黒いパーカーを脱いで、日影の平らな岩の上に広げた。お気に入りのワンピースが汚れないように気をつけながら、そっと腰掛ける。どことなく得意げな表情から察するに、聞く準備は万全だ、ということらしい。


 そんな様子に、思わず笑みを(こぼ)していると、今度はパーカーの裾の部分を伸ばし、リュイセンにも座るようにと勧めてきた。――が、それは丁重に断る。


 さすがに狭すぎるし、リュイセンのズボンなど、汚れてもどうということはない。……それに、並んで座れば、彼女との距離が近すぎるだろう。


 リュイセンは、アイリーと向き合うような形で腰を下ろした。


 そして、比翼連理の夢を見た〈悪魔〉と、その記憶を受け継いだ『彼』の話を語り始めた。






 ミンウェイは、誰かに〈(ムスカ)〉のことを話すときには、自分がクローンだったことも包み隠さずに明かすようにと、皆に頼んでいた。そうでなければ、〈(ムスカ)〉の――そして、ヘイシャオの本心が伝わらないから、と。


 長い話を終え、リュイセンは、すっかり乾いたシャツを身につけた。そして、アイリーは、白いはずの(まぶた)を真っ赤に腫らして泣きじゃくっていた。


「ごめんなさい、リュイセン。私が泣いたって、仕方がないのに……。……でもね、誰もが辛かったんだな、って。誰か、じゃなくて、皆が……」


 しゃくりあげる声を、滝の音が優しく包む。


 傾きかけた陽射しが涙に反射して、柔らな色合いを帯びた光が、きらきらと流れ落ちた。


「仕方なくなんかねぇよ。……聞いてくれて、ありがとな」


 リュイセンは微笑み、滝からの水流(せせらぎ)に目を向けた。この流れは、やがて大きな川となり、〈(ムスカ)〉たちの墓のある海へと繋がっていく。アイリーの(ことば)も、きっと彼らに届くことだろう……。


「『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』は、多くの人を巻き込んで不幸に陥れた。このことは、どうしようもないほどの事実だ。――けど、〈(ムスカ)〉とミンウェイは、結果として救われたと思うし、俺自身も、前よりは少しはマシな人間になれたような気がする」


「リュイセン?」


「諸悪の根源は、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』じゃねぇんだよ。もとを辿(たど)れば、創世神話とか、〈神の御子〉とか、王家と鷹刀の関係とか――古くからの因習のようなものが根底にあるんだ。……ちょっと壮大過ぎて、実感が湧かねぇけどさ」


 祖父イーレオは、ずっと昔から、凶賊(ダリジィン)としての鷹刀一族の解散を考えていたという。初めてその話を聞いたときには、裏切られたような気持ちになったものだが、今は、それこそが目指すべき道だと、リュイセンも思う。


「たぶん、絶対に悪い『何か』なんてないんだ。……だからさ。大切なのは、自分が、どんなふうに生きていくか、だ」


 断言してから、脈絡のないことを口にした気がして、リュイセンは「うまく言えねぇや」と頭を掻いた。


 けれど、アイリーになら、きっと伝わっているはずだ。


 リュイセンは、すっと立ち上がり、天空(そら)を望んだ。挑むような漆黒の眼差しで、魅惑の低音を響かせる。




「俺は、鷹刀の最後の総帥になる」




 漆黒の髪を風になびかせ、誓いを立てる。


 仰ぎ見る、山に。


 流れ着く、海に。


 鷹刀に『凶賊(ダリジィン)』――『闇を統べる一族』の称号を与えた、王家の末裔であるアイリーに。




「創世神話に、『罪人(つみびと)』と記された鷹の一族は消える。鷹刀は、あらゆる(いにしえ)のしがらみから解き放たれ、自由になる」




 最後の総帥として、リュイセンは一族を幸せに導く。鷹刀という場所が、心の()り所として大切であることを尊びつつ、時代遅れとなってしまった凶賊(ダリジィン)という(くさび)から、皆を解放する。


「俺は、やるべきことをやるよ」


 決然と告げてから、はっと我に返り、照れくさくなってきた。アイリーに、おかしく思われていないだろうかと、どぎまぎと彼女を振り返る。


 アイリーは先ほどと変わらず、岩の上に、ちょこんと腰掛けていた。


「リュイセン……」


 小柄な彼女は、ぐっと頭を傾け、白い喉を無防備に晒しながら、長身の彼を見上げる。白金の髪が風に(もてあそ)ばれ、ひらひらと舞い乱れた。


「リュイセンは凄いわ。――そして、強い……」


 まるで、天に焦がれるかのように、彼女は(まぶ)しげに青灰色の瞳を細める。


 創世神話に(うた)われる、天空神そのものの姿をした女王陛下(アイリー)


 その綺羅の美貌は、諦観の色に染まっていた。あたかも、地上に繋ぎ止められ、抗うことのできない生贄の如くに――。


 彼女の(うれ)うような面差しを目にした瞬間、リュイセンは思わず呟いた。


「鷹刀だけが解き放たれるなんて、不公平だ……」


 彼は、すっと腰を落とした。地面に片膝を付き、彼女と目線を合わせる。青灰色と漆黒――天と地を表したような瞳が、同じ高さで互いを映す。


 そして、好戦的なまでの魅惑の低音を、静かに響かせた。




「お前も、最後の王になればいいんだ」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ