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8.重ね結びの光と影-1

 リュイセンはメイシアの世話係として、彼女の部屋に夕食を運んでくる。


 そのときこそ、待ちに待った兄貴分との接触の瞬間(とき)だ――。




 ルイフォンは興奮に顔を上気させ、執務室のソファーで待機していた。心地の良い緊張が程よく体内を巡り、覇気で満たされていく。


 奥の執務机では、一族の総帥たるイーレオの美貌が頬杖によって支えられており、その背後には護衛のチャオラウが控えていた。ルイフォンの向かいのソファーでは、次期総帥エルファンが、相変わらずの無表情で腕を組んでいる。


 そして……。


 ルイフォンの隣には、ミンウェイ。


 メイシアから電話が来たら、まずはルイフォンが受ける。けれど、それから、すぐにミンウェイに替わることになるため、この配置となった。


 とはいえ、話し手はミンウェイでも、会話の内容は皆で聞けるよう、電話の音声出力は外部スピーカーにしてある。画像付きの会議システムだと音質が落ちてしまい、複雑な話には不向きであるため、音声のみの状態だが、ミンウェイの顔を見せたほうが効果的だと判断した場合には、すぐに切り替えるつもりだ。


 ミンウェイは、シュアンが忘れていった制帽を膝に載せ、身じろぎひとつせずにテーブルの上の電話を見つめていた。切れ長の瞳が伏せられているのは、視線が低い位置にあるからか、それとも彼女の気持ちの問題か。


 ルイフォンは、ミンウェイに発破を掛けようとして……やめた。


 彼女の内部では、いろいろな思いが巡っているはずだ。そっとしておくべきだろう。もし、彼女がリュイセンとの会話の途中で言葉を詰まらせたなら、ルイフォンが代わればよいだけだ。


 兄貴分は、必ず取り戻す。


 ルイフォンは、リュイセンのいる庭園へと、挑むように猫の目を光らせる。


 そちらの方角にある窓は、まだ明るさを残した藍色をしていた。夏の陽射しが長いのと、メイシアの食事の時間がやや早めに設定されているためだ。


 ほどなくして――。


 待ち望んでいた呼び出し音が、執務室の空気を震わせた。






『ルイフォン』


 彼の名を呼ぶ、メイシアの第一声。


 その硬い声色だけで、不測の事態が起きたのだと、ルイフォンは理解できた。


「何があった?」


 返した声は自分でも驚くほどに鋭く、慌てて彼は、弁解するように「教えてくれ」と、柔らかに付け加える。


『リュイセンが、反省房に入れられてしまったの』


 メイシアの語尾は震えていた。


 それは、非常事態に直面した彼女の不安の表れだと、ルイフォンは思った。だが本当は、良くない知らせをすぐに察してくれた彼への、軽い驚きと深い安堵に、彼女が涙ぐんでいたためであった。


 彼の言葉に力を得た彼女は、即座に頭を切り替える。今すべきことは、正確な報告だと。


『リュイセンは、〈(ムスカ)〉に逆らって私を助けた罰で、昼食のあと拘束されてしまったらしいの。だから、私の夕食は別の人が持ってきて、リュイセンはこの部屋に来なかった――会えなかったの』


「!」


 ルイフォンは愕然として、受話器を取り落しそうになった。


 何故、この事態を予測できなかったのだろう。


 メイシアのために動いたリュイセンは、〈(ムスカ)〉にとって、もはや部下ではなく、警戒すべき相手と変わったのだ。〈(ムスカ)〉が、メイシアからリュイセンを遠ざけることは、視野に入れておくべき懸案事項だったはずだ。


 ぎりりと奥歯を鳴らし、拳を震わせる。自分の甘さに腹が立つ……。


 そのとき。


『ルイフォン!』


 凛とした呼びかけが、彼の耳朶を打った。


『何か予想外のことが起きた場合には、リュイセンとの接触を諦めて、タオロンさんに〈(ムスカ)〉暗殺を依頼する取り決めだったと思う。でも、今現在、私の身に危険が迫っているわけではないの。だから――!』


 高く澄んだ響きに、ルイフォンは、はっとした。


 メイシアの――彼の戦乙女の示す道が、目の前に広がって見えた。


 その瞬間、彼は瞳を煌めかせ、迷わずに言い放つ。


「だから、まだ諦めない!」


『うん!』


 重ねた思いに、彼女は嬉しそうに応える。


 遥かな庭園にいながらも、彼女は彼と共にある――。


 ルイフォンは、次に取るべき行動を即座に閃かせた。


「タオロンだ! タオロンに頼んで、リュイセンを反省房から助け出す。そして、メイシアの部屋まで連れてきてもらう」


『展望塔の扉の鍵も、私の部屋と同じで内鍵なの。だから、鍵が掛かっていても、私が開けられる! 見張りは……』


「見張りなんか、あのふたりの前には、いないも同然だ。――問題ないな!」


『うん!』


 小気味よいやり取りを繰り広げ、ルイフォンは好戦的な笑みを浮かべた。


 そして、ぐいと顔を上げ、執務机のイーレオを見やる。彼の背で、金の鈴が誇るように跳ねた。


「親父! それでいいよな!」


「今回の件はお前に一任してある。好きにやれ」


 頬杖を崩すことなく返された、豪然とした響き。イーレオは眼鏡の奥の目を細め、すっと口角を上げる。


 ルイフォンは一瞬だけ、頬に緊張を走らせ、しかし、すぐに感謝を込めて頭を下げた。そして、タオロンに連絡を取るべく、尻ポケットから携帯端末を取り出す。


 現在、タオロンには、地下研究室に籠もっている〈(ムスカ)〉の見張りを頼んでいる。


 三十分ほど前に『〈(ムスカ)〉の行動に異常なし』の報告を受けていたので、すっかり安心していたが、時間的にいって、タオロンが見張りにつくよりも前に、〈(ムスカ)〉はリュイセンを反省房に入れていたのだ。


 同じ館内でのできごとなのに気づかなかったと、タオロンは気に病みそうだが、おそらく、リュイセンが囚われたことは意図的に隠された。


(ムスカ)〉は、タオロンは裏切れないと信じているが、同時に、心情的にはリュイセンの味方であることも承知している。ならば、面倒ごとの火種になりかねない情報は、用心のために遮断するだろう。


 タオロンに責任はない。それどころか、後手に回ったルイフォンの落ち度だ。


 現状を考察しながら、タオロンの連絡先を繰り出したとき、「ルイフォン」と低い声が響いた。


「?」


 イーレオ……ではなかった。


 同じ声質を持った、次期総帥エルファンの氷の眼差しが、こちらを向いていた。一族そのものの美貌には懸念が浮かんでおり、わずかに眉がひそめられている。


「リュイセンは、たとえ素手でも、私兵たちやヘイシャオの〈影〉よりも、よほど強い。あいつが、おとなしく反省房とやらに捕まっているのなら、自分の意思で入っているということだ」


 威圧を含んだ口調は、ルイフォンに同意を求めており、彼は促されるままに「あ、ああ」と首肯する。


「ならば、斑目タオロンが『助けに来た』と言ったところで、素直についていくことはないだろう」


「そこは、タオロンに引きずってでも連れてきてもら……」


 そこまで言いかけて、ルイフォンは気づく。


 リュイセンとタオロンは、どちらも甲乙をつけがたい武人である。もしも、本当にタオロンがリュイセンを引きずる事態になった場合には、ふたりとも満身創痍の大騒ぎになっているはずだ。


 ルイフォンが言葉を詰まらせていると、彼の隣で草の香が動いた。


「斑目タオロン氏に、伝言を頼んでください」


 鮮やかな緋色の衣服の胸を張り、ミンウェイが毅然と告げる。


「『鷹刀ミンウェイという人物が、リュイセンと話をしたいと電話を待っている。だから、メイシアの部屋に行ってほしい。メイシアと鷹刀は、とっくに連携している』――私の名前を知らないはずのタオロン氏にこう言われれば、リュイセンはタオロン氏の言葉を信じ、来てくれます」


 彼女は断言し、それから、はっと顔色を変えて「……と、思います」と付け加えた。


「ミンウェイ! 名案だ!」


 自信なさげなミンウェイの雰囲気を吹き飛ばすように、ルイフォンは叫び、破顔する。


「それでいこう! いいよな!?」


 彼は立ち上がり、ぐるりと皆を見渡す。一本に編まれた髪が、道を切り拓くように(くう)を薙ぎ、その先で金の鈴が煌めく。


 彼の言葉に、否やを言う者は誰もなかった。






 タオロンは、地下研究室にいる〈(ムスカ)〉を見張っていた。


 正確には、〈(ムスカ)〉が就寝時間よりも前に研究室から出てきたら、すぐにもルイフォンに連絡できるよう、地下への階段が見える位置で身を潜めていた。


 不意に、彼の胸元で携帯端末が振動する。


 発信元の相手は、ルイフォン。


 電話ではなく、メッセージの着信通知だった。周りを警戒しての配慮だろう。


 ちょうどそのとき、〈(ムスカ)〉の夕食を載せたワゴンが、こちらに向かってやってくるのが見えたので、タオロンは、メイシアもまた食事の時間を迎え、リュイセンとの接触がうまくいったという、朗報が来たのだと思った。


 彼は、ほっと相好を崩した。


 タオロンの夕食は、娘のファンルゥと共に摂ることになっている。〈(ムスカ)〉の見張りをリュイセンと交代し、自分は部屋に戻ってよいか訊いてみよう、そんなことを思いながらメッセージを開き、彼は息を呑んだ。




 ――リュイセンは反省房に入れられたため、メイシアの部屋に来なかった。




 ルイフォンからのメッセージは、そんな文面から始まり、こと細かに状況が綴られていた。


「嘘、だろ……? 俺は、何も知らね……」


 タオロンは愕然とし、慌てて携帯端末に指を走らせる。


 外見の印象通りに、あまり機械類の操作が得意でない彼が、懸命に誤字混じりの謝罪文を打ち込むと、次の瞬間には、情報機器の専門家(エキスパート)であるルイフォンから『タオロンの責任ではない』と速攻で返ってきた。


「本当に、すまん」


 太い指がもどかしく、タオロンは思わず口に出して謝る。


 勿論、その声はルイフォンには聞こえない。けれど、彼を仲間として信頼するメッセージが届けられた。




 ――頼む、協力してくれ。お前にかかっている。




 続けて送られてきた指示に、ごくりと唾を呑み込み、タオロンは足早にファンルゥの部屋へと向かった。






 夕食は、いつも通りにファンルゥと摂った。


(ムスカ)〉も、自分の食事を中断してまで、何かの行動を起こすことはないだろうから、少しでもファンルゥのそばにいて、安心させてあげてくれ。――ルイフォンが、メッセージでそう言ってくれたのだ。


 だが、このあとまた、〈(ムスカ)〉の見張りに戻る。


 そして夜が更け、夜番以外の私兵が室外への出歩き禁止の時間になったら、リュイセンを反省房から助け出し、メイシアのもとに連れて行ってほしい。そのあとは、もとの作戦通り、リュイセンを味方に戻し、(ねぐら)に戻る〈(ムスカ)〉を待ち伏せて捕獲するから、援護を頼む。――これが、ルイフォンからの要請だった。


 食事のあとのテーブルを拭き終え、タオロンは、そのままなんとなく椅子に座った。


 否、なんとなくではない。


 片付いたテーブルの上にスケッチブックを広げはじめた愛娘の顔を、よく見たかったのだ。


 ファンルゥは黒いクレヨンで大きな丸を描き、その中にありったけの色を詰め込んでいた。


 最近は『空に浮かぶ、紫の風船』ばかりを描いているようだが、食後に描く絵だけは、この庭園に来てからずっと変わらずに『これ』である。いつだったか、何を描いているのかと尋ねたタオロンに、彼女はこう答えた。


『今、食べたご飯』


 丸は、皿であるらしい。


『ここのご飯は、斑目のお家のご飯よりも、ずっと美味しいね』


 不満の多い窮屈な生活の中でも、食事だけは特別な楽しみのようだった。


 ファンルゥの身を守り、そして、飢えさせない。――たったそれだけのことかもしれないが、タオロンにとっては何よりも大切なことだ。


「……」


 彼は、刈り上げた短髪と額の間にきつく巻かれた赤いバンダナを、そっと(ほど)いた。だいぶ色あせてしまったそれは、彼の愛した女が、彼に巻いてくれたものだ。




『猪突猛進に走り出しそうになったら、バンダナを結び直しながら、もう一度だけ考えてみて』


『それでも、走るべきだと思ったら、走ったらいいわ』




 彼女の言葉が、耳に蘇る。


 それと同時に、先ほど、ルイフォンから送られてきたメッセージを反芻する。




 ――リュイセンを反省房から助け出せば、タオロンは『明確に、〈(ムスカ)〉を裏切った』ということになる。見張りの私兵たちを、その場で全員、身動きの取れない状態にできなければ、〈(ムスカ)〉に報告されるだろう。


 そうなったとき、ファンルゥの身に危険が及ぶかもしれない。……すまない。


 でも、どうか、お願いできないだろうか。


 頼む。お前にしかできないんだ。




「……猪突猛進なんかじゃないさ」


 両手で持ったバンダナを、タオロンは再び額に巻き直す。――いつもよりも、ぎゅっと、きつく。


「パパ?」


 ご機嫌な様子で絵を描いていたファンルゥが、くりっとした丸い目を大きく見開いた。


 彼女は握っていたクレヨンを放り出し、自分の椅子から、ぴょこんと飛び降りる。ぱたぱたとテーブルを回って、タオロンの胸へと飛び込んできた。


「ファンルゥ!?」


 彼の膝によじ登り、甘えるように抱きついてきたファンルゥに、タオロンは困惑する。


「パパ。バンダナ、きゅっきゅっ、ね?」


「?」


 愛娘の言葉の意味が分からずに、タオロンは太い眉を寄せる。


「ファンルゥ、知っているもん! パパのバンダナは、ママのおまじないでしょ! 『パパ、頑張って!』って、ママが言っているの!」


 ファンルゥは、あちこちに元気に跳ねたくせっ毛をタオロンの頬に擦り寄せ、小さな手を伸ばして赤いバンダナの結び目に触れる。


「パパはね、これから、ちょっと大変になるとき、バンダナをきゅっきゅっ、って結び直すの。そうすると、力がもりもり出てきて、パパは無敵になるの」


「ファンルゥ……」


 バンダナについて、『昔、ママから貰った』くらいは言ったことがあると思うが、特に詳しく説明した覚えはない。


 だから、ファンルゥは『お話』を作ったのだ。


 大好きなパパとママが、今も赤いバンダナで繋がっているという、素敵なお話を――。


「そうだよ、ファンルゥ」


 タオロンは愛娘を抱きしめた。


 太い腕で、優しく包み込みながら、本当は包まれているのは自分のほうだと思う。


 小さくて軽くて柔らかくて……。こんなに、か弱い存在なのに、ファンルゥは幸せという名の温かさで彼を包んでくれる。


「パパが、正しいことを頑張れるようになる、魔法のバンダナだ」


『魔法』などという、およそ自分らしくない言葉に照れながら、それでもタオロンは朗らかに笑った。


 だが、その笑みは、耳元で囁かれた、ファンルゥの次のひとことで凍りついた。


「パパ、リュイセンを助けに行くんでしょ?」


「――!?」


「ファンルゥ、見張りのおじさんたちのおしゃべりを聞いていたから、知っているもん。リュイセンはメイシアを守ろうとして、〈(ムスカ)〉のおじさんに逆らったの。それで、罰として閉じ込められちゃった、って」


 タオロンの首に、ぎゅっとしがみつき、できるだけ小さな声でファンルゥが言う。内緒にするべき話だと、ちゃんと分かっているのだ。


「ねぇ、リュイセンを助けて、今晩、皆で逃げるんでしょ? もう、〈(ムスカ)〉のおじさんの言うことなんか、きくもんか! って」


「ファンルゥ……、お前……」


 タオロンは、太い眉の下の目をいっぱいに見開く。


 小さな子供だから、何も分かっていないと思っていた。


 好奇心旺盛なだけの、おてんば娘だと思っていた。


「ファンルゥ……!」


 無骨なタオロンは、こんなときにぴったりな、うまい言葉など知らない。だから、守り抜くという意思表示として、大切な娘を抱きしめる。


 そして、彼女の耳元で、これからのことを説明する。


「ルイフォンから連絡があったんだ。お前の言う通り、リュイセンを助けてほしい、って。――でも、俺が助けたのが〈(ムスカ)〉にばれたら、この部屋の外にいる見張りが入ってきて、ファンルゥ……お前が殺されるかもしれない」


「……っ! ファ、ファンルゥは、上手に隠れている……ね!」


 脅えた声を上げながらも、彼女なりの策を練る娘の頭を、タオロンは大きな手で包み込んだ。


「安心しろ。ルイフォンは、ちゃんとお前のことを考えていて、先に逃げるようにと言っている。――お前は、寝る時間になったら、電気を消したあと、ベッドじゃなくてメイシアの部屋に行くんだ。メイシアとふたりで待っていてくれ」


 それが、ルイフォンからの指示だった。


 本当はファンルゥが眠くなる前に移動させたいのだが、夕食の時間帯は、私兵たちが交代で食堂を利用するために、あちこちに人の目がある。それで、ファンルゥが寝る前ということになったのだ。


「分かった。赤いピエロさんが出てきたら、ファンルゥはメイシアのところに行く」


 ファンルゥは、壁に掛けられた絡繰(からく)り時計を示す。


 文字盤が読めなくても、時報で出てくる絡繰(からく)り仕掛けのピエロの色が、時間を教えてくれるのだ。これもまた〈(ムスカ)〉が用意した子供のための品のひとつで、ファンルゥのお気に入りである。タオロンとしては複雑な気持ちだが、役に立ってくれるのはありがたかった。


 ファンルゥは、父親そっくりの太い眉に強い意思の力を載せ、満面の笑顔を浮かべる。


「パパ、行ってらっしゃい! 頑張って!」


「ああ、頑張ってくる」


 タオロンも、笑いながら部屋を出た。






 夜が更けてきた。


 荒くれ者の私兵たちでも、得体の知れぬ〈(ムスカ)〉は怖いらしく、夜番以外は決められた時間になれば部屋に籠もる。


 館内の気配が鎮まってきたのを感じたタオロンは、時計を確認し、バンダナの結び目に手を触れた。武器は武器庫で管理されているため、愛用の大刀は手元にはないが、〈(ムスカ)〉の雇った私兵ごとき、『魔法のバンダナ』さえあれば素手で充分だ。


 ファンルゥは、もう部屋を出たことだろう。


 彼もまた、行動を開始すべきときだ。


 タオロンは『〈(ムスカ)〉の見張りから、リュイセンの救出に移る』と、ルイフォンにメッセージを送り、現場に向かいはじめた。


『反省房』とはいっても、館内に牢があるわけではない。


 何故なら、この庭園は何代か前の王の療養施設であり、不始末をしでかした使用人は、即刻、処分を言い渡される。反省を促すための場所など必要ないのだ。


 だから、〈(ムスカ)〉が『反省房』と呼んでいるのは、館の(すみ)のほうにある、日当たりの悪い部屋のことだ。地下研究室からは距離があるため、タオロンは自然と急ぎ足になっていた。


 墨を溶かし込んだかのような暗い廊下に、月明かりが差し込む。普段、使っていない区域であるため、電灯は点けられていないものの、夜目の効くタオロンには充分な明るさだ。


 しかし、反省房に近づくにつれ、彼の心臓は妙に落ち着きを失っていった。


 豪胆を誇りとする彼である。恐怖ではないと断言できる。けれど、それに近いような胸騒ぎがした。


 極力、足音を立てぬよう、気配を殺して先へと進む。


 やがて、この先の角を曲がれば、反省房まで一直線の廊下となる――そんな位置までたどり着いたとき……。


「!」


 鼻を突く、馴染みの感覚。


 血の臭いだ……。


 タオロンは太い眉をひそめた。喉仏が、こくりと動く。


「いったい、何が起こっていやがる……?」


 悪態をつくように呟き、彼は警戒に身を引き締める。


 どこからともなく吹いてきた初夏の風が、彼の背中を撫でた。この季節らしい、生ぬるさを運ぶはずの風が、しかし彼には、ひやりと冷たく感じられた。






 そして、そのころ――。


 ファンルゥの部屋で、絡繰(からく)り仕掛けの赤いピエロが踊る。


『さあ、窓からこっそり抜け出して、メイシアのいる展望塔を目指そう』


 軽快な音楽に乗って、ピエロはファンルゥを誘う。


 ――しかし、ファンルゥは、すっかり夢の中だった。


 これから起こる『わくわく』に興奮しすぎた彼女は、赤いピエロを待てずに、疲れ切って眠ってしまったのである……。



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