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6.波音の子守唄-2

「あのね、〈(ムスカ)〉のおじさんは、とっても、いばりんぼだったけど、自分だけ美味しいご飯を食べていたわけじゃないの。ファンルゥのご飯、とっても美味しかったの」


 ファンルゥの部屋に向かうべく、天空の間を出た途端、ミンウェイの頭よりも遥かに高い位置から、子供特有の細い声が響いた。


 目線を上げれば、タオロンに肩車されたファンルゥが、訴えるようにミンウェイを見つめていた。父親そっくりの太い眉が下がり、わずかに頬を上気させた顔からは、どこか思いつめたような懸命さが伝わってくる。


「斑目のお(うち)とは違うの。パパは、お仕事がないときは、ずっとファンルゥと一緒にいてよかったの」


「ファンルゥちゃん……?」


 先ほどは、ミンウェイと行動できるのが嬉しくてたまらないと、ご機嫌だったファンルゥが、今はくりっとした大きな目にうっすらと涙を浮かべていた。その急激な変化に、ミンウェイは戸惑う。


「〈(ムスカ)〉のおじさんは、お姉ちゃんのパパなんでしょ?」


「え……」


 まっすぐな視線に、どきりとした。


 ミンウェイにとって、『彼』は何者だったのか。そして、彼女を育ててくれた『お父様』は何者だったのか……。


 ミンウェイは自問し、切れ長の目を見開いたまま、表情を凍らせる。


 勿論、ファンルゥに他意はなく、ただ、そう聞いたから、そう言ったまでなのだろう。


「お姉ちゃんが『悪いことはやめて!』って言ったから、〈(ムスカ)〉のおじさんは『ごめんなさい』して、牢屋に行ったんでしょう?」


 どうやら、小さなファンルゥには、『娘のミンウェイの勧めで、〈(ムスカ)〉が自首した』と説明されたらしい。〈(ムスカ)〉には、メイシアを誘拐、監禁していたという事実があるので、ファンルゥは、すんなり納得したようである。


 ミンウェイが曖昧に頷くと、タオロンが「すんません」とそっと謝った。その声と重なるように、ファンルゥが言う。


「『ごめんなさい』は大事だって、ファンルゥは知っている。だから、お姉ちゃんは正しいの。……でも、〈(ムスカ)〉のおじさんが牢屋に行っちゃったら、お姉ちゃんはパパと会えない……! お姉ちゃんは、正しいことしたのに……!」


 ファンルゥの目から、ぽろっと大粒の涙がこぼれた。『パパと会えない』は、彼女にとって、とても悲しいことなのだ。


「あのね、ファンルゥのパパがね、ファンルゥのお部屋を見れば、お姉ちゃんは寂しくても頑張れるって言ったの。ファンルゥのお部屋は、とっても素敵だから、お姉ちゃんに元気をくれるって。だから、ファンルゥは、お姉ちゃんをお部屋に案内するの!」


 小さな拳骨で、ぐいぐいっと涙を拭い、ファンルゥは使命感に満ちた太い眉を寄せる。よく分からない理屈であるが、ミンウェイを励まそうと必死なのは分かった。


 そんな娘の体を、タオロンはひょいと肩から降ろす。重力をまるで感じさせない動きで、しっかりと胸に抱き直し、見るからに無骨な大きな掌でファンルゥの頭を撫でた。ぴょこぴょこと飛び出た彼女の癖っ毛が、嬉しそうに跳ねる。


「いきなり、すんませんでした」


 タオロンはミンウェイに向き直り、頭を下げた。


「俺から話すのが(スジ)とは思ったんですが、あなたの気持ちは『ファンルゥのほうが、よく分かる』と娘が……。それに俺は、あまり口が達者じゃねぇんで……」


 大きな体を丸めて紡がれた言葉は、確かに洗練されたものではなかったが、ミンウェイを心から気遣っていた。


 この父娘は、本当に素朴で、温かい。


 ルイフォンたちから聞いていた通りだ。


 ミンウェイの表情が自然に和らぐ。先ほど『彼』を亡くしたばかりの心が、ほわりと癒やされていく。


「ありがとうございます。……ファンルゥちゃんも、ありがとう」


 少しだけ虚勢も混じってはいたが、ミンウェイは微笑みを浮かべた。


「――けど、ファンルゥちゃんの部屋を私に見せたいというのは、いったい……?」


「……うまく言えねぇんで、とりあえず見てください。もう着きますから」


 首をかしげたミンウェイに、タオロンは弱ったように声を詰まらせながら、ぼそぼそと答えた。そして、その言葉の通りに、すぐに廊下の端――ファンルゥの部屋の前に到着する。


 昨晩、ファンルゥの身を守るために、ルイフォンが番号を変えて施錠した電子錠は、先ほど解錠してもらったという。だから、扉はすっと開いた。






 部屋の中は、ファンルゥがメイシアのいる展望塔へと、慌ただしく出発する前の状態が、そのまま残されていた。


 大きく窓が開け放たれ、その下には脱出の際に踏み台にした、子供用の椅子が置かれている。草原を渡る風が、ざわざわと、まるで波のような音を立てながら部屋に入ってきて、テーブルの上のスケッチブックをぱらりとめくった。


 力いっぱい塗られた水色の上に、紫の丸がたくさん描かれていた。『病気のあの子』に届けるからと、リュイセンが預かったのと同じ絵柄だ。


 ファンルゥの優しさの象徴ともいえる絵を見て、ミンウェイは口元を緩める。


 ……しかし。


 どうしてタオロンは、この部屋を見せたいと言ったのだろう?


 やはり、分からない。


 ミンウェイが理由を問おうとしたとき、横の壁から、カチッという機械仕掛けの音が聞こえた。


 そして――。


 ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。


 時計の鐘が、定時を告げる。


「え……」


 ミンウェイは耳を疑った。


 軽やかな鐘の音は、聞き覚えのある響きをしていた。


 ……ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。


 ミンウェイの心臓が、時報を追いかけるように早鐘を鳴らす。弾かれたように音をたどれば、そこには可愛らしいデザインの絡繰(からく)り時計が掛けられていた。


 ……ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。


 十二回。――正午だ。




『お昼の十二時だけは、特別なのだよ。ピエロが全員で、ミンウェイに挨拶に来る』


『そしたら、研究室にいる私を迎えにきてほしい。私はきっと、時間を忘れているだろうからね』


『ミンウェイ。一緒に、お昼を食べよう』




 耳の中に蘇る、柔らかな低い声――。


「お父……様……?」


 壁に掛けられた絡繰(からく)り時計から、軽快な音楽が流れ始めた。


 十二個の数字が順に、ぎぃ、ぎぃと音を立てて裏返り、後ろに隠れていた色とりどりのピエロが、次々に飛び出してくる。


『おかえり、ミンウェイ!』


『元気にしていた?』


『また会えて嬉しいよ!』


 ピエロたちは踊りながら、ミンウェイに笑いかける。


「嘘……」


 ミンウェイの子供部屋にあった絡繰(からく)り時計は、とっくの昔に時を止めてしまった。


 だから今、目の前で踊っているピエロたちは、新しくファンルゥのために用意されたもの。何処(どこ)彼処(かしこ)もぴかぴかの新品だ。


 ――だけど。


 ピエロたちが勢揃(せいぞろ)いし、代わりに文字盤の数字がすべて隠されてしまった絡繰(からく)り時計は、『何時(いつ)』でもない『時間(とき)』を示している……。


『ねぇ、ミンウェイ。僕たちのいる『此処(ここ)』は、どこだと思う?』


「え……?」


 ミンウェイは、はっと顔色を変えた。


 ピエロたちがいるのなら……と、部屋のあちこちに視線を走らせる。


 見覚えのあるおままごとセット、記憶にあるがままの着せ替え人形、小物作りに夢中になった子供用の大きめきらきらビーズ……。玩具だけではない。洋服掛けには、お気に入りのふわふわワンピースまで下がっている。


「『此処(ここ)』は……、私の……部屋……」


 全身の力が急に抜け落ち、ミンウェイはぺたんと床に座り込んだ。


 下がった視線の先に、本棚があった。絵本の背表紙が目に入る。ミンウェイが好きだった、お姫様が出てくるものばかりだ。お姫様の物語でも、怖い魔女が出てきて、わんわん泣いてしまった絵本は見当たらない。


「きっと、そうなんじゃねぇかと思って……。だから、あなたに見せたかったんです」


 背後から、タオロンの遠慮がちな太い声が聞こえた。


 ミンウェイは振り返るべきだと思いつつ、顔を上げることはできなかった。ただ、相槌を打つように、こくりと頭を動かす。


「ファンルゥは、斑目の家でも人質でした。でも、斑目がファンルゥに与えたのは、こんな立派な部屋じゃねぇ。とりあえず子供用のもんがある、って程度で……、俺も馬鹿だから、それで充分なんだと疑いもしなかったんです」


 年上の女性への言葉遣いに迷うのか、タオロンは時々、声を詰まらせた。そして、ぽろりと、素のままの思いがこぼれる。


「斑目がどうだって、俺自身が、綺麗なもんのひとつでも買ってやりゃあよかったのによぉ」


「パパ……」


 ファンルゥが、もぞもぞ動く気配がした。けれど、彼女はタオロンの話の邪魔にならないよう、それ以上は何も言わない。物心つく前からの人質生活で、幼いながらも状況を読むべきときを、ちゃんと知っているのだ。


 ミンウェイの後ろで、タオロンが笑んだのが分かった。目を細め、愛しげに娘を見つめる眼差しが感じられる。


 それから彼は、気を取り直したように続けた。


「この部屋のものは、ファンルゥがおとなしくしているようにと、〈(ムスカ)〉が手配したものです。見たこともない贅沢品にファンルゥは喜んで……、だから俺は、この歳の女の子に人気のものを〈(ムスカ)〉が適当に掻き集めてきたんだとばかり思っていて……、――けど」


 理路整然と話せないことを焦れるように、タオロンは、ほんの少し早口になる。


「そのうち、ファンルゥには上品すぎるというか、ちょっと刺激が足りなくて飽きちまったというか……。そんなとき、〈(ムスカ)〉に娘がいると知って、馬鹿な俺でも気づいたんです。――ここは『あなた』の部屋なんだ、って」


 やっと説明できた、とばかりにタオロンが力強く言い放った。


 ミンウェイは何か言葉を返さねばと思うのに、喉が詰まって声を出せない。だから、無言で首肯する。


 タオロンの言う通り。この部屋は、内気な女の子だったミンウェイの部屋。


 懐かしく……けれど今まで、すっかり忘れていた遥かな昔のこと。


 なのに〈(ムスカ)〉は――『お父様』の記憶は、ずっと覚えていたのだ……。


「……あ、……あのぅ、……すんません」


 戸惑うような、タオロンの息遣いを感じた。まだ何か、言いたいことがあるらしい。


 ミンウェイの後ろ姿に一方的に話しかけるのは、タオロンとしては非常にやりにくいことだろう。それでも彼は、懸命に口を開く。


「俺は正直、〈(ムスカ)〉の野郎が大嫌いでした。……だから、あいつを弁護するようなことは言いたくねぇ。けど、あなたには勘違いをしてほしくねぇんです」


「……?」


「娘がいれば、女の子が好きそうなもんくらい自然に分かってくる、なんてことは、絶対にねぇんです。散々、失敗して、時には理不尽に癇癪を起こされて、やっと、なんとかやっていくんです。……俺なんか、ファンルゥに何をしてやったらいいのか、悩んでばっかです」


 ぽつり、ぽつりと、タオロンは語る。


「男の(ガキ)だったら、まだもう少し楽だったんじゃねぇかと思っちまう。女の子なんて、本当に分からねぇ……。――だから、男手ひとつで(あなた)を育てた〈(ムスカ)〉は…………(すげ)ぇんです」


「……」


 初めてこの父娘を見たとき、ミンウェイは、歳の離れた兄妹みたいだと思った。


 けれど、違う。タオロンは、ちゃんと『ファンルゥのパパ』なのだ。


 タオロンは、言葉に迷いながら、続ける。


「ファンルゥの腕輪の件。あなたも聞いていますよね」


「え、ええ……」


 やっと声が出た。――タオロンが、ミンウェイと……『彼』のために話をしてくれているのだと思うと、自然に声を出せた。


「模造石だって言われたけど、俺には宝石なんて区別できねぇ。だから、大人の女が持つような(すげ)ぇもん寄越しやがってと……、なんて言えばいいんだ……、ファンルゥにはまだ早いっつうか。けど、ファンルゥの奴が(すげ)ぇ喜んで……、俺は、〈(ムスカ)〉と……ファンルゥに、むかつきました」


 最後のほうは、低く押し殺した声だった。背後の気配が揺れたので、そっとファンルゥの耳をふさいだのだと分かった。娘には聞かせたくなかったのだろう。


「〈(ムスカ)〉は、このくらいの歳の子は小さな淑女(レディ)だと。そんなことも知らないのかと、俺を鼻で嗤いました。――俺は、(すげ)ぇ悔しくて。けど、本当に〈(ムスカ)〉の言う通りで……。……でも」


 ためらいながら、タオロンは言を継ぐ。


「〈(ムスカ)〉との……そのぅ、片がついて、落ち着いた今だからこそ、俺もこんなことを言えるんだと思いますが、あのときの〈(ムスカ)〉の態度は、〈(ムスカ)〉の自負っつうか……、苦労して(あなた)を育てたから分かるんだという、誇りみたいなもんだったんじゃねぇかと思うんです」


 そしてタオロンは、太い声に照れるような色合いを混ぜながら、はっきりと告げる。




「〈(ムスカ)〉は、本当に(すげ)ぇ愛情を込めて、あなたを育てたんです」




「――!?」


 思ってもみなかった言葉に、ミンウェイは息を呑んだ。


 その反応を、タオロンがどう捉えたのかは分からない。ただ、がりがりと頭を掻く音が聞こえる。


「思えば〈(ムスカ)〉は、ファンルゥには優しかった気がするんです。――立派な部屋を与えて、おとなしくさせる必要はなかった。人質なんだから、騒ごうが暴れようが、鎖で繋ぐんだってよかった。俺には絶対に手出しができねぇ怪しい技術を使うとか、あの硝子ケースに閉じ込めるとか、なんだってできたんだ……」


「……」


「あの腕輪だって、ただの腕輪だった。俺のことを脅して、そのために、俺はリュイセンを斬ったっていうのに……。ファンルゥに対しては『音が出る腕輪』と説明して、怖がらせないようにして……それも、全部、嘘。本当になんの仕掛けもない、ただの腕輪だった。馬鹿な俺は、すっかり騙されちまったけどよぉ」


「…………」


「ファンルゥは、〈(ムスカ)〉のことを『悪い奴』だと嫌っていた。けど、驚いたことに、ちっとも怖がっちゃぁいなかったんだ。俺はてっきり、ファンルゥが餓鬼だから状況が分かっていねぇんだと信じていた。でも、違った。――〈(ムスカ)〉は、一度だってファンルゥに危害を加えたことはねぇんです。……それは、ファンルゥに、あなたを重ねて見ていたからだと……俺は思うんです」


「………………」


「俺みたいな奴が説教臭く、すんません。……でもこれは、俺にしか言えねぇから。……その……、……あぁ、うまく言えねぇ……」


 あとには、もごもごと言葉にならない声が続き、タオロンが困りきっているのが分かった。


 ミンウェイは――……。


 本棚の前に座り込んだまま、瞬きひとつできなかった。


 絵本の背表紙がにじむ。


 膝の上に、ぽたりと涙の粒が落ちた。


「すんません。俺たちは、これで失礼します。……あなたは、この部屋をしばらく見てやってください」


 ミンウェイの肩が小刻みに震えていることに気づいたのだろう。タオロンは焦ったようにそう言って、部屋を出ようとした。


 そのときだった。


「お姉ちゃん!」


 タオロンの腕から、ぴょこんと飛び出したファンルゥが、ミンウェイのもとへとやってきた。


 ミンウェイは慌てて目元を拭い、「なぁに?」と答える。


「この腕輪、お姉ちゃんに返す!」


 模造石をきらきらと輝かせながら、ファンルゥが腕から腕輪を抜き取った。


「――お姫様の……腕輪……!」


 ミンウェイは、思わず目を見開く。


 それは、子供のころの宝物と、そっくりだった。


「この腕輪、やっぱりお姉ちゃんのだったんだね!」


「え……?」


 そんなことはない。その腕輪は、〈(ムスカ)〉がファンルゥのために用意したものだ。


 ミンウェイの腕輪なら、昔、住んでいた家のどこかに、今も大切にしまってあるはずだ。ついこの間、ミンウェイがクローンである証拠を求めて生前の父の研究室を調べにいった、あの家のどこかに。


 ルイフォンが思い出を持ち帰ることを勧めてくれたのに、『お別れ』をしに来たのだと突っぱねてしまったから、二度と手にすることはないのだけれど――。


「ファンルゥね、パパから『ご褒美』の腕輪を貰ったの!」


 ファンルゥは模造石の腕輪をミンウェイに押しつけ、自分のポケットをごそごそとさせた。そして、紫水晶でできた腕輪をはめる。小さな女の子が身に着けるにしては、だいぶ大人びた色合いであったが、細身のデザインが細い手首に意外によく似合っていた。


「これはね、メイシアの『作戦』で、パパがルイフォンに会うために、お出掛けしたときに買ってきてくれたの。ファンルゥの宝物!」


 タオロンが、ファンルゥには『ご褒美』をやるべきだと主張して、〈(ムスカ)〉から外出許可をもぎ取った、あの一件である。


『ペンダントとか、ブローチを買う』と言って出掛けたくせに、タオロンは、〈(ムスカ)〉の腕輪に対抗して『腕輪』を買ってきたのだ。紫色は『空に浮かぶ、紫の風船』の絵から、ファンルゥの好きな色だと考えたのだろう。


「ファンルゥは、ファンルゥのパパの腕輪を着けるから、お姉ちゃんは、お姉ちゃんのパパの腕輪を着けて!」


 満面の笑顔で、ファンルゥは言う。


 今までは『〈(ムスカ)〉の腕輪』を着けていなければならなかったのが、やっと『パパの腕輪』に替えられる。それが、嬉しくてたまらないらしい。


 ……ミンウェイに、断ることはできなかった。


「ファンルゥちゃん、ありがとう……」


 そう言って、ミンウェイは、きらきらのお姫様の腕輪をはめる。


 何十年ぶりかの輝きは、幼いころとは違って、どこか色あせて見えた。模造石は、本物ではないことを知ってしまったからかもしれない。


 懐かしさに目を細めると、目尻から、すっと涙が流れ落ちた。






 タオロンとファンルゥの父娘は、ミンウェイを残して部屋を出ていった。


 そして――。


「お疲れさん」


 妙に甲高く、耳に障る声が響いた。


 振り返らなくても分かる。この庭園を出るための準備をしているはずのシュアンである。


 何故、彼がここにいるのか。


 ミンウェイは、別に疑問に思わなかった。さっきから気配を感じていたし、いつも、ふらりと現れる人だから、今もそうなのだろうと納得していた。


 シュアンは遠慮なくミンウェイに近づいてきて、けれど、そばまでは来ない。中途半端なところで立ち止まり、そこでどっかりと腰を下ろした。


「斑目タオロンは、あんたと〈(ムスカ)〉の正確な間柄を知らないんだろう?」


「え? ……ええ、そうだと思います」


 単に『父娘』だと、ルイフォンは説明したはずだ。クローン云々(うんぬん)なんてことは、わざわざ言う必要はないだろう、と。


 シュアンは何故、そんなことを訊くのだろう?


 ミンウェイは、わずかに警戒する。泣いていた形跡を手の甲でこすり取ると、視界の端で、きらきらと模造石が輝いた。


「あいつの善意は、あんたには、ちっときつかったな」


「……?」


「斑目タオロンさ。ああ、娘のほうも、父親そっくりだったな。――あんたを慰めよう、励まそうと必死で。凶賊(ダリジィン)のくせに、愚かしいほどにいい奴で」


 そこで急に、シュアンの声が、怖気(おぞけ)の走るような、どすの利いたものとなる。


「――そんでもって、あんたの傷をえぐりまくっていた」


「緋扇さん!?」


 気遣ってくれた父娘への、あんまりな言葉。


 ミンウェイは、涙の跡が残る顔にも関わらず、反射的に振り返る。


「よぉ、やっと、こっちを向いてくれたな」


 軽薄な口調で、シュアンが、ぼさぼさ頭を揺らした。くつろいだ様子で床に胡座をかいている姿は、ミンウェイが想像していた通りだ。


 しかし、彼を特徴づける三白眼が、切なげに細められていた。まるで泣き出す直前のような顔に見える。シュアンに限って泣き顔など、あろうはずもないが。


「緋扇さん! 今の発言は、あまりにも失礼ではありませんか!?」


 (まなじり)を吊り上げ、ミンウェイは叫んだ。シュアンの表情は、きっと気のせいだと思いながら。


「ただの事実だろう?」


「『事実』って? 何が『事実』だと言うんですか!」


「事情を知らないタオロンの奴は、『〈(ムスカ)〉は、娘に愛情を注いでいた』と伝えれば、あんたも〈(ムスカ)〉も報われると信じていた。あんたを喜ばせようと、義務感すら持って語っていた」


「……」


「タオロンは、いい奴だ。〈(ムスカ)〉の野郎も、天国だか地獄だかで、タオロンに感謝していることだろう。――だがな。あんたは違う」


「っ!?」


 鋭く突き刺さるような三白眼に、ミンウェイは短く息を呑む。


「あんたの欲しかった愛は、『娘』としてじゃねぇんだ」


「緋扇……さん?」


「なのに、『娘として愛されていた』と繰り返し言われて、……あんたが辛くないわけがないだろう!?」


 その瞬間、ミンウェイの中で、何かが崩れ落ちた。


 目の前の景色が歪み、何もかもが溶けていく。


「あんたはお人好しだから、あの父娘の善意を受け止めなきゃと思ったはずだ。気遣われているんだから。優しくしてもらっているんだから、ってな」


 開け放された窓から、草原を渡る風の音が聞こえる。


 ざわざわという風音は、まるで緑の海原の波音。それが、シュアンの声と混じり合い、ミンウェイへと押し寄せる。




「あんたは、よく頑張った」




 包み込むような言葉が、ミンウェイの心に打ち寄せる。




「〈(ムスカ)〉の野郎の最期の瞬間も、本当は奴にすがりつきたかったんだろう?」




「でも、『彼女』がいたから遠慮した」




「あんたは、よく耐えた」




「もう、いいんだ。我慢することはねぇぞ」



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