第7話
バンドのメンバーがメロディをほぼ完成させたオリジナル曲のための歌詞が出来上がるのを、メンバー達は首を長くして待っている。それ以外にも内緒で受けようとしているオーディション用のソロ曲も作る必要があった。どちらも急いで仕上げる必要がある。
どちらも同じように急いで完成させるつもりだった。2年前からボーカルとして所属しているバンドは、J-POP調の曲を作っていて、歌詞はそれに合わせた青春ラブソングだ。ありふれたラブソングだからこそ作る事は難しい。うっかりすると、どこかで聞いた事のある既視感たっぷりの青臭い田舎ソングになっていまう。
そして自分が作詞だけでなく作曲もするソロ曲。由紀子はフォークロック調でやや叙情的なものにしようと思っていた。その方が由紀子の趣味に合うし、今だからこそ流行るような気がしていたからだった。内緒で受けるオーディションだから、まだ誰にも聞かせたことが無い。でも今度の曲には自信があった。根拠のない自信かも知れないけど。そう思って不安を自分で打ち消しながら作ってきた曲だ。いや、根拠は有る。誰よりも練習してきたし、人よりも曲の進行に工夫を凝らして他のどの曲にも似ていない自分らしいものになってきたと思う。あとは細かい手直しをして仕上げるだけ。
五線譜の入った古いノートには、その曲だけでなく、これまでに作った曲、結局に没にした曲を含めて沢山の自分の作品が詰まっている。全て由紀子の大切なものだった。このノートは、まだプロでも何でもない歌好きの一人でしかない自分の全てだった。
「よーっし!」
なんだか急に気持ちが高ぶってしまった。ついつい声を出してしまい由紀子は赤い顔をした。肩をすくめてカウンターのを方を見やると、こちらを見ていた橘がさりげなく目を逸らすところだった。由希子はワザとらしい橘のリアクションにさらに顔を赤くした。「えっ」いまの眼の逸らし方、わざとらしぃ・・・。 いくらなんでも下手すぎるでしょう。もう少し上手に気を遣えないものだろうか。由紀子はどん臭い感じのする、というか橘的な感じの男にイラッとする。
そのとき、扉が開いてまた人が入ってきた。「うぉーい、戻ったぞぉ」先ほど一瞬聞こえた熊のような声と同じだった。その声の持ち主はいつの間にか出掛けていたらしかった。「マスターお帰りなさい」奥からひょっこり橘が顔を出して言った。この男がマスター。さっき有藤裕美が言っていた店長と思われた。年の頃は40歳前後だろうか、声の通り熊のような巨漢である。おまけに顎の回りには荒っぽく刈り揃えられた髭が蓄えられていて、野生感に満ちた表情をしていた。この図体で子供が身に着けるようなジーンズ生地のオーバーオールを着ているのは可愛いと言えなくもないが、大目に見てもプロレスラーにしか見えない。マスターは、カウンターの奥から森のような濃緑色のエプロンを出して腰に巻きつけた。というより巻きつく事に驚く。あの太鼓のようなウエストに巻かれたのは割とお洒落なデザインのエプロンに見えるが、例えるなら金太郎の赤い前掛けみたいな小さなサイズに見えた。可笑しいやら、微笑ましいやらと思い由希子が目をぱちくり見ていると、その熊と目が合った。マスターは、なぜか流し目で二カッと微笑んだ。流し目と髭に違和感が有りすぎて噴き出しそうになったが堪えた。きっと本人は爽やかなマスターの気分でいるに違いないからだ。
それにしても、あのマスターと超が付く有名女優の有藤裕美が知り合いだなんて。不思議なこともあるものだ。ひょっとすると、有藤裕美はこの近くに住んでいて、このお店の常連客なのかもしれない。
「いらっしゃいませ、ゆっくりしていってね。うちは美人のお客様は大歓迎だからさ、ガハハハ」
ホルンの音のように豊かに響く低音だった。「ピザ、もう一枚食べたくなったら言ってね。僕が焼くともっともっと美味しいからね、グァハハハ」歌手志望の由希子としてはマスターの渋い声は評価したい。でも話す内容には減点をする他なかった。ただただ底抜けに明るいだけで知性の底まで抜けているのではないかと思われる。
楽しいレストランだし、ピザの味も格別だって事は良くわかった。「でも私、初対面なんですけど」絶対に聞かれないように由紀子は呟いた。




